第1話 役立たずの記録魔法
二十四歳のレオン・フェルナーは、王立記録院地方統計課で働き始めて三年になるが、自分の魔法が世間でいう「役に立つ魔法」だと思ったことはほとんどない。《定録》でできるのは、本人が直接見聞きし、読解し、測定した内容を寸分違わず紙へ写し取ることだけで、敵を倒すことも傷を癒やすこともできなければ、失われた古代文字を解読したり、相手の嘘を見抜いたりする力もなかった。
たとえば誰かが「今年の収穫量は昨年の二倍だった」と嘘をついても、《定録》が残すのは、その人物がそう発言したという事実でしかない。収穫量が本当に二倍だったかどうかまでは教えてくれない一方、一度固定した内容は後から書き換えられないため、原本と照合した帳簿や報告書なら改ざんを防げる。その性質を買われ、王立記録院では多少重宝されているものの、世間一般から見れば、せいぜい事務仕事に向いている程度の地味な魔法だった。
ところが今、その地味さゆえに融通の利かない魔法が、レオンの人生を少しばかり面倒な方向へ動かそうとしていた。
「フェルナー。この数字、もう一度確認してくれ」
上司が机の上へ置いたのは、東部三郡から提出された今年度の穀物収穫量集計だった。
レオンは書類を受け取り、すでに何度も確認した数字を、指示どおり最初からもう一度追った。計算にも転記にも誤りはなく、結果が変わる余地はない。
「三郡合計で前年対比九十二・六パーセントです。雨量不足の影響が大きく、特に南側二郡の減収が目立ちます。各郡から届いた原本とも照合済みです」
「そうじゃない」
上司は声を潜め、九十二・六という数字を指先で叩いた。
「ここだ。もう少し上にならないか」
「集計方法を変更するということでしょうか」
「やり直して増えるなら、それでもいい」
「元になる報告値が同じなら、何度集計しても同じ数字になります」
上司はしばらくレオンの顔を見たあと、諦めたように椅子の背へ体を預けた。
「君は本当に話が通じないな」
「何か計算方法に問題がありましたか」
「そういう意味じゃない。来月、陛下の年頭声明がある。今年は農政改革の成果が現れた年として発表する予定なんだ。それなのに、王立記録院の統計が前年比九割では格好がつかん」
「ですが、実際に九十二・六パーセントです」
「だから、そこを九十八程度にできないかと言っている」
そこまで言われれば、さすがのレオンにも意図は分かった。本当は最初から察していたのかもしれないが、数字の確認を求められているだけだという可能性を、なるべく長く残しておきたかったのだ。
「できません」
「即答するな」
「実際の数字と違いますから」
「東部全体の収穫量なんて、誰かが一俵ずつ数えたわけでもない。地方から上がってくる報告にも多少の誤差はあるだろう。その範囲で推計を調整すればいい」
「誤差がある可能性と、根拠なく数字を書き換えることは別の話です」
「根拠なら、農政改革による増産効果がある」
「その効果を示す資料がありますか」
上司が黙ったので、レオンもそれ以上は追及しなかった。数字を変更する根拠がない以上、異なる結果を記録することはできない。上司にとっては政治や体面を含む話でも、レオンにとって判断に必要なのは、その一点だけだった。
しばらくして、上司は深いため息をついた。
「その集計、君の《定録》で作ったんだったな」
「はい。各郡から届いた原本と照合したうえで固定しています」
「なら、今ある表の数字を書き換えるのは無理か」
「できません」
《定録》によって固定された文書は、普通の紙とは少し違う。文字を削っても元に戻り、上から別のインクを重ねても定着しないため、帳簿を改ざんから守るうえでは便利だが、今の上司にとっては邪魔でしかないらしい。
「だったら、新しく作り直せ」
「実際の報告値とは異なる内容で、ですか」
「そうは言っていない」
「では、どの数字を記録すればよろしいでしょう」
「九十八だ」
「その根拠は?」
「フェルナー」
今度こそ、上司の声に苛立ちが混じった。
「世の中には、正しい数字をそのまま書けば済む仕事ばかりではないんだ」
「記録院は、正しい数字を残すための場所だと思っていました」
「そういうところだぞ、君は」
「どういうところでしょう」
「本気で聞いているのか?」
「はい」
上司は両手で顔を覆った。
◇
三日後、レオンは地方統計課から外された。正式な辞令には「地方記録管理体制の強化に伴う人員配置」と書かれていたが、新しい勤務地は王都から馬車で七日かかる西部辺境資料保管所である。
「これ、どう考えても左遷だろ」
辞令を見た同僚のユリウス・ケインが言った。
「そうなんでしょうか」
「他に何があるんだ。王立記録院本院から、辺境の古文書倉庫だぞ」
「古文書の管理も記録院の業務です」
「そういうところだよ、お前は」
「それ、最近よく言われます」
ユリウスは呆れたように笑ったあと、周囲に聞かれないよう少しだけ声を落とした。
「数字の件、断ったんだろ?」
「はい」
「適当に新しい表を作れば済んだのに」
「済みません」
「まあ、お前ならそう言うと思ったよ」
慰めているのか馬鹿にしているのかは判然としなかったが、ユリウスなりに気に掛けていることだけは伝わった。
「ほとぼりが冷めたら戻されるかもしれない。辺境では余計なことせず、大人しくしてろよ」
「普通に仕事をします」
「俺が言ってるのは、その普通の仕事の仕方を少し加減しろってことなんだけどな」
レオンは余計なことをするつもりなどなかった。ただ、ユリウスが問題にしているのは、その「普通」の中身なのだろう。最後まで話が噛み合わないまま、辞令だけが二人の間に残った。
◇
西部辺境資料保管所は、想像していた以上に資料保管所らしく、言い換えれば、ほとんど倉庫だった。二階建ての古い石造りで、一階の半分以上を木箱と書架が占領している。窓を開ければ埃が舞い、閉めれば紙と黴の匂いが籠もる有様で、王都の本院に整然と並んでいた書架とは、同じ組織の施設と思えないほど違っていた。
「王都から来たレオン・フェルナーです。本日付でこちらへ配属されました」
「ああ、聞いてる聞いてる」
迎えたのは、頭の半分ほど白くなった小柄な男だった。
「エッカルトだ。ここに二十七年いる」
「二十七年ですか」
「そう。おかげで、どこに何があるか大体分からん」
「分からないんですか」
「二十七年も資料が増え続ければ、そうなる」
それは二十七年の経験を示す言葉として、あまり誇らしいものではない。そう思ったものの、着任初日から指摘するのはやめておいた。
エッカルトは保管所を案内しながら、棚を適当に指していく。
「最近の行政記録はこっち。古い土地台帳は奥。税務資料は二階だ。ただし、昔の担当者が勝手に移した資料も多いから、目当てのものがなくても別の棚を探せ」
「整理し直した方がよくありませんか」
「俺も二十年前からそう思ってる」
「なぜやらなかったんです」
「忙しかった」
「二十年間?」
「色々あったんだよ」
案内が終わる頃には、当面の仕事を理解していた。目の前の資料を読む以前に、まずは必要な資料へ辿り着ける保管所にしなければならない。
◇
一週間後、レオンは古い村落戸籍を年代別に並べ直していた。小さな村が多い西部では統廃合や住民移転も珍しくなく、同じ地域でも年代によって行政区画が変わるため、村名だけの分類では後から目的の資料を探しにくい。《定録》で箱の中身と目録を一冊ずつ照合し、年代と行政区画を補いながら棚へ戻していく。
「レダ村、ファルン村、旧ヘッセン村……」
作業を続けているうちに、一冊だけ目録にない戸籍簿が混ざっていることに気づいた。かなり古い革表紙で、表面には薄れた文字が残っている。
ルテラ村戸籍簿。
「ルテラ村……」
聞いたことのない名前だったが、廃村になった小さな集落なら珍しくもない。この保管所には、現在の地図から消えた村の記録も数多く残されていた。
レオンは特に警戒することもなく戸籍簿を開いた。最終記録は十八年前で、人口は百三名、二十八世帯。住民一人ひとりについて住所、出生、婚姻、職業、死亡などが丁寧に記録されている。
妙なのは、戸籍簿が終わるまでの経緯がどこにも書かれていないことだった。村そのものが行政上なくなるなら、他村への編入、集団移転、災害による閉鎖など、戸籍管理を終了する事情が何らかの形で残る。ところが、この戸籍は最後の年までごく普通に住民の記録が続き、その翌年から何の説明もなく途切れていた。昨日まで存在した村が、次の日から突然、記録する必要すらなくなったように見える。
「エッカルトさん」
「んー?」
「ルテラ村という村をご存じですか」
奥で紙を束ねていた音が止まり、棚の陰からエッカルトが顔を出した。
「何村?」
「ルテラ村です。十八年前までの戸籍が残っています」
「知らんな」
「この辺りにあった村だと思うのですが」
「二十七年ここにいるが、聞いたことないぞ」
レオンは戸籍簿を持っていき、該当する頁を開いて見せた。
「ですが、この保管所に戸籍があります」
「そりゃ不思議だな」
エッカルトは本を受け取って数ページめくり、紙と綴じ方を確かめた。
「偽物には見えんな」
「紙と製本は当時のものです。行政印もあります」
「なら、昔はあったんじゃないか?」
「場所に心当たりはありませんか」
「知らんものは知らんよ。俺だって西部の村を全部覚えてるわけじゃない」
人口百人程度の小さな山村なら、直接関わっていない者が存在を知らなくても不自然とは言い切れない。エッカルトの返答だけを、異常の証拠として扱うべきではなかった。
レオンは戸籍簿を受け取って自分の机へ戻ると、今度は最初の頁から内容を丁寧に確認していった。
記録されている百三人には、名前だけでなく家族構成や職業、生年月日まで揃っている。行政印、年代、紙質のいずれにも不自然な点はなく、これほど具体的な戸籍を丸ごと偽造する理由も思いつかない。さらに最終頁まで読み進めたところで、隅に羽根ペンと閉じた本を組み合わせた小さな紋章があることに気づいた。それは、レオンが《定録》で文書を固定したときに現れるものと同じ印だった。
「《定録》で作られているのか……」
レオンは戸籍簿を机の上に置き直し、紋章が示す意味を順に考えた。
《定録》は未知の事実を勝手に教えてくれる魔法ではなく、記録者自身が直接見聞きした情報か、実際に確認した資料でなければ紙へ固定できない。つまり十八年前、少なくとも一人の《定録》使いが、ルテラ村についてこれだけ詳細な情報を確認していたことになる。村が実在した可能性は高まったが、そうなると、現在の担当者であるエッカルトが存在を知らず、廃村に至る経緯も戸籍に残されていないことが、かえって説明しにくくなった。
レオンは新しい紙を一枚取り出し、現時点で確認できている事実を書き留めた。
ルテラ村。十八年前まで戸籍記録あり。人口百三名。現担当者エッカルトは村名を知らない。
内容を《定録》で固定したあと、現在と過去の地図、税務記録、廃村や住民移転に関する行政文書を順に確認し、最後にこの戸籍簿を作成した記録官を特定する、という調査手順を書き加えた。
そこまで書いたところで、机の隅に置かれた一枚の紙が目に入った。見慣れた筆跡である。
「……何だ、これ」
何気なく拾い上げると、書かれていたのは一行だけだった。
ルテラ村戸籍簿を確認すること。
レオンは眉を寄せた。今日、この戸籍簿を見つけたのは初めてのはずだった。少なくとも、レオン自身はそう認識している。ところが紙の日付は三日前で、文字は間違いなく自分の筆跡だったうえ、右下には《定録》の紋章まである。他人が筆跡を真似ても印までは偽造できない以上、三日前にこの紙を作ったのはレオン本人でしかあり得ない。それなのに、戸籍簿を見つけたことも、自分へ指示を書き残したことも、記憶にはなかった。
椅子へ座り直し、紙に残された一文をもう一度読む。
文字は変わらず、記録そのものにも異常はない。《定録》によって残された事実だけが、三日前にも自分がルテラ村戸籍簿へ辿り着いていたと示している。
この紙が正しいのなら、消えているのは記録ではない。それを書いたはずの、レオン自身の記憶だった。




