第2話 地図にない百三人
翌朝、レオンは出勤すると、まず机の上に置いておいた紙を確認した。
ルテラ村戸籍簿を確認すること。
日付は四日前。筆跡は自分のもので、右下には《定録》の紋章があり、昨夜から何度確かめても、その事実だけは変わらなかった。つまりレオンは四日前、すでにルテラ村戸籍簿へ辿り着き、未来の自分へ指示を残している。それなのに、何を見て何を考えたのかはまったく思い出せない。
単なる物忘れも検討したが、四日前の昼食が思い出せないのとは事情が違う。珍しい戸籍簿を見つけ、《定録》まで使った出来事だけが跡形もなく抜けている以上、何もなかったことにして仕事を続ける気にはなれなかった。
「朝から難しい顔してるな」
エッカルトが湯気の立つ茶を持ってきた。
「いつもこんな顔かもしれません」
「いや、今日は三割くらい固い」
「細かいですね」
「二十七年も人の顔見てりゃ分かる」
「資料の場所は分からないのに?」
「人間と紙は違う」
理屈になっているような、いないような返事だった。
レオンは机の上の紙を伏せてから尋ねた。
「昨日のことを覚えていますか」
「何だ急に」
「私がルテラ村の戸籍を見つけました」
「ああ。変な村のやつだろ」
「覚えているんですね」
「昨日の話くらい覚えてる」
「では、戸籍に記録されていた人口は?」
「そこまでは知らん」
「百三人です」
「へえ」
「村名は?」
「今お前が言っただろ。ルテラ村」
少なくとも、昨日の会話に関するエッカルトの記憶には不自然なところがない。レオンは、相手が村名と戸籍発見の経緯を覚えていたことも比較材料として記録した。
「今日は地図を調べます」
「古地図なら二階の奥だ」
「昨日は、どこに何があるか分からないと言っていませんでしたか」
「大体は分かるんだよ」
「便利な表現ですね」
◇
現在の西部地方地図を机いっぱいに広げ、旧ファルン郡を中心に、レダ村やヘッセン、周辺の河川、山道、主要街道を端から端まで追った。しかし、ルテラ村という名前はどこにもない。戸籍の最終記録が十八年前なら、現在は廃村になっていても不思議ではなく、ここまでは予想の範囲内だった。問題は、村がなくなった経緯を示す記録が見つからないことである。
レオンは十五年前の地図を取り出した。現在とは道の形が多少違うものの、やはりルテラ村はない。
次に二十年前の地図を広げる。紙は古く、端が何ヶ所か破れていた。
旧ファルン郡の北西部。山地へ入る少し手前で、レオンの指が止まった。
「……あった」
小さな文字で、確かにルテラ村と記されている。
村から南へ向かって一本の細い道が延びていた。現在の地図には、その道も存在しない。
念のため、さらに古い二十三年前の地図を確認すると、同じ場所にルテラ村があり、道の位置もほぼ一致していた。
二十三年前と二十年前の地図には存在し、十五年前には消えている。戸籍が途切れたのが十八年前であることを考えれば、地図から村名がなくなった時期とも矛盾しなかった。
「エッカルトさん。少し見てもらえますか」
「今度は何だ」
二十年前の地図を見せ、ルテラ村の位置を指した。
「ああ、書いてあるな」
「見覚えはありますか」
「ない」
「この道は?」
「昔の支線か何かじゃないか?」
「現在の地図にはありません」
「山側の道なんて、使われなくなれば消えることもある」
「村ごと消えることも?」
「それは知らん」
エッカルトは地図を覗き込みながら首を傾げた。
「こんなところに村なんてあったかな」
「二十年前も、この保管所にいましたよね」
「いたよ」
「その頃の記憶にもありませんか」
「人口百人程度の山村だろ。俺だって西部の村を全部覚えてるわけじゃない」
人口百三人の小さな村に直接関わっていなければ、存在を知らなくても不自然とは言い切れない。それでも、二十年前からこの保管所にいたエッカルトが、地図を見ても何一つ思い出せないという事実は、断定材料にはならないままレオンの違和感を一つ増やした。
◇
次に税務記録を確認した。村が存在していたなら、農地や家屋に課された税の記録が残っているはずである。
十九年前の旧ファルン郡徴税記録を開くと、村別一覧の中にルテラ村の名前が見つかった。その前年、そのさらに前年にも同じ名前がある。
ところが、十八年前の記録では事情が変わっていた。
村別一覧から、ルテラ村だけが消えている。
廃村になったのなら、それで説明できそうにも見える。そこでレオンは、同じ年の郡全体の税額を確認した。
村別に記載された税額をすべて足し直し、転記や計算の誤りがないことを確かめるため、もう一度同じ計算を繰り返した。
「合わないな……」
帳簿に記された郡全体の総額は、村別税額の合計より多い。その差額を前年のルテラ村の税額と比べると、ほぼ同じだった。
農作物の出来や人口の増減によって税額は毎年変わるため完全な一致ではないが、偶然と片づけるには近すぎる数字だった。村名は一覧から消えているのに、郡全体の税額にはルテラ村の分と思われる金額が含まれている。
通常の廃村処理なら、翌年から税収そのものがなくなるか、他村へ統合され、その経緯が別の記録に残る。だが目の前の帳簿は、村の名前だけを一覧から抜き取り、数字だけを総額の中へ残したように見えた。
「改ざん……?」
思わず口に出したものの、すぐに首を振った。
もし誰かが意図的に記録を書き換えたのだとしても、人口百人程度の小さな村を消すために、これほど回りくどい処理をする理由が分からない。
◇
午後は廃村、住民移転、災害関係の記録を調べた。
十八年前の旧ファルン郡には、大規模火災の記録も洪水の記録もない。土砂災害、疫病による封鎖、集団移転、行政統合も確認できなかった。戦闘が起きた記録もなく、少なくとも村一つが突然消える理由になるような出来事は見つからない。
レオンは調べ終えた資料を机の上へ並べ、そこまでに判明したことを整理した。戸籍と二十年前の地図は、十八年前まで百三人が暮らす村が存在したと示している。一方、同年の税務記録では村名だけが消え、郡全体の税額にはその分らしき数字が残っているにもかかわらず、廃村の理由を示す行政文書は見つからない。
どれか一つなら、資料の紛失や担当者のミスで説明できるかもしれない。だが、別々の部署で作られた資料が、同じ村についてだけ異なる形で不自然になっている。偶然を重ねれば説明できなくはないものの、別の可能性を調べる理由は十分にあった。
次に確認すべき資料を考え、レオンは二十年前の地図に残る道へ目を留めた。村が行政上存在していたなら、そこへ至る道路にも維持記録が残っているはずだった。
◇
旧ファルン郡道路維持台帳を調べると、十八年前の記録に旧ファルン郡第七支線という道路が見つかった。
説明欄には、レダ村付近から分岐してルテラ村に至る道だと明記されている。
さらに同じ年の秋には、路面補修と橋梁点検を行った記録まであった。
つまり、戸籍が途切れたその年まで、行政はルテラ村へ続く道を維持していたことになる。
古地図と道路台帳を照合すると、現在の街道から北西へ分かれ、森を抜けて山地へ向かう経路が一致した。廃道になって十八年が経っているなら草木に覆われている可能性は高いが、地形まで変わっていなければ、路面や構造物の痕跡は残っているかもしれない。現地を確認する価値はあった。
◇
翌日、レオンが町役場を訪ねると、道路管理担当のハインツという三十代の男性が応対した。
「旧第七支線ですか?」
「はい。レダ村の北西から山側へ延びていた道です」
「今はそんな名前の道はありませんね」
「十八年前の道路台帳には残っています」
持参した写しを見せると、ハインツは内容を読み、説明欄にある村名で首を傾げた。
「ルテラ村……?」
「ご存じですか」
「いえ。聞いたことないですね」
「十八年前までは存在したようです」
「廃村ですか?」
「それを調べています」
ハインツは古地図も確認した。
「この位置なら、今の北西林道と途中までは同じかもしれません」
「その先へ行けますか」
「古い林道はいくつか残っていますけど、使われていない道は崩れているところもあります。熊も出るので、一人で入るのはやめた方がいいですよ」
「案内できる方に心当たりはありますか」
「猟師か、公営飛脚なら古い道に詳しい人がいるかもしれませんね」
「分かりました。探してみます」
レオンは候補となる道の位置を記録し、役場を後にした。
ハインツとの会話には特におかしな点がなく、レオンは旧道の入口と思われる位置と、案内役の候補だけを記録して役場を後にした。
◇
資料保管所へ戻ったのは夕方で、レオンは机に座ると、その日までに確認した内容を一つの記録へまとめ始めた。
現在の地図にルテラ村は存在しないが、二十年前と二十三年前の地図には記載がある。十八年前の税務記録では村名が消えている一方、郡全体の税額には前年のルテラ村に近い額が含まれている。また、同年の道路維持台帳にはルテラ村へ続く第七支線の修繕記録が残っていた。
さらに今日、町役場のハインツから、旧道の入口と思われる位置について情報を得た。
そこまで《定録》で固定し、明日以降の調査予定を書こうとしたときだった。
机の引き出しに、一枚の紙が入っていることに気づいた。
見覚えがないというだけで、昨日の戸籍簿の件を思い出した。嫌な予感を覚えながら紙を取り出すと、案の定、自分の筆跡だった。
日付を確認する。
昨日。
「昨日……?」
レオンの記憶では、昨日は一日中この資料保管所にいて、地図と税務記録を調べていたはずだった。
しかし、紙には《定録》による行動記録が残されている。
午後二時十分、町役場を訪問。道路管理担当ハインツへ、ルテラ村および旧第七支線について質問。ハインツはルテラ村を知らないと回答。
レオンは今日の記録と、昨日の日付が入った紙を並べた。内容はほとんど同じで、昨日も町役場へ行き、同じハインツに会って同じ村について尋ねている。それなのに、自分にはその記憶がない。
さらに紙の下部には、《定録》で固定されていない普通の筆記が続いていた。急いで書いたのか、普段より少し文字が乱れている。
明日、もう一度同じ質問をしろ。そして、自分が昨日ここへ来たことを覚えているか確認しろ。
そこまで読んだところで、レオンは今日の役場での会話を思い返した。
今日のハインツは、レオンを初めて見る人間として扱っていた。昨日も同じ質問を受けていたのなら、彼もまた、その会話を覚えていなかったことになる。
レオンはしばらく二枚の記録を見比べたあと、新しい紙を取り出した。
明日の自分が、今度こそ見落とさないように大きく書く。
明朝、最初にこの記録を読むこと。昨日と今日、二日続けて町役場で同じ質問をしている。自分とハインツ双方の記憶を確認する。
《定録》で固定し、机の中央へ置いた。
これまで調べていたのは、なぜルテラ村が記録から消えたのかという問題だった。しかし昨日と今日の記録が正しいなら、調べるべきことはもう一つある。ルテラ村について話した記憶そのものが人から失われており、今のところその現象を免れているように見えるのは、人間の記憶ではなく、紙の上に残された記録だけだった。




