第19話 誰も思い出さない
白紙計画の術式核が停止してから三日後、宮廷魔術局は正式な観測結果を出した。
術式反応はゼロで、一時的な低下ではなく、自己維持機構そのものが停止していることも確認された。
レオンたちが地下施設を出た直後から観測値は急速に下がり、その後一度も再上昇していない。少なくとも、十八年間続いていた認識消去の作用は終わったと考えてよかった。
「本当に止まったんですね」
ミレアが観測表を見ながら言った。
「現時点では、そう判断できます」
セラが答える。
「現時点では、って付けるんですね」
「研究者なので」
「レオンさんと同じだ」
「一緒にしないでください」
「何で私だけ否定されるんです?」
レオンが言うと、セラが少し笑った。
以前なら、ルテラ村について詳しく話すだけでも翌日には記憶が抜け落ちていた。
今は違う。
三日前に地下施設で何をし、アルノー・フェルナーの遺骨をどこで見つけ、ミレアが百三人の名前を読み上げたあと、三人で最終固定具を解除したことまで、レオンもミレアもトーマも覚えている。新しく得た記憶が消えないというだけで、術式の停止を日常の中でも実感できた。
ただし、もう一つ確かめなければならないことがあった。
「失われた記憶が戻る可能性は?」
レオンの質問に、セラは首を横に振った。
「少なくとも、術式停止だけで自然に戻るとは考えにくいです」
「やっぱり?」
ミレアが言った。
「あなた自身、三日経っても幼少期の記憶は戻っていないでしょう」
「はい。ルテラ村にいたってことは覚えてますけど、それは後から知ったことです」
セラは頷いた。
「そこが重要です。今のミレアさんには、『自分はルテラ村で生まれた』という新しい記憶があります。でも、それは戸籍や家屋を調べた結果として覚えたものです。三歳の頃に実際に経験した記憶が戻ったわけではありません」
「昔の記憶そのものは、もうない?」
「失われた情報が脳のどこかに残っている可能性までは否定できません。ただ、それを安全に取り出す方法はありません」
過去の停止実験では、無理に記憶を戻そうとして他人の記憶まで混ざった。
術式核が停止した今なら同じ現象が起きない可能性もあるが、それを確かめるために人間の記憶を実験材料にするわけにはいかない。
「では、戻さない方がいい」
レオンが言う。
「私もそう考えます」
セラは即答した。
「これから先に覚えたことが消えない。それだけでも状況は大きく変わりました」
◇
ヴァルター・クロイツにも、十八年前の記憶は戻らなかった。
王立記録院の院長室でアルノーの最終記録を見せたときも、彼は長い間それを読んでいたが、突然何かを思い出すようなことはなかった。
「やはり、顔は出てこない」
ヴァルターは金属板の写しを机へ置いた。
「アルノーの?」
「ああ。声もほとんど分からない。私が覚えているのは、これまで記録から読み直した事実ばかりだ」
ヴァルターは、十八年前にアルノーと西部へ行って白紙計画に関わり、ルテラ村の避難を進めたこと、地下施設で彼を止めようとして殴られ、最後には、術式が再び拡大した場合に最終固定具を解除すると同意したことまで説明できる。しかし、説明できることと覚えていることは違った。
「妙なものだな」
彼は言った。
「私はアルノーと何年も仕事をしていたらしい。意見が合わず、何度も喧嘩した記録もある。それなのに、今の私にとって彼は、君から聞いた人物像と自分の手帳の中にしかいない」
「私も似たようなものです」
レオンが答えた。
「親族ではありますが、会った記憶はありませんから」
「君は最初から知らなかった。私は知っていたはずなのに失った。そこは少し違う」
ヴァルターは金属板の最後の部分をもう一度読む。
誰か一人でも生きているなら。
名前を返してやってほしい。
「最後まで、あの男らしいことを書いている」
「それは思い出したんですか」
「いや」
ヴァルターは少し笑った。
「残っている記録を読めば、そういう人間だったらしいと分かるだけだ」
それでも、今度は翌日になってもその会話を忘れなかった。
◇
術式停止後、最初に連絡を取った生存者はエッダ・ロイスだった。
以前訪ねたとき、彼女は過去について「今すぐには知りたくない」と答えている。
その意思は変わっていないかもしれない。
だからレオンは、今回も最初から旧名を伝えることはしなかった。
「また来たんですね」
縫製店でエッダは少し驚いた顔をした。
「前回のことを覚えていますか」
「もちろん。昔の身元が見つかってるかもしれないって話でしょう」
レオンとミレアは顔を見合わせた。
以前なら、ルテラ村に直接触れた部分は消えていた。それでも今回、エッダは前回の調査そのものを普通に覚えている。
「何か変わったんですか?」
エッダが二人の反応に気づいた。
「以前お話しした特殊な事情が解消されました」
レオンは答えた。
「過去について知った場合でも、その内容を不自然に忘れる可能性は、今はほぼなくなっています」
「そうなんですか」
「はい。ただ、前回のご希望どおり、こちらから勝手にお伝えするつもりはありません」
エッダは少し考えた。
「だったら……もう少しだけ聞いてもいいですか」
「もちろんです」
「私がどこから来たか、分かってるんですよね」
「かなり高い確度で確認できています」
「家族がいたかも?」
「記録があります」
エッダの表情がわずかに揺れた。
「全部聞くかどうかは、まだ決めなくてもいい?」
「はい」
「じゃあ今日は、村の名前だけ教えてください」
レオンは一度だけ確認した。
「本当に、それだけでいいですか」
「まずは」
「分かりました」
以前は口にするだけでその後の記憶へ影響した名前も、今はもう危険ではない。
「ルテラ村です」
エッダは黙って聞いた。
「ルテラ」
「はい」
「……何も思い出さないですね」
「無理に思い出す必要はありません」
「そうですね」
エッダは小さく笑った。
「でも、これで一つ増えた。私は昔、ルテラって村にいたかもしれない。それだけ今日は覚えて帰ります」
「ここはあなたの店です」
「そうでした」
「言い方ですよ」
ミレアが笑い、エッダもつられて笑った。
次の日、レオンが念のためもう一度店を訪ねると、エッダは二人を見るなり言った。
「ルテラ村でしょう?」
その名前は、今度こそ彼女の中に残っていた。
◇
西部へ戻ってからも、同じ確認を続けた。
辺境資料保管所では、エッカルトにルテラ村について説明した。
「覚えてますよ」
翌朝、老人は不満そうに言った。
「昨日も同じ話したでしょう」
「確認です」
「毎朝やるのか?」
「必要なくなるまで」
「もう必要ないんじゃないか?」
「それを確認しています」
「面倒なやつだな」
ハインツも同じだった。
以前は何度説明しても翌日には忘れていたが、今は旧第七支線の先にルテラ村跡があることを覚えている。
「最初から知ってた気もしてくるな」
ハインツが言った。
「それは違います」
「分かってるよ。前に何度も忘れてたって記録を見せられたからな」
「昔の記憶は戻っていませんか」
「全然。昔から村を知ってた感じはしない。でも、昨日聞いたことは普通に覚えてる」
過去は戻らなくても、新しく知ったことが失われず、これから先を積み重ねられる。それで十分だった。
◇
グレン・ハースの反応だけは、少し違った。
「ルテラ」
古い測量図を広げながら、老人は何度かその名前を口にした。
「覚えてます?」
ミレアが聞く。
「お前らに聞いたことはな」
「昔のことは?」
「ほとんど出てこん」
グレンは山へ延びる道を指でなぞった。
「ただ……この曲がり方は嫌いだった気がする」
「曲がり方?」
「測量の話だ。ここは崖が近いから、本当ならもう少し南へ回したかった。でも軍が急がせた」
レオンはすぐに記録帳面を出した。
「それは記録から知った内容ですか」
「知らん。今、急にそう思った」
「他には?」
「せかすな」
「すみません」
しばらくすると、グレンは目を閉じた。
「白い光は覚えてる。いや……覚えてるって言い方でいいのか分からんな。前にも一度思い出したんだろ?」
「はい。ルテラ村に関する情報に触れたとき、断片的に」
「なら、その残りかもしれん」
完全に失われた記憶が戻ったわけではない。
ただ、術式によって押し流されることがなくなった結果、以前から残っていた断片を保持できるようになった可能性はある。
セラに報告すると、彼女もその程度ならあり得ると答えた。
それでも、過去の記憶が次々に蘇るようなことはなかった。
◇
王国が正式にルテラ村の件を認めるまでには、さらに一ヶ月近くかかった。
白紙計画は王命による研究だった。
事故が起きたあと、複数の王国機関が情報の分散と秘匿に関わっている。術式上の必要性があったとはいえ、百三人の住民が公的な記録から事実上消されたことまで正当化できるわけではない。
レオン、セラ、ヴァルターに加え、王立記録院、宮廷魔術局、西部行政、王国法務部門の担当者が協議に入った。
今度は、ルテラ村について話しても翌日には忘れることはない。
それだけでも十八年前とは大きく違った。
最終的な決定では、旧ファルン郡にルテラ村が存在したことを正式に認め、地図、戸籍、税記録その他の公文書へ村の存在を復元するとされた。アルノーが《定録》で作成した百三人の戸籍簿は正式な住民記録として認定され、白紙計画の事故によって村と住民に関する記憶や記録が失われた事実、および王国の責任も公的に残される。避難住民と親族の調査は本人の意思と安全を確認しながら継続し、戸籍簿そのものは王立記録院の永久保存資料となった。
「ずいぶん大きな話になりましたね」
決定文書を読んだミレアが言った。
「最初は戸籍簿一冊でした」
「そうでしたっけ」
「忘れたんですか」
「いや、覚えてますよ。言ってみただけ」
「紛らわしいのでやめてください」
ミレアは笑った。
もう、その冗談を本気で心配する必要もなくなっていた。
◇
新しい地図が西部行政所へ届いたのは、それから二週間後だった。
ハインツが広げた地図には、以前まで何もなかった山間部に一本の道路が復元されている。
復元された旧第七支線の先には、ルテラ村跡と記されていた。
「跡なんですね」
ミレアが言った。
「現在、生活している住民はいませんから」
レオンが答える。
「村として再登録するわけじゃない?」
「遺跡として保護する予定です。地下施設もありますし、無断で住める状態ではありません」
「そっか」
ミレアは地図の小さな文字を指で触った。
「でも、戻った」
「はい」
十八年前の村がそのまま戻り、住民百三人が帰ってくるわけではない。それでも地図の上には再び名前があり、誰かが開けば、そこにルテラという村があったことを知ることができる。
ミレアはその日の夜、養父ハルトへ短い手紙を書いた。
レオンが横から見ようとすると、紙を隠された。
「人の手紙を読まないでください」
「記録するつもりはありません」
「記録官って便利な言い訳ですね」
「見せる気がないなら見ません」
「一行だけならいいです」
ミレアが紙を少しだけこちらへ向けた。
そこには、
私の生まれた村が、地図に戻りました。
と書かれていた。
◇
術式が止まっても、誰も十八年前を完全には思い出さなかった。ミレアは母親の顔を知らないままで、ヴァルターもアルノーと過ごした日々を取り戻していない。エッダやグレン、ほかの生存者たちも、失った過去をそのまま抱えている。白紙になった部分へ昔と同じ文字が自然に浮かび上がることはないが、そこへ新しく書くことはできた。
エッダは自分がルテラ村にいた可能性を翌日も覚え、ハインツも地図に戻った村名を忘れなかった。ミレアも、自分がミレア・ルーウェンだったという事実を、もう毎朝紙で確認する必要はない。
失ったものが戻らないことと、何も取り戻せないことは同じではなかった。
レオンは新しく作られた地図を閉じ、王立記録院へ送る報告書の最後に記した。
白紙計画によって失われた過去の記憶について、自然回復は確認されていない。
続けて、
ただし術式停止後、新たに取得したルテラ村関連情報の記憶消失は確認されていない。
《定録》で固定する。
誰も失った過去を思い出さなくても、今度は知ったことを忘れずにいられる。十八年前にはできなかったことが、ようやく始まっていた。




