第17話 最後の白紙
宮廷魔術局の観測室へ着いたとき、セラはすでに三枚の記録表を机の上に広げていた。
「まず、これを見てください」
挨拶もそこそこに、一番古い表をレオンたちの前へ出す。
白紙計画の術式核は、事故後も完全には停止していない。そのため宮廷魔術局では、十八年間にわたって微弱な魔力反応を定期的に観測してきた。
ただし、それはあくまで残存反応と呼べる程度のものだった。
「十年以上、ほとんど変化はありませんでした。多少の上下はありますが、この範囲に収まっています」
セラが基準となる線を指す。
「それが二週間前から上がり始めた?」
「はい。最初に異常値として記録された時点で、通常時の約三倍です」
次の表では数日後に四・二倍となり、今朝の観測値は五倍近くまで上昇していた。
「調査を止めてからは?」
ヴァルターが尋ねる。
「下がっていません。それどころか、上昇速度が少し増しています」
ミレアが眉を寄せた。
「じゃあ、私たちが生存者を探すのをやめても意味がなかった?」
「始まった原因が調査だったとしても、一度動き出した後は別の段階へ入っている可能性があります」
セラは新しい記録を一枚出した。
「白紙計画の術式は、ルテラ村という概念に結びついた情報を認識し、それを消そうとする方向へ変質しました。十八年間、その情報は分散したままだった。村民も別々の場所で暮らし、自分たちが同じ村にいたことを知らなかった」
「そこへ私たちが、少しずつ繋ぎ直した」
レオンが言う。
「そう考えています」
戸籍の名前と現在の身元を照合し、別々の場所で暮らす人々がかつて同じルテラ村の住民だったと確認する作業は、一人ずつ慎重に行っていた。
しかし術式から見れば、十八年間薄れていた「ルテラ村」というまとまりが、再び形を持ち始めたことになるのかもしれない。
「それを消そうとして、術式が強くなった?」
ミレアが尋ねる。
「現時点では、最も説明しやすい仮説です。ただし、ここからが問題です」
セラは上昇を続ける線を指した。
「調査を中止して三日経っています。それでも出力は上がり続けている。今は外から新しい情報を与えなくても、術式核自身が反応を維持しているように見えます」
「十八年前と同じ自己維持か」
ヴァルターの声が低くなった。
「その可能性があります」
観測室に沈黙が落ちた。十八年前にも、白紙計画は制御を失ったあと、対象を自ら広げ続けていた。
その結果、村内だけだった記憶の欠落は避難者や兵士へ広がり、最終的には遠く離れた場所で関連情報に触れた者にまで影響を及ぼすようになった。
今また同じ拡大が始まれば、どこまで作用するか分からない。
「何倍になったら危険なんです?」
ミレアが聞いた。
「正確な境界はありません。ただ、事故当時の残存記録では、五倍を超えた辺りから影響範囲の急拡大が記録されています」
セラの答えを聞いたミレアが記録表へ目を戻す。今朝の値は、すでにその境界の直前まで来ていた。
◇
「止める方法はありますか」
レオンが尋ねた。
セラはすぐには答えず、別の資料箱を机へ載せた。
「十八年前から何度も検討されています。外部から魔力を遮断する方法、遠隔術式による停止、核そのものへの干渉。ですが、どれも決定的な方法にはなりませんでした」
「破壊は記憶汚染の逆流を起こした」
「はい。だから外側から強引に壊す方法は使えません」
ヴァルターが黒い手帳を開く。
「内部停止手順は残っていないのか」
「あります」
セラは資料箱の底から、一冊の薄い冊子を取り出した。
「ただし、実行された記録は途中で途切れています」
表紙には、白紙計画第七系列の緊急停止手順と書かれている。
レオンが頁を開くと、術式核を外側から破壊するのではなく、内部に入って自己維持機構を順番に解除する方法が記されていた。
手順は、最初に外部からの魔力供給を遮断し、術式核の周囲にある三ヶ所の制御環を破壊したあと、中心部の最終固定具を手動で解除して、核の自己維持が止まったことを確認するというものだった。
「これなら逆流は起きないんですか」
ミレアが尋ねた。
「理論上は、術式を壊すのではなく順番にほどいていくので、外部破壊より危険は低いとされています」
「理論上?」
「完全に実行された記録がありません」
セラは次の頁を開いた。
手順書の余白には別の筆跡で細かな追記があり、レオンには見覚えがあった。
「アルノーの字です」
家族の記録やルテラ村戸籍簿で何度も見た筆跡で、内部へ入った際の注意事項が残されていた。
第一隔壁までは通常の記録確認が有効。
第二隔壁以降、記憶保持時間が急速に短縮。
そして、さらに下。
第三隔壁以降、《定録》を読んでも目的を保持できない。
レオンはその一文を読み直した。
「《定録》そのものが消えるんですか」
「そうではないと思います」
セラが答える。
「紙に書かれた内容は残る。ただ、読んだ人間が、その意味や行動目的を保持できないのでしょう」
「文字を読めても、何のために読んでるのか分からなくなる?」
「おそらく」
ルテラ村で経験したものよりさらに強く、これまでは記録を読めば、その瞬間だけでも何をすべきか理解できたのに、第三隔壁より先では、その方法すら十分に機能しないということになる。
「それで、アルノーさんはそこへ行ったんですよね」
ミレアが言った。
「記録では」
レオンは手順書を見た。
ヴァルターの黒い手帳にも、アルノーが第三隔壁より先へ進んだという記述があった。
そしてアルノーは、そこから帰還していない。
◇
「待て」
ヴァルターが突然言った。
三人の視線がヴァルターへ集まった。
「五倍と言ったな」
「今朝の観測値が四・九八です」
「もう一度測れ」
「どうしてです?」
「私が何か残している」
ヴァルターは黒い手帳ではなく、上着の内側から小さな鍵を取り出した。
「王立記録院の私室に、封をした箱がある。開封条件を自分自身へ書いていた」
「条件は?」
「術式核の出力が基準値の五倍を超えた場合」
セラの表情が変わった。
「そんな記録があるなら、なぜ今まで」
「条件を満たしていなかったからだ。何が入っているかは私も知らない」
「本人なのに?」
「開けるな、と自分で書いている」
レオンには、その行動の意味が分かった。
内容を知るだけで術式へ情報を与える可能性があるため、十八年前のヴァルターは、必要になるまで未来の自分にさえ情報を渡さないことを選んだのだ。
セラはすぐに再観測を指示し、結果が出るまでの間、誰もほとんど話さなかった。やがて研究員が紙を持って戻ってくると、セラが数値を確認した。
「五・〇六」
ヴァルターは目を閉じ、それから立ち上がった。
「箱を開ける」
◇
王立記録院へ戻り、院長私室の壁に埋め込まれた小さな保管庫を開いた。
中には木箱が一つだけ入っており、表面にはヴァルター自身の筆跡で、
白紙計画術式核出力、基準値五倍超過時のみ開封。
と書かれていた。ヴァルターが箱を机へ置いて鍵を差し込むと、中から一通の封筒と数枚の観測記録が現れた。
封筒の表には、
次に術式が拡大を始めたときのために。
とある。
ヴァルターは一度レオンとミレアを見てから封を切った。
最初の紙には、十八年前の日付が記されていた。
アルノー・フェルナーは第三隔壁を通過。
レオンの手が止まった。
続きには、時間ごとの術式出力が残されている。
アルノーが地下施設へ入ったあとも、しばらく出力は上がり続けていた。
しかし四時間後、突然大きく低下している。
事故発生時の危険域から、現在まで十八年間維持されてきた低い水準へ。
その横に、ヴァルターの字で説明があった。
完全停止には至らず。ただし拡大現象は停止。
「アルノーさんが止めた?」
ミレアが言った。
「少なくとも、彼が入った後に出力が落ちています」
レオンはさらに読み進めた。
推定:最終固定具の一部解除に成功。
次の行。
残る固定具、一。
ヴァルターが息を止めたように見えた。
「一つだけ残っている」
セラが呟く。
内部停止手順では、三ヶ所の制御環を破壊したあと、中心部の固定具を解除することになっている。
術式は完全には停止しなかったのに、十八年間拡大だけが止まっていた理由は、アルノーが停止手順を途中まで成功させ、最後の一ヶ所だけを残したのだとすれば説明がつく。
紙には、さらに文章が続いていた。
アルノーは失敗していない。
ヴァルターがその行を読み上げる声は、少しだけ掠れていた。
次の記述は、未来の自分へ向けた指示だった。
もし再び術式が拡大を始めた場合、最終固定具を解除すること。
そして、その下。
これはアルノー・フェルナーの判断であり、私も同意した。
その下には、ヴァルター・クロイツとアルノー・フェルナー、二人の署名が並んでいた。
レオンは大伯父の署名を見つめた。
十八年前、アルノーとヴァルターは最後まで対立したままだったわけではない。
少なくとも、この記録を作った時点では、術式が再び拡大した場合に残る固定具を解除するという判断を共有していた。
「院長」
レオンが呼ぶ。
ヴァルターはしばらく署名を見たあと、静かに答えた。
「覚えていない」
「はい」
「だが、私の署名だ」
「アルノーのものも本物だと思います」
「なら、十八年前の私はこれに同意した」
ヴァルターは紙を置いた。
「今さら、覚えていないことを理由に覆すつもりはない」
◇
セラは観測記録と停止手順を照合した。
「状況はかなりはっきりしました。アルノー・フェルナーが制御環を破壊し、最終固定具の一部まで解除したことで、術式の拡大が止まった可能性が高いです」
「でも、完全には止まらなかった」
ミレアが言う。
「残る固定具が一つあった。おそらく、それが十八年間自己維持を続けてきた原因です」
「今、それを外せば?」
「手順通りなら停止する可能性があります」
「逆流は?」
ヴァルターが尋ねた。
「外部から核を破壊する方法とは違います。少なくとも十八年前の記録では、この方法なら記憶汚染を拡散させずに停止できると判断されています」
「絶対ではない」
「絶対とは言えません」
セラは率直に答えた。
「ただ、このまま放置する方も安全ではありません。出力はすでに五倍を超えています」
ヴァルターは何も言わなかった。
十八年前のヴァルターならここで反対したのだろうが、今回は条件が違う。術式核を力任せに壊すのではなく、アルノーが途中まで成功させた停止手順を完了させるのであり、それを実行するよう過去のヴァルター自身も記録を残していた。
「行くんですね」
ミレアがレオンを見た。
「はい」
答えるまでに迷いはなかった。
「山の地下へ?」
「最終固定具を解除します」
「私も行きます」
「駄目です」
「早いなあ」
「第三隔壁以降は《定録》を読んでも目的を保持できないと書かれています。村の中より危険です」
「だから一人で行くんです?」
「一人とは言っていません」
レオンは第七手順の最初の規則を思い出していた。
対象情報を単独で取り扱わない。
「トーマさんに連絡します。現地での安全確保には、彼の経験が必要です」
「じゃあ私も」
「ミレアさんは」
「ルテラ村まで案内できます」
「道は記録してあります」
「村の中で、自分の家まで行った人間です」
「それは今回必要ありません」
「それでも行きます」
レオンが何か言う前に、ミレアは続けた。
「地下の奥まで付いていくとは言ってません。少なくとも村までは行きます」
「理由は?」
「私の村だからです」
その答えに、レオンは言葉を止めた。
「十八年間ずっと動いてるものを止めに行くんでしょう。それで何が起きるかも分からない。だったら、村に戻るところまでは自分で行きたいです」
「危険なら途中で退避してもらいます」
「それでいいです」
「指示には従ってください」
「そこは前から従ってます」
「時々そうでもありません」
「細かいなあ」
ヴァルターが二人を見ていた。
「私も行く、と言ったら止めるか?」
レオンは彼を見る。
「院長は第三隔壁より手前まで行った記録があります。ただ、今回は王都側で情報を管理する人間も必要です」
「つまり残れと」
「はい」
「アルノーより言い方は丁寧だな」
「殴る必要はないと思います」
ヴァルターは一瞬黙ったあと、わずかに笑った。
「そうしてくれ」
◇
出発は翌朝に決まった。
セラは停止手順を必要な部分ごとに分け、同じ情報が一つの紙に集中しすぎないよう複数の記録を作った。
レオンも、自分が何をしに行くのかを一枚にはまとめず、現在地、同行者、退避条件、地下施設の構造、停止手順をそれぞれ別の媒体へ残した。
ただし、第三隔壁より先では、それらを読んでも目的を保持できない可能性がある。
そこでレオンは文章だけに頼らず、進む方向や触れるべき設備、戻る条件を示す、できるだけ単純な指示も用意した。何が有効になるのかは分からなくても、準備できるものはすべて準備するしかなかった。
最後に、ヴァルターから十八年前の封筒の写しを受け取った。
そこには、二人の署名とともに同じ指示が残されている。
もし再び術式が拡大を始めた場合、最終固定具を解除すること。
アルノーは十八年前、術式の停止に失敗したのではない。拡大を食い止めて十八年の猶予を作り、その時間が尽きようとしている今、残る最後の手順を誰かが引き継ぐ必要があった。
レオンは紙を折り、他の記録とは別の場所へしまった。
明日、再びルテラ村へ向かう。
今度の目的は、消えた村を見つけることでも残された記録を調べることでもなく、十八年前から人々の記憶を消し続けているものを、今度こそ止めることだった。




