第20話 記録は、忘れない
白紙計画の術式核が停止してから三ヶ月が経ち、王立記録院の三階、その一番奥には新しい部屋が作られていた。
扉に掛けられた札には、
失踪記録調査室
と書かれている。
「名前が固いですよね」
朝一番に訪ねてきたミレアが、扉の前で言った。
「記録院の部署名ですから」
「もっとこう、『消えた名前を探す室』とか」
「正式部署にそれを付けるんですか」
「分かりやすいですよ」
「却下されると思います」
レオンが扉を開けると、室内には四つの机があり、そのうち一つだけが室長用として少し大きく作られていた。そこが現在のレオンの席だった。
「慣れました? 室長」
「まだ三ヶ月です」
「でも出世したんでしょう?」
「肩書きだけなら」
白紙計画の調査終了後、レオンには王立記録院本院への復帰命令が出た。
東部収穫統計の件も正式に再調査され、以前の配置転換には不適切な人事判断があったと認められたらしい。
そのうえで新設されたのが、この失踪記録調査室だった。
目的はルテラ村の生存者調査を続けることだけではない。記録上は死亡や失踪として処理されながら、実際には身元を失ったまま別の土地で暮らしている可能性がある人々や、戦争、災害、行政上の混乱によって戸籍と本人が切り離された事例を、本人の意思を尊重しながら調べ直す。
白紙計画ほど特殊な例ばかりではない。
それでも、レオンには向いている仕事だった。
「左遷から室長ですか」
ミレアが言った。
「配置転換から室長です」
「まだそこ守るんだ」
「事実なので」
「前より偉くなったのに、変わらないですね」
「変わる必要がありますか」
「ないですけど」
ミレアは笑いながら、持ってきた鞄を机の上へ置いた。
「それより、続きが来ました」
レオンの表情が変わる。
「北部の件ですか」
「はい」
◇
セイル・ルーウェンと思われる少年の記録は、少しずつ繋がっていた。
十八年前、ルテラ村から北へ延びる道の先で、推定六歳の男児が保護されている。
本人は名前を答えられず、小型の木製笛を持っていた。
そこまでは以前確認していた。
その後、少年は北部の救護所を経て、さらに別の町へ移送されていたことが分かった。
移送先では仮の名前を与えられ、数年後には記録が別系統へ移っている。
「ここまでは前回と同じです」
ミレアが新しい書類を開く。
「今回見つかったのは、二回目の移送記録」
男児の特徴欄には、当時の役人が身元確認のために調べた身体的特徴がいくつか記されていた。
レオンが読む。
「左手首に細い傷痕」
「ルーウェン家の記録にもありましたよね」
「確認します」
別に保管していた家族記録を取り出す。
家族記録には、六歳のセイルがその年の春に木工道具で左手首を切り、傷痕が残ったと記載されていた。
年齢と保護時期、移動経路、木製の笛、左手首の傷まで一致点は増えている。
「かなり高いですね」
ミレアが言った。
「はい。ただし、まだ本人と断定はできません」
「分かってます」
以前なら、ここで急いで現在地を探したかもしれない。
しかし今のミレアは、書類を閉じてから尋ねた。
「今、生きてるかは?」
「移送後の名前を追えば確認できる可能性があります」
「見つかったら、いきなり『あなたはセイル・ルーウェンです』って言うんですか」
「いいえ」
レオンは答えた。
「まず本人に、古い身元について調査を希望するか確認します」
「ですよね」
ミレアは少し安心したように笑った。
「もし本人が知りたくないって言ったら?」
「伝えません」
「私が妹でも?」
「本人の情報ですから」
「うん」
ミレアは頷いた。
「それでお願いします」
「いいんですか」
「会いたいですよ。もし本当にセイルなら、すごく会いたい」
少しだけ間を置く。
「でも、だからって私が勝手に兄に戻していいわけじゃないでしょう」
レオンは何も言わなかった。
三ヶ月前なら、ミレアはもっと迷ったかもしれない。
「本人が知りたいって言ったら、そのときは?」
「必要な記録を用意します」
「じゃあ、そのとき一緒に行ってください」
「仕事として?」
「そこは妹の付き添いで」
「勤務扱いになるか確認します」
「そういうところだぞ、室長」
◇
ヴァルター・クロイツは、現在も王立記録院長を務めている。
白紙計画の調査終了後、本人は辞任届を提出したものの、王国側の判断は単純ではなく、受理されなかった。
ヴァルターは十八年前の白紙計画と事故後の隠蔽に関与し、その後もルテラ村に関する報告書を処分していた。一方で、第七手順に従って情報を分散し、術式の再拡大を十八年間防いだ人物でもある。後から見れば過剰な処置もあったが、当時まったく対処しなければ被害がさらに広がった可能性も否定できなかった。
最終的には、白紙計画への関与と事故後の対応をすべて公的記録へ残したうえで、院長職を続けることになった。
「罰になっているのか、なっていないのか分かりませんね」
ミレアが以前そう言ったことがある。
レオンにも分からなかった。
ただ、ヴァルター本人は以前より忙しくなったらしい。
「また来たのか」
午後、レオンが院長室へ入ると、開口一番そう言われた。
「報告です」
「三日前にも聞いた」
「進展がありました」
「失踪記録調査室を作ったのは間違いだったかもしれんな」
「院長も設置に賛成しました」
「それが間違いだったと言っている」
机の上には、十八年前の白紙計画に関する資料が置かれていた。
以前なら、一ヶ所に集めること自体が危険だった記録である。
今は術式が停止しているため、保存方法を改めて整理している最中だった。
ただし、何でも公開しているわけではない。
実験に参加した者の個人情報や、生存者の現在の身元については、現在も閲覧制限が設けられている。
「アルノーの件も決まった」
ヴァルターが一枚の文書を渡した。
文書は、十八年間所在不明として処理されていた王立記録院記録官アルノー・フェルナーの遺骨を正式に本人と認定し、死亡年月を白紙計画事故当時へ修正するものだった。
さらに、ルテラ村住民百三人の記録と避難を行い、術式核の拡大を停止させた功績も公的記録へ残される。
「英雄扱いですか」
レオンが尋ねた。
「本人が聞けば嫌がるだろうな」
「そういう人だったんですか」
「記録を見る限りは」
ヴァルターはそう答えてから、自分でも少しおかしそうに笑った。
「結局、私は最後まであいつを記録からしか知らないらしい」
「私もです」
「君はそれでいいのか」
レオンは少し考えた。
「はい」
「即答だな」
「会ったことのない人を、会ったように思い出すことはできません。それでも、何をした人なのかは分かります」
ヴァルターは返事をしなかった。
「それで十分だと思います」
少なくとも、何も残っていないよりは。
◇
アルノーの遺骨はフェルナー家の墓地へ葬られたが、葬儀は大きなものではなかった。
参列したのは親族と数人の王立記録院関係者、セラとヴァルター、それに西部から来たトーマとミレアだった。
墓碑には肩書きや功績を長々とは刻まず、名前と生没年、王立記録院記録官という肩書きだけを残した。
「もっと書かなくていいんですか」
ミレアが尋ねた。
「功績は記録院に残っています」
「墓には?」
「名前があれば十分でしょう」
ミレアは墓碑を見た。
「アルノー・フェルナー」
「はい」
「やっと行方不明じゃなくなりましたね」
「そうですね」
死亡したこと自体は喜べることではない。
しかし、十八年間「どこへ行ったか分からない人」だった人物に、ようやく最後の場所と日付が戻った。
それもまた、記録を直すということなのだろう。
◇
ルテラ村は再建されず、行政上の名称も現在は「ルテラ村跡」とされている。
地下には白紙計画の施設が残っており、安全調査も続いている。家屋の多くも十八年間放置されていたため、そのまま住民を戻せる状態ではない。
そのため、村全体を歴史保護区域として残す方針が決まった。
半年後、旧第七支線を含む周辺道路の正式な再測量が行われた。
担当者の一人として、グレン・ハースも参加した。
「引退したんじゃなかったんですか」
ミレアが聞くと、グレンは測量棒を肩へ担いだまま答えた。
「役所がどうしてもって言うからな」
「嬉しそうですよ」
「酒代が出る」
「仕事してください」
かつて自分が測った道をグレンはもう一度歩いた。細かな記憶は相変わらず戻っていないが、それでも、ときどき理由の分からないことを口にした。
「この橋、昔も傾いてた気がするな」
「記録にありますか」
レオンが尋ねる。
「知らん」
「では記憶?」
「だから知らんと言ってるだろ」
昔の記憶なのか、以前見た記録を忘れているだけなのか、本人にも区別がつかない。
それでも今回は、その言葉が翌日に消えることはなかった。
新しい測量図には、ルテラ村までの道が正式に描かれた。
さらに山の地下施設へ続く旧軍用路も、立入制限区域として記載された。
グレンは完成した図面をしばらく眺めていた。
「前よりましだな」
「何がです?」
「知らん道が、自分の地図にあるよりは」
それだけ言って、図面を丸めた。
◇
測量が終わった日の夕方、レオンとミレアは十九番地の家へ寄った。
保存区域となっているため、家の中には勝手に入らない。
二人は道の向かい側から建物を眺めた。
「何か思い出しました?」
レオンが尋ねる。
「その質問、まだするんですね」
「確認です」
「何も」
ミレアは笑った。
「お母さんの顔も、お父さんの声も、セイルと遊んだ記憶も、結局戻ってません」
「そうですか」
「でも、前とちょっと違うんですよね」
「何が?」
「最初にここへ来たときは、知らない家なのに自分の家だって言われてる感じでした」
青い花の陶器が残る玄関を見る。
「今は、ここが自分の家だったって知ってても、そんなに変な感じがしないです」
「記憶が戻ったわけではないのに?」
「はい」
「慣れた?」
「それもあるかもしれません」
ミレアは少し考えた。
「たぶん、新しく覚えたからです」
レオンは彼女を見る。
「ここに来たこと。壁の身長の印を見たこと。お母さんの刺繍を見つけたこと。自分の名前を読んだこと。『ただいま』って言ったこと」
どれも十八年前の記憶ではなく、この半年間に新しく作られたものだった。
「昔の家族のことは思い出せない。でも、この家についての記憶は今の私にもある」
「なるほど」
「だから、もう完全に知らない場所じゃないんです」
失われた過去を取り戻したわけでも、その空白を別の記憶で偽って埋めたわけでもない。ただ、空白があると知ったうえで、その先に新しい時間を積み重ねてきたのだ。
ミレアは家へ向かって軽く手を振った。
「じゃあ、また来ます」
◇
王都へ戻った翌週、失踪記録調査室へ一通の照会が届いた。
「室長、これお願いします」
同僚の記録官がレオンの机へ置いた封書には、二十七年前に行方不明となった一人の人物について、家族から改めて調査してほしいという依頼が添えられていた。
レオンが封を開くと、中には古い失踪届の写しが入っていた。名前と年齢、最後に確認された場所、そのとき身につけていた服、そして当時調べた範囲では行方を確認できなかったことが記されている。
特別なところのない案件だった。
失踪記録調査室が作られてから三ヶ月、こうした依頼はすでに何度も扱っている。何十年も前に家を出たまま戻らなかった者、戦争や災害の混乱で戸籍との繋がりが途切れた者、別の土地で身元不明者として保護された可能性のある者。その一つ一つについて、残された記録を辿り、現在へ繋がる手掛かりがないか確かめてきた。
今回の依頼も、その中の一件にすぎない。
ルテラ村のように、地図から場所そのものが消えているわけではない。誰かの記憶が不自然に失われているわけでもなく、王国の魔術研究が関わっている様子もなかった。
それでもレオンは、紙に記された名前をもう一度確認した。
百三人の名前を追ったからといって、次も百人である必要はない。たった一人でも、その人を探している誰かがいて、確認できる記録が残っているなら、調べる意味はある。
記録だけで、失ったものを元通りにはできない。死んだ人間を戻すことも、消えた記憶を取り戻すこともできないし、残された事実が望んだ答えを与えてくれるとも限らない。
それでも、一行の記録から確かめられることはある。その人が生きていたこと、ある場所にいたこと、そして誰かがその名前を覚え、探そうとしていたことだ。
レオンは新しい調査票を取り出し、失踪者の名前を一番上へ書いた。
忘れられても、確かに存在したと残すために。そして、いつか誰かがその記録を必要としたとき、もう一度そこから確かめられるように。




