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記録官レオンと地図にない村  作者: 芹 透


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18/20

第18話 百三人の名前

ルテラ村へ向かう三人が西部へ戻ったのは、翌日の早朝だった。


 王都からの移動中にも、宮廷魔術局から術式核の観測値が届いている。出力は基準値の五倍を超えたまま上昇を続けており、少なくとも自然に収まる兆候はなかった。


 西部守備隊では、トーマがすでに準備を終えて待っていた。


「話は聞いた。今度は山の地下まで行くんだな」


「はい。十八年前にアルノーが途中まで実行した停止手順を完了させます」


「成功する確率は?」


「分かりません」


「やっぱり聞かなきゃよかった」


 トーマはそう言いながらも、装備の確認を続けた。


 前回より荷物は少ない。


 地下施設で動きやすいよう、食料や予備装備は必要最低限に絞っている。その代わり、現在地や行動目的を記した札は何種類も用意した。


 ただし、今回はそれだけを頼ることはできない。


 アルノーの記録には、第三隔壁以降では《定録》を読んでも目的を保持できないと書かれている。


「結局、最後はその場で何とかするしかないってことか」


 トーマが言った。


「そうなる可能性があります」


「一番嫌な種類の作戦だな」


 ミレアは自分の札を確かめながら笑った。


「でもトーマさん、来てくれたじゃないですか」


「二人だけで行かせる方が後味悪いからだ」


「優しい」


「護衛だ」


「今日は正式な任務?」


「……半分くらいな」


 トーマは誤魔化すように荷物を背負った。


     ◇


 旧第七支線へ入ると、以前より早い段階から記憶に違和感が出始めた。


 最初に目的地の名前が曖昧になったのは、森へ入って一刻も経たない頃だった。


 腕の記録を読めば、ルテラ村へ向かっていることは理解できる。それでも、その情報が頭の中に長く留まらない。


「前より強くなってますね」


 ミレアが自分の札を確認する。


「はい。村から同じくらい離れていた前回より明らかに早いです」


「術式核の出力が上がってるせいか」


 トーマも記録を読み直した。


「だったら帰りはもっと悪くなる可能性があるな」


「停止できなければ」


「嫌な言い方するな」


「事実なので」


「こういうときくらい濁せ」


 それでも三人は歩き続けた。


 今回は道を探す必要がない。


 前回残した記録と目印を辿り、忘れるたびに必要な情報だけを確認する。


 途中の旧休憩小屋を通ったとき、ミレアは一度足を止めた。


「ここ、何かありましたよね」


「あなたが過去の記憶を一瞬だけ思い出した場所です」


「雨と赤い布?」


「はい」


「今日は何も出てこないな」


 ミレアは石壁をしばらく見たが、それ以上思い出そうとはしなかった。


「行きましょう」


 以前なら記憶を探そうとしていたはずだった。


 今は、思い出せないものを無理に追わない。


 その代わり、残された記録を頼りに先へ進む。


     ◇


 昼前にはルテラ村へ着いた。


 入口に残された木札を見ても、以前ほど強い驚きはなかった。


 何度も記録で読んでいる。


 ここがルテラ村で、自分たちは北側の山へ向かう。


 その事実を理解するだけなら難しくない。


 しかし村へ入ると、記憶を保持できる時間はさらに短くなった。


 レオンは数分おきに首から下げた札を確認する必要があった。


 ミレアも同じように札を確かめていたが、十九番地の家の前まで来たところで立ち止まった。


 白地に青い五枚花弁の模様が入った陶器の破片が、今も玄関脇に残っている。


「ここ」


 ミレアが自分の記録を見る。


「私の家だった場所ですよね」


「はい」


「ダリオとエレナと、セイルと私」


「そう記録されています」


 ミレアは家を見上げたが、記憶が戻った様子はない。母親の顔も、父親の声も、兄と過ごした日々も思い出せてはいないはずだった。


 それでも彼女は少し迷ったあと、玄関へ向かって小さく言った。


「ただいま」


 レオンは記録帳面を開かなかった。


 今の言葉まで何でも記録する必要はないと思った。


 ミレアも説明を求めず、すぐに踵を返した。


「行きましょう。今度は帰ってくるために」


     ◇


 村の北側には、グレンの古い測量図に記された軍用道路が残っていた。


 十八年間使われていないため木々に覆われているが、荷車を通すために地面を削った跡や、石で補強された路肩は確認できる。


 道は緩やかに山へ入り、やがて岩壁の前で終わった。


「ここで途切れてるぞ」


 トーマが周囲を調べる。


「地下施設なら、入口が塞がれている可能性があります」


 三人で岩壁沿いを探すと、蔦に覆われた人工的な石組みが見つかった。


 土と植物を取り除くと、その下から金属製の扉が現れた。表面には王国軍の古い紋章があり、その横には、ほとんど読めなくなった注意書きが残っている。


 第七系列実験区画。許可者以外立入禁止。


「当たりですね」


 ミレアが言った。


「嬉しくはないけどな」


 トーマが扉を確認すると、鍵はすでに壊れており、誰かが力任せに破壊したような跡があった。


「アルノーでしょうか」


「十八年前からこの状態なら、可能性はある」


 三人は灯りを用意し、地下へ入った。


     ◇


 施設内部は想像していたより広かった。


 石造りの通路に、魔力を伝えるための金属線が壁沿いに走っている。ところどころに研究室や資材庫らしい小部屋があり、床には壊れた器具や空の魔石容器が散乱していた。


 机の上には資料が残り、椅子も倒れたままで、人が急いで退避したことは明らかだった。保存状態のよい紙もあったが、今は調査している場合ではない。


 レオンは進むべき経路だけを確認した。


 停止手順によれば、最初の制御環は施設入口から比較的近い位置にある。


 該当する部屋へ入ると、大型の金属環が壁に埋め込まれていた。


 ただし、それはすでに破壊され、環の一部が砕けて魔力を流す線も切断されていた。


「一つ目」


 トーマが確認する。


「アルノーがやった可能性が高いですね」


 二つ目の制御環もさらに奥の区画で見つかり、こちらもすでに破壊されていた。


 二つの制御環が破壊されている事実は、十八年前の観測記録を裏づけていた。アルノーは失敗したのではなく、実際に停止手順を一つずつ進めていたのだ。


「じゃあ、残ってるのは本当に最後だけ?」


 ミレアが尋ねる。


「記録が正しければ。ただ、その前に第三隔壁があります」


 それを口にした瞬間、自分が何について話していたのか曖昧になった。


 レオンはすぐに手元の紙を読み直した。


 紙に並ぶ「地下施設」「停止手順」「制御環」「最終固定具」という言葉の意味は理解できるが、文字から目を離すと、内容はたちまち薄れていった。


「もう始まってますね」


 ミレアも同じらしい。


 トーマが剣の柄へ手を置きながら言った。


「ここから先は、会話も記録もあまり当てにするな。誰かがおかしいと思ったら、すぐ止めるぞ」


 二人とも頷いた。


     ◇


 第二隔壁を越えると壁に文字が増えた。最初は研究員が残した注意書きだと思ったが、筆跡を見たレオンは足を止めた。


「アルノーです」


 壁へ直接、炭や刃物で書き付けてある。


 前へ。


 少し先には、


 戻るな。


 さらに、


 最終固定具。あと一つ。


 文章はどれも短い。


 長い説明を書いても、読む側が意味を保持できないと分かっていたのだろう。


 同じ言葉が、何度も何度も壁へ繰り返されている。


「自分に書いたのかな」


 ミレアが尋ねた。


「おそらく」


 十八年前のアルノーも数歩進むたびに目的を忘れ、壁を見るたびにまた前へ進めるよう、同じ指示を繰り返し残したのだろう。


 レオンがその跡を辿っていくと、やがて三枚目の巨大な隔壁へ行き着いた。扉の中央には、白く変色した魔石が埋め込まれていた。


「ここから先か」


 トーマが言う。


「記録がほとんど役に立たなくなるのは」


「はい」


「今なら帰れるぞ」


 レオンは自分の紙を確認した。


 紙にある「最終固定具を解除し、術式核を停止する」という指示は、まだ自分の行動として理解できた。


「進みます」


「私も」


 ミレアが答える。


 トーマは二人を見たあと、扉へ手を掛けた。


「だったら絶対に離れるな」


     ◇


 第三隔壁を越えた直後、レオンは自分がどこにいるのか分からなくなった。


 慌てて首の札を見る。


 札の文字は読めた。レオン・フェルナー。王立記録院記録官。という記述も理解できる。


 次の紙には、


 地下施設。最終固定具へ向かう。


 と書かれている。


 文章の意味は分かるのに、それが自分へ何を要求しているのかが繋がらない。


「レオン」


 誰かに名前を呼ばれた。


 顔を上げると守備隊の制服を着た男が立っており、札を見ればトーマ・ベルクという名前までは分かった。


「俺が誰か分かるか?」


「トーマ・ベルク」


「よし。ミレアは?」


 隣にいる女性も、記録によればミレアというらしい。


「分かります」


「俺は……」


 トーマが言いかけて、黙った。


「どうしました」


「俺、誰だった?」


 レオンは彼の首の札を掴んだ。


 トーマ・ベルク。西部守備隊。レオンとミレアを護衛する。


「トーマ・ベルクです」


「そうだった」


 トーマは紙を読んだ。


「守備隊……俺が?」


 自分の制服を見ても、すぐには納得できないようだった。


 そのとき、通路の奥から声が聞こえた。


 通路の奥から、子供の泣き声や誰かを呼ぶ声、兵士の怒鳴り声、馬の嘶きが重なって聞こえた。実際に地下施設で鳴っている音ではないはずなのに、三人にはすぐ近くの出来事のように感じられた。


「何です、これ」


 ミレアが耳を押さえた。


 そこへ、誰かを呼ぶ優しい女の声が重なった。


「……お母さん?」


 ミレアが呟いた。


「思い出したんですか」


「分からない。でも、今の声」


 声を追いかけるようにミレアが一歩踏み出したため、レオンは反射的に彼女の腕を掴んだ。


「離れないでください」


「でも」


「本物の記憶かどうか分かりません」


 これはヴァルターが話していた記憶汚染の逆流で、他人の記憶まで自分のものとして経験しているのかもしれない。今聞こえる声がミレア自身の過去なのか、十八年前にこの場所で失われた誰かの記憶なのか、それすら判断できなかった。


「聞こえても追わない。目の前にあるものだけ見ろ」


 トーマが言った。


 自分の名前さえ曖昧になっているのに、それでも護衛として二人を前へ進ませようとしていた。


 三人は互いの服や腕を掴みながら通路を進んだ。


     ◇


 最深部の部屋には、巨大な白い結晶が浮かんでいた。


 周囲には幾重もの金属環が設置され、その大半は割れている。


 中心から伸びる金属環のうち、一本だけがまだ白い光を帯びており、それがおそらく最後の固定具だった。


 レオンは停止手順を取り出して読んだ。文字は理解できるのに、次に何をすればいいのかが頭に残らない。


「これ……」


 ミレアも紙を見る。


「何のための紙です?」


 誰も答えられなかった。


 目の前の白い光が危険だという感覚だけはあるのに、ここまで来た理由は消えていた。


 周囲では、知らない人々の会話や泣き声、誰かを探す声、家族の名前、兵士の命令が響き続け、入り混じった声に自分の記憶との境界まで曖昧にされていく。


 トーマが床へ膝をついた。


「俺は……何を守ってた?」


 レオンにも答えられず、そのとき、ミレアが背負っていた鞄を開いた。


「これ」


 彼女が取り出したのは、ルテラ村戸籍簿だった。


「何で持ってきたんです?」


「分からないです。でも、大事なものだって書いてある」


 彼女の荷物に付けた札には、


 ルテラ村戸籍簿。百三人の名前。失わないこと。


 とある。


 ミレアは戸籍を開き、最初の頁に並ぶ名前をしばらく黙って見つめた。


「読んでみます」


「何を?」


「名前」


 レオンには止める理由も思い出せなかった。


 ミレアが一人目の、彼女自身も知らない名前を読み上げると、続けて次の名、その次の名へ進み、百三人の住民を一人ずつ呼んでいった。


 すると、周囲から響いていた無数の声が、少しずつ遠ざかり始めた。


 白い光が弱くなったわけではないが、頭の中で混ざり合っていた人々の気配が、名前を呼ばれるたびに一人ずつ分かれていくように感じられた。


「続けてください」


 レオンはようやくそれだけ言えた。


 レオンは、それがなぜ有効なのかを少しずつ理解し始めていた。


 術式が消そうとしているのは、「ルテラ村」という一つの概念である。レオンたちは百三人を村の住民として繋ぎ直し、そのために術式を強く反応させた。一方、アルノーの戸籍は百三人を一つの言葉へまとめるためではなく、名前を記された一人ずつを、別々の人間として残すための記録だった。


 ミレアは読み続ける。


 ダリオ・ルーウェン、エレナ・ルーウェン、セイル・ルーウェンと家族の名を読み進めるにつれ、ミレアの声はわずかに震えた。そして最後に、自分の名前へ辿り着く。


「ミレア・ルーウェン」


 自分の名前を読み上げた。


 その瞬間、知らない人々の声も泣き声も、頭の中で混ざっていた記憶も消え、何も聞こえなくなった。


 レオンが自分の手に持った停止手順を見ると、今度は意味が繋がった。


「最終固定具」


 目の前の白い光へ視線を向ける。


「これを解除するために来たんです」


 トーマも札を読み直し、立ち上がった。


「思い出した。俺は二人を守る」


 ミレアは戸籍を抱えたまま頷いた。


「やりましょう」


     ◇


 最後の固定具には三ヶ所の解除機構があり、三人は停止手順を確認しながら順番に操作した。


 一つ目を外すと白い光が揺れ、二つ目を解除したときには、部屋全体が低く震えた。


 最後の一ヶ所は錆びつき、人の手だけでは動かなかった。


「トーマさん」


「任せろ」


 二人で金属の取っ手を引いたが、びくともしなかった。


 ミレアが戸籍を脇へ置き、反対側へ回った。


「私もやります」


「三人ならいける」


 三人で力を合わせると、金属は軋みを上げながら少しずつ回った。


 そして最後まで動いた瞬間、白い結晶から光が消えた。


 爆発も衝撃もなく、ただ、十八年間ずっと鳴り続けていた何かが止まったような静けさが訪れた。


 壁を走っていた魔力線も、一つずつ暗くなっていく。


 レオンは、自分がレオン・フェルナーという王立記録院記録官で、ルテラ村を調べているのだと思い浮かべた。今度は、その認識が消えなかった。


「止まった……?」


 ミレアが尋ねる。


「確認します」


 停止手順の最後には、


 核の自己維持停止を確認。


 とある。


 レオンが簡易測定器を取り出して確かめても、反応はなかった。


「停止しています」


 ミレアはその場へ座り込んだ。


「終わった?」


「少なくとも術式核は」


 トーマも壁へ背を預けた。


「二度とやりたくないな」


「同感です」


     ◇


 帰る前に部屋の奥を確認すると、白い結晶の裏側に人一人が通れるほどの狭い通路があり、その壁には再びアルノーの筆跡が残されていた。


 最終固定具。


 あと一つ。


 その先へ進んだレオンは、床に落ちている古びた革鞄を見つけて足を止めた。


 鞄には王立記録院の古い紋章が付き、そのすぐそばには人骨が横たわっていた。衣服はほとんど朽ちていたが、胸元には金属製の職員章が残っている。


 トーマが職員章を拾い上げて汚れを払うと、そこには名前が刻まれていた。


 アルノー・フェルナー。


 レオンはしばらく動けなかった。大伯父がここで死んだ可能性はずっと考えていたため、その事実自体に驚きはない。それでも、記録の中にしかいなかった人物が、十八年後の今、遺骨となって目の前にいた。


「見つかったんですね」


 ミレアが静かに言った。


「はい」


 遺体のそばには、表面に文字を刻んだ一枚の金属板が落ちていた。紙では十八年も残らないと考えたのかもしれない。


 レオンが触れた瞬間、頭の中へ一つの記憶が流れ込んだ。


     ◇


 自分の記憶ではないのに、それがアルノーのものだとレオンには分かった。


 白い光に照らされた崩れかけの地下施設で、男が何度も目的を忘れながら壁へ文字を書き続けている。腕には百三人の名前を記した戸籍を抱え、未来の誰かへ言葉を残そうとしていた。


 名前を、村に戻すな。


 意味が分からないまま、次の言葉が続く。


 一人ずつ呼べ。


 記録は、人をまとめるためではない。


 一人ずつ、そこにいたと残すためだ。


 そこで記憶が途切れ、レオンはよろめくように壁へ手をついた。


「大丈夫ですか」


 ミレアが支える。


「はい」


「何が見えました?」


 レオンは今見た内容を、そのまま二人へ説明した。


 レオンはミレアが抱えている戸籍へ目を向けた。


「だから、名前を読んだら」


「おそらく」


 アルノーは十八年前にも、同じことへ気づいていた。


 百三人を「ルテラ村の住民」として一つにまとめれば術式の対象を強めるが、一人ずつ名前を呼び、別々の人間として記録すれば、一つの概念へ押し込めずに済む。アルノーが戸籍を作ったのは避難を統制するためだけでなく、百三人を一人ずつ残すためでもあったのかもしれない。


     ◇


 金属板には記憶とは別に文字も刻まれており、そちらは《定録》によって固定された記録だった。


 レオンは一行ずつ読んだ。


 百(・)三(・)名(・)、(・)確(・)か(・)に(・)存(・)在(・)し(・)た(・)。(・)


 その下。


 忘れられても、それは変わらない。


 さらに続く。


 この記録を見つけた者へ。


 誰か一人でも生きているなら。


 最後の一文。


 名前を返してやってほしい。


 レオンは読み終えても、しばらく金属板を持ったままだった。


「一人、生きてましたね」


 ミレアが言った。


「はい」


「私」


「そうですね」


「それだけじゃない。三十一人も記録があった。エッダさんも、ルークさんも。セイルだって次の日までは生きてた」


 レオンは頷いた。


 アルノーが最後に願ったことは、すでに少しずつ始まっている。


 ただ、それをどう続けるのかはこれから決めなければならない。


 記録を残すことと本人へ伝えること、名前を返すことは、すべて同じ意味ではないと、今のレオンは知っている。


「帰りましょう」


 トーマが言った。


「ここに長くいる理由はもうない」


「アルノーも連れて帰ります」


「当然だ」


     ◇


 地下施設を出る頃には、三人とも一度も札を確認していなかった。


 村へ戻っても記憶は消えず、ミレアは十九番地の家へ目を向けた。


「ここ、私の家です」


「覚えているんですか」


「前に調べたことを覚えてます。ダリオとエレナとセイル。青い花。右肩の痣」


「昔の記憶そのものは?」


 ミレアは少し考えた。


「それは戻ってないです。お母さんの顔も、お父さんの声も、セイルと遊んだことも思い出せない」


「そうですか」


「でも、今知ってることは消えない」


 ミレアは自分の家を見上げた。


「それでいいです。今は」


 三人が村の広場へ出ると、その周囲には教会と学校、百三人が暮らした家々があり、十八年間、誰にも覚えられないまま残っていた。


 ミレアは戸籍簿を開いた。


「もう一回、読んでもいいですか」


「はい」


 今度は術式を止めるためではなく、ただ名前を確かめるためだった。


 ミレアは最初の一人から順番に、百三人の名前を読み始めた。


 誰も答えず、村には風の音しかなかったが、ミレアは一人ずつ呼び続けた。


 最後まで来た。


「ミレア・ルーウェン」


 ミレアは少し笑った。


 そして、自分で答えた。


「はい」


 十八年前に失われた村で、初めて一人分の返事が戻った。


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