第3話 昨日の会話を、誰も覚えていない
翌朝、レオンは目を覚ますと、着替えるより先に机の上の紙を読んだ。
昨夜、自分で置いたものだ。
明朝、最初にこの記録を読むこと。昨日と今日、二日続けて町役場で同じ質問をしている。自分とハインツ双方の記憶を確認する。
文章を最後まで読み、レオンはしばらく動かなかった。昨日、町役場へ行き、道路管理担当のハインツに旧第七支線とルテラ村について尋ねたことは覚えている。問題はその前日で、《定録》には同じ役場で、同じ相手へほとんど同じ質問をしたと残されているのに、その行動も会話も記憶にはまったくなかった。
二日前の昼食を思い出せない程度なら、単なる物忘れで済ませられる。しかし、珍しい村を調べ、《定録》で翌日の自分へ指示まで残した一連の出来事が抜け落ち、そのうえ昨日のハインツもレオンと初めて会ったように応対した。一度の確認で結論は出せないが、偶然や二人揃っての物忘れだけで説明するには無理が生じ始めていた。
レオンは新しい紙を取り出した。
本日の目的。町役場でハインツにルテラ村について再度質問し、過去二回の面会を記憶しているか確認する。
内容を《定録》で固定してから、紙を内ポケットへ入れた。
◇
「また来たんですか」
町役場でレオンの顔を見たハインツは、わずかに困ったような表情をした。
「私のことは覚えているんですね」
「昨日来たでしょう。旧道のことを聞きに」
「では、一昨日にも私と会った記憶はありますか」
「一昨日?」
ハインツはしばらく考えたあと、首を振った。
「いや。昨日が初めてだったと思いますけど」
「私の記録では、一昨日にもここへ来ています。昨日とほぼ同じように、旧第七支線とルテラ村について質問しました」
「またその話ですか」
レオンが二日前の《定録》を見せると、ハインツは紙を受け取り、何度か自分の名前と文章を見比べた。
「確かに俺と話したことになってる。でも、全然覚えてないですね。これ、本当に一昨日の記録なんですか?」
「日付は一昨日ですし、《定録》による記録なので、私自身がその場で確認した内容であることは間違いありません。ただ、私にもその会話の記憶がありません」
「じゃあ、二人揃って忘れてるってことですか。何です、それ。何かの魔法?」
「その可能性も含めて調べていますが、まだ何も分かっていません」
「聞いてるだけで嫌だなあ……」
ハインツは紙を返しながら、露骨に顔をしかめた。
「それで今日は何を確認するんです?」
「昨日と同じ情報をもう一度お伝えします。明日、その内容を覚えているか確かめたいんです」
「完全に実験台ですよね、俺」
「協力者です」
「言い方変えただけじゃないですか」
そう言いながらも、ハインツは椅子を引き直した。
レオンは昨日と条件が変わらないよう、伝える内容を絞った。
「ルテラ村は現在の地図には存在しませんが、二十年前の地図には記載があります。人口は百三人で、十八年前まで戸籍も残っています。昨日も同じ内容をお話ししました」
「それを、今日はまったく覚えてないわけですね」
「はい」
「じゃあ俺も何か残しておいた方がよさそうだな」
ハインツは自分の机から紙を一枚取り、大きめの字で書き始めた。
明日、王立記録院のレオン・フェルナーが来る。今日、ルテラ村について話した。
「これを机の正面に置いておきます。忘れても、少なくとも何かあったことくらいは分かるでしょう」
「助かります」
「でも、本当に明日また何も覚えてなかったら、ちょっと嫌ですよ」
「私も同感です」
「そこは『大丈夫です』くらい言ってくれてもいいんじゃないですか」
「大丈夫だと言える根拠がないので」
「そういうところなんでしょうね、フェルナーさんって」
なぜか、ほとんど初対面の相手からまで同じようなことを言われた。
◇
資料保管所へ戻ると、今度はエッカルトにも昨日のことを確認した。
「役場で何か分かったか?」
「その前に確認させてください。昨日の夕方、私がハインツという役場職員について話したのを覚えていますか。同じ質問を二日続けてしていて、私も相手も一日目の会話を忘れている可能性がある、という内容です」
エッカルトは天井を見るようにしてしばらく考えた。
「ハインツなら知ってる。道路担当の若いのだろ。でも、お前からそんな話を聞いた覚えはないな」
「記録には残っています」
レオンが紙を見せると、エッカルトは眼鏡を直して読み始めた。
「俺、本当にこれ聞いたのか?」
「はい」
「お前が二日続けて役場へ行って、二人とも最初の日のことを忘れてた、と。……悪いが、まったく出てこない」
「では昨日の夕食や、昼間に何をしていたかは覚えていますか」
「夕飯は豆の煮込みで、パンが妙に固かった。昼には二階の窓を直したし、午後には王都から古い行政資料が三箱届いた。まだ開けてない」
どれも正しい。
「昨日一日を忘れているわけではないんですね」
「そうらしいな。お前とルテラ村について話したところだけ、きれいに抜けてる」
「村の名前自体は覚えていますか」
「古い戸籍が見つかった村だろ。……いや、待て。今お前が言ったから分かるだけかもしれん」
エッカルトは戸籍簿を眺めながら、納得できないように首を傾げた。
「これを最初に見つけたときにも説明された気はするんだが、その場面を思い出そうとすると曖昧になる。何だこれは」
「私も同じです」
エッカルトは昨日の食事や作業を具体的に説明できるため、一日分の記憶が丸ごと消えたわけではない。抜けているのはルテラ村に関する情報と、それについて会話した経験だけであり、現象には何らかの選択性があるように見えた。
◇
午後になると、レオンはもっと単純な条件で比較することにした。
複雑な情報をいくつも覚えようとすれば、単なる記憶違いとの区別がつきにくい。そこでレオンは、ルテラ村に関係する情報と無関係な情報を同時に覚え、翌朝まで残るものを比較することにした。
「エッカルトさん。三つだけ覚えてもらえますか」
「今度は試験か?」
「一つ目は、保管所の裏庭に赤い桶があること。二つ目は、ルテラ村の人口が百三人であること。三つ目は、明日の昼食用に私がパンを買うことです」
「最後のは最初、俺に買わせるつもりだったんじゃないか?」
「比較用なので、誰が買っても構いません」
「なら自分で買え」
「そうします」
レオン自身も、裏庭の赤い桶、ルテラ村の人口百三人、翌日の昼食用のパンという三つを意識して覚える。視覚的な事実、調査対象に関する数字、未来の予定を並べておけば、翌朝にどの情報だけが失われたのか比較しやすい。
◇
翌朝、レオンが目を覚ますと、昨日役場へ行ったことも、エッカルトと実験をしたことも覚えていた。
裏庭に赤い桶があることと、昼食用のパンを買うことは自然に思い出せる。それなのに、実験のためもう一つ覚えたはずの内容だけが出てこなかった。
机の上の記録を確認すると、そこにはルテラ村、人口百三人と書かれている。
読めば意味は分かるし、戸籍を開けば百三人の名前があることも理解できる。だが、昨日の自分が「この数字を明日まで覚えておこう」と意識した感覚は、どこを探しても記憶の中に見つからない。
保管所へ向かい、出勤してきたエッカルトにも同じ質問をした。
「昨日覚えてもらった三つ、思い出せますか」
「裏庭の赤い桶。それから、お前が昼飯のパンを買う」
「もう一つあります」
「……駄目だな。何だった?」
「ルテラ村の人口です。百三人」
「ああ、言われた気もする。だけど、自分で思い出せと言われたら絶対に出てこないな」
「パンは覚えていたんですね」
「昼飯は大事だからな」
「赤い桶よりも?」
「赤い桶よりは大事だ」
昼食の重要性だけで説明できる結果ではなかった。レオンとエッカルトの双方で、三つのうちルテラ村に結びつく情報だけが翌朝までに抜け落ちている。知識そのものを失う場合と、以前それを知った経験だけが消える場合の違いまでは分からないが、普通の記憶だけを頼りに調査を続けることが危険なのは明らかだった。
◇
最後に町役場へ向かった。
ハインツは自分の机に座っていたが、レオンを見るなり昨日の続きを話し始める様子はなかった。
「おはようございます。昨日のこと、何か覚えていますか」
「昨日……?」
ハインツは眉を寄せたあと、自分の机の正面に置かれた紙に気づいた。
明日、王立記録院のレオン・フェルナーが来る。今日、ルテラ村について話した。
「あれ、これ俺の字ですよね」
「昨日、あなた自身が書きました」
「まったく覚えてないです。フェルナーさんが来たこと自体も、言われれば前にも会った気がするくらいで……何を話したのかは全然出てこない」
「昨日は、現在の地図に存在しない村について説明しました。十八年前まで戸籍があり、人口は百三人です」
「そう言われても何も戻ってこないですね。フェルナーさんの方は?」
「私も同じように一部を忘れています。昨日の行動自体は覚えていますが、ルテラ村に関係する内容だけ抜けることがあります」
「二人だけじゃないんですよね?」
「資料保管所のエッカルトさんにも同じ傾向があります」
ハインツはしばらく黙った。
「それ、本当にただの物忘れじゃないですね」
「私も、そう考えています」
昨日までなら、古い記録の辻褄が合わない理由を、行政処理のミスや資料の紛失、誰かによる改ざんに求めることもできた。しかし今は、ルテラ村について調べたり話したりした人間の記憶そのものが、時間とともに失われていると考えなければ説明できない事例が、三人分揃っている。
◇
資料保管所へ戻ったレオンは、新しい帳面を一冊用意した。
表紙にはルテラ村調査記録と書き、最初の頁に今後守るべき規則をまとめていく。
規則は三つにした。ルテラ村に関する調査内容は可能な限り《定録》で残し、行動だけでなく、その理由まで記録すること。そして毎朝、前日までの調査記録を最初に読み、失われた情報がないか確認することだった。最後に、それらすべての前提となる注意を自分自身へ書き加えた。
自分の記憶を信用しない。
普段のレオンは、自分が見聞きした事実を後世へ残すために《定録》を使う。しかし今回は、未来の自分が忘れることを前提に、現在の自分から必要な情報を引き継ぐために記録している。奇妙な使い方ではあるが、今のところ他に確実な方法はなかった。
◇
次に調べることにしたのは、ルテラ村戸籍簿を作成した人物だった。
最終頁の担当者欄には、これまでも何度か目を通していたはずの名前が記されている。
アルノー・フェルナー。
声に出して読んだ瞬間、レオンは妙な感覚を覚えた。
フェルナーという姓が同じだからではない。アルノーという名前そのものに、どこか聞き覚えがあった。
記憶を辿っていくと、幼い頃に祖父から聞いた話が浮かんできた。祖父には兄がいて、その人も王立記録院に勤めていたが、若くして病気で亡くなった。たしか、そういう話だったはずだ。
ところが、その記憶にはどうにも手応えがない。誰から、いつ聞いた話なのか思い出そうとすると、輪郭だけがぼやけていく。
レオンは王都から持ってきた私物の箱を開け、家族の系譜を簡単にまとめた古い手帳を取り出した。祖父自身が書いたものなので、少なくとも家族関係については自分の記憶より信用できる。
頁をめくると、祖父の兄としてアルノー・フェルナーの名前が見つかった。
職業は王立記録院記録官。死亡について記された欄まで目を移したところで、レオンは手を止めた。祖父から聞いたはずの病死という言葉は、どこにもない。
十八年前、西部勤務中に消息不明。後に死亡扱い。遺体未確認。
「……違う」
自分が覚えていた話とは明らかに違う。アルノーが消息を絶ったのは十八年前の西部地方で、ルテラ村の戸籍が途切れた時期と一致し、その戸籍簿の担当者欄には彼自身の名前が残されている。偶然と決めつけるには、条件が重なりすぎていた。
レオンはすぐに新しい紙を用意し、確認できた内容を《定録》で残した。
アルノー・フェルナー。レオン・フェルナーの祖父の兄。王立記録院勤務。十八年前、西部勤務中に消息不明。遺体未確認。ルテラ村戸籍簿の記録担当者と同名。
記録を固定した直後、調査帳面の間から一枚の紙が床へ落ちた。
拾い上げると、自分の筆跡だった。右下には《定録》の紋章があり、日付は三日前になっている。
レオンは嫌な予感を覚えながら、その内容を読んだ。
アルノー・フェルナーについて調べろ。
その下には、さらに続きがある。
お前は、この名前をすでに一度思い出している。
レオンは紙を持ったまま動けなくなった。
今日初めて大伯父とルテラ村の関係に気づいたつもりだったが、三日前の自分も、まったく同じところまで辿り着いている。その先には、もう一つだけ指示が残されていた。
もしまた忘れていたら、次は一人で調べるな。
レオンはしばらくその文字を見つめた。
ルテラ村を調べるたびに同じ発見をし、その事実を忘れ、過去の自分が残した記録を頼りにまた同じ場所まで戻ってくる。三日前の自分は、その繰り返しに気づいたからこそ、一人で続けるなと書いたのだろう。
レオンは調査帳面を閉じると、もう一度だけその指示を読み返した。
少なくとも今回は、その指示を無視する理由はない。次に必要なのは新しい資料ではなく、この調査に付き合い、レオンが忘れたときにも同じ事実を確かめられる人間だった。




