第16話 真実を残すべきか
生存者の調査を始めてから、レオンは以前よりも記録を残すことに慎重になっていた。
それは、記録官になって以来、事実は正確に残すべきだと考えてきたレオン自身にとって奇妙な変化だった。後から誰かが確かめられるようにすることが記録の役割だという考え自体は、今も変わっていない。
ただ、残された事実を誰に、いつ、どこまで伝えるべきかについては、以前ほど簡単に答えられなくなっていた。
エッダ・ロイスは、自分の過去を今すぐには知りたくないと選んだ。
ルーク・メルンは、夢の中に残っていた「百三」という数字をルテラ村へ結びつけた途端、その説明だけを忘れた。
ミレアは自分がミレア・ルーウェンだったと知ってよかったと言ったが、それは彼女自身が選んだ結果であって、他の全員にも同じ答えを求める理由にはならない。
レオンはそのことを、調査記録とは別の帳面に書き留めた。
記録が存在することと、本人へ伝えることは分けて考える必要がある。
《定録》で固定しようとして手を止めた。これは観察した事実ではなく、今の自分の判断であるため、普通のインクのまま残すことにした。
◇
「ずいぶん悩んでいるな」
院長室で生存者調査の進捗を報告している途中、ヴァルターが言った。
「そう見えますか」
「最近の君は、資料を読むより考えている時間の方が長い」
「悪いことですか」
「いや。むしろ、少し安心している」
ミレアが隣から口を挟んだ。
「前のレオンさんって、そんなに考えなかったんです?」
「考えてはいた。ただ、正しい記録さえ残せば、その後は読む側が判断すればいいという顔をしていた」
「そんな顔をしていましたか」
「していた」
「分かりやすいですよ、レオンさん」
ミレアまで頷いたので、レオンは反論をやめた。
ヴァルターは机の上に置かれた一通の封筒へ目を向けた。
「エッダ・ロイスには、まだ旧名を伝えていないそうだな」
「本人が今は知りたくないと希望しました」
「それでいいと思うか?」
「本人の過去です。本人が選ぶべきです」
「では、彼女が一生知りたくないと言った場合、エッダ・ハインという名前は誰にも伝えない?」
「記録は残します」
「何のために?」
レオンは少し考えた。
「後で本人が知りたいと思うかもしれません。子供や親族が調べる可能性もあります」
「本人が死んだ後なら?」
「その時点で、改めて判断が必要になります」
「誰が判断する」
「一人ではなく、複数人で」
ヴァルターは小さく笑った。
「ずいぶん慎重になったな」
「院長の影響かもしれません」
「それは嬉しくないな」
「私も褒めたつもりはありません」
ミレアが吹き出した。
◇
ヴァルターは椅子へ深く座り直してから、話題を変えた。
「では、もう少し難しい話をしよう」
「何でしょう」
「エッダ・ロイスには現在の家族がいる。息子もいるそうだな」
「はい」
「もし彼女の過去を明らかにした結果、十八年前の夫や子供が別にいたと分かったらどうする?」
レオンは答えなかった。
「彼女がそれを知れば、救われると思うか?」
「分かりません」
「だろうな」
ヴァルターは続けた。
「過去を取り戻すことが、必ず現在の人生を豊かにするとは限らない。自分には別の家族がいた、守れなかった子供がいた、あるいは自分だけが生き残ったと知ることで、今までなかった苦しみを背負う者もいる」
ミレアが少し眉を寄せた。
「だから、知らないままの方がいいってことですか」
「そうは言っていない」
「でも、そう聞こえます」
「知らない方が幸せだと他人が決めるのも、知るべきだと押しつけるのも、私には同じように危うく見える」
ヴァルターはミレアを見る。
「君は自分がミレア・ルーウェンだと知ってよかったと言ったな」
「はい」
「もし、知った結果が今とは違っていたとしても?」
「どういう意味です?」
「たとえば、両親が君を置いて逃げたと分かった場合だ」
ミレアが少し黙ったため、レオンは口を挟もうとしたが、彼女の方が先に答えた。
「それでも、私は知りたかったと思います」
「なぜ?」
「私のことだからです」
ミレアはヴァルターの目を見た。
「良い話だから知りたいんじゃないです。私がどこで生まれて、誰と一緒にいて、どうして今の父さんに拾われたのか。それが嫌な話だったとしても、自分のことなら自分で決めたい」
「その考えを、他の生存者にも当てはめる?」
「それはしません」
ミレアの答えは早かった。
「エッダさんは今は知りたくないって言いました。だったら、それも本人が決めたことです」
ヴァルターはしばらくミレアを見ていた。
「なるほど」
「何です?」
「君の方が、フェルナーより先に答えを出しているようだ」
「私は当事者なので」
「それは強いな」
レオンも否定できなかった。
◇
「十八年前にも、同じような問題があった」
ヴァルターが言った。
「避難した住民を何人か見つけた後、我々は一度、彼らを集めようとした」
レオンは顔を上げた。
「初めて聞きます」
「一ヶ所へ情報を集めるなという規則が厳格化された理由の一つだ」
「何人ですか」
「十四人」
ミレアの表情が変わった。
「十四人を一緒にしたんですか」
「事故直後だった。当時はまだ、術式が情報の密度に反応することを完全には理解していなかった」
十四人はいずれもルテラ村から避難した可能性が高いと確認されていた。
しかし本人たちは、互いの名前も関係もほとんど覚えていなかった。
そこで当時の調査班は、アルノーが残した戸籍を使い、家族や知人同士を再会させれば記憶が戻るのではないかと考えた。
「結果は?」
レオンが尋ねた。
「悪化した」
ヴァルターの声は低かった。
「最初は互いに見覚えがあると話す者もいた。名前を聞いて泣き出した者もいたという。しかし人数を増やし、戸籍を使って関係を説明し始めると、術式の反応が急激に強くなった」
「どのくらい?」
「その場にいた十四人全員が、自分の現在の名前まで答えられなくなった」
ミレアが息を呑んだ。
「ルテラ村のことだけじゃなく?」
「そうだ。自分が誰なのか、どこで保護されたのか、その後どこで暮らしていたのかまで一時的に失った。付き添っていた職員にも同じ症状が出た」
「戻ったんですか」
「数日かけて大部分は戻った。ただし、完全ではなかった」
ヴァルターは黒い手帳を開いた。
「その事故の後、我々は確認できた住民を意図的に別々の地域へ分散させた」
「意図的に?」
ミレアが聞き返した。
「再び集めないためだ」
「家族でも?」
「家族でもだ」
部屋の空気が変わった。
「じゃあ、私とセイルが別々になったのも」
「可能性はある」
ヴァルターは慎重に答えた。
「君が保護された時点ですでに別れていた可能性もあるし、その後に調査側が再会を避けた可能性もある。個別記録を確認しない限り、どちらかは分からない」
「もし、分かってて離したなら?」
「当時の判断としては、命を守るためだった」
「本人たちに説明もできないのに?」
「説明した内容から忘れていった」
ミレアが黙ると、ヴァルターもそれ以上は自分の判断を正当化しようとしなかった。
「私は、その判断に関わっている」
しばらくしてから、彼は言った。
「それが正しかったと胸を張るつもりはない。ただ、十四人を一度に危険へ晒した後で、同じことをもう一度試す勇気はなかった」
◇
院長室を出たあと、ミレアはしばらく口を開かず、レオンも急かさなかった。記録院の中庭まで来たところで、彼女がようやく言った。
「私、怒ってるのか分からないです」
「ヴァルター院長に?」
「たぶん。それとも十八年前の人たち全員に」
ミレアは中庭のベンチへ座った。
「もしセイルが生きていて、私たちをわざと会わせなかったなら、何でって思います。でも、十四人の話を聞いたあとだと、じゃあ会わせればよかったとも簡単には言えない」
「はい」
「嫌ですね。誰かが悪いなら楽なのに」
レオンは少し考えた。
「そうですね」
「否定しないんだ」
「私も同じことを考えていました」
ミレアは苦笑した。
「ヴァルター院長が全部悪い人だった方が、分かりやすかったですね」
「それは以前も言っていました」
「覚えてます」
「最近は記憶が残りますね」
「王都にいるからでしょうね。こういうどうでもいい会話は特に」
「どうでもいいんですか」
「そこ気にします?」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
◇
その日の夕方、レオンは一人で調査帳面を開いた。
エッダとルーク、ミレア、十四人を集めた再会実験、そしてヴァルターの判断。そこから一つの結論を出そうとして、レオンはやめた。
正しい答えが一つだけある問題ではないのかもしれないが、それでも今後の調査を続けるには、自分なりの方針が必要だった。
レオンは普通のインクで、自分の方針を書き始めた。
真実は、知れば必ず人を救うわけではない。
そこで一度手を止めてから、次の行へ続けた。
だからといって、誰かが勝手に消してよいわけでもない。
さらに次の行には、
残すことと、伝えることは分けて考える。
最後に、
判断を一人でしない。
と書き加えた。
以前なら、事実は残すべきだという一文だけで終えていたかもしれないが、今はそれだけでは足りない。記録は保存し、必要になったときに本人や関係者が確認できる状態を保つ一方、本人の意思を無視して押しつけてはならない。危険があるならその条件も伝え、公開するかどうかを一人の記録官や一人の院長だけで決めない。完全な答えではなくても、今のレオンにはそれが最も納得できる方針だった。
◇
翌日、レオンはヴァルターへ提案を持っていった。
「生存者記録の扱いを変えたいと思います」
「どう変える」
「消さずに残します。ただし通常の戸籍や公文書とは分け、閲覧条件を設定します」
「非公開記録にするのか」
「はい。本人が希望した場合、本人の親族から正式な照会があった場合、あるいは調査上必要と複数の担当者が判断した場合にだけ閲覧できるようにします」
「誰でも見られる状態にはしない」
「術式の問題もあります。それに、本人が知りたくないと選んだ情報まで公開する必要はありません」
ヴァルターは腕を組んだ。
「私がやってきたことと、何が違う?」
「記録そのものを消さないことです」
レオンは答えた。
「それから、院長一人の判断にしない」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「嫌味か?」
「事実です」
「やはりアルノーに似ているな」
「大伯父も同じことを?」
「もっと言い方が悪かった」
初めて少しだけ、十八年前のアルノーを実際に知っていた人間らしい答えが返ってきた。
「その案で進めろ」
「いいんですか」
「私が十八年間続けた方法に問題がなかったなら、君たちはここまで来ていない」
ヴァルターは机の上の黒い手帳へ目を落とした。
「変えられるところから変えればいい」
◇
生存者記録を新しい方式へ移す準備を始めた日の午後、宮廷魔術局から使者が来た。差出人はセラ・ヴェインで、封筒の表には通常の連絡では使わない赤い印が押されている。
レオンがその場で開くと、短い本文にはこう記されていた。
白紙計画術式核の観測値に変化あり。
出力、直近二週間で約三倍。
現在も上昇中。
その下には、セラ自身の筆跡で追記されている。
生存者調査開始時期と一致する。
レオンが手紙を読み直す横から、ミレアも内容を覗き込んだ。
「私たちが調べたから?」
「まだ分かりません」
「でも、時期は同じ」
「はい」
レオンたちは十三人の生存者を追い、ルテラ村にいた頃の名前と現在の人生を少しずつ繋ぎ直している。情報を集約するほど術式の反応が強くなるという第七手順の警告に従い、一人ずつなら危険を減らせると考えていたが、それでも十八年間切り離されていた人々の情報を、再びルテラ村へ結びつけ始めたことに変わりはない。
ヴァルターも手紙を読むと、すぐに言った。
「調査を止める」
ミレアが顔を上げる。
「でも」
「少なくとも原因が分かるまではだ。このまま出力が上がれば、十八年前と同じように作用範囲が拡大する可能性がある」
レオンも反論できなかった。
「宮廷魔術局へ行きます」
「私も行きます」
ミレアが言う。
ヴァルターは一度考えたあと、自分の黒い手帳を手に取った。
「私も行く」
「院長も?」
「術式核について、君たちよりは過去の記録を持っている」
十八年間安定していたはずの術式が動き始めた原因が、レオンたちの調査なのか、それ以外にあるのかは分からない。ただ、白紙計画がもはや過去の事故ではなく、十八年前から止まったままだと思われていたものが再び変化を始めていることだけは確かだった。




