第13話 白紙計画
宮廷魔術局は、王立記録院から王城を挟んで反対側にある。
同じ王国機関でも雰囲気は大きく違った。記録院では紙の束を抱えた職員が廊下を行き交うが、こちらでは白衣姿の研究官や、魔石を詰めた箱を運ぶ技師の姿が目立つ。建物の一部には実験区画があり、許可のない者は通路へ入ることすらできない。
レオンとミレアは受付で身分を示し、十八年前の西部特別魔術研究について調査したいと申し出た。
王命第七二一号という番号を出した途端、受付職員の対応が変わった。
「少々お待ちください」
奥へ消え、しばらくして戻ってくる。
「認識・記憶研究室の責任者がお会いになります」
「責任者が?」
「セラ・ヴェイン研究主任です」
レオンはミレアと顔を見合わせた。
古い研究記録の閲覧を申請しただけにしては、話が早すぎる。
◇
セラ・ヴェインは三十代後半ほどの女性だった。
黒髪を短く切り、研究官用の白衣の袖を肘まで捲っている。机の上には大量の書類が積まれていたが、本人はその状態を気にしている様子がない。
「レオン・フェルナー記録官ですね」
「はい。こちらはミレア・ノルンさんです」
「公営飛脚の方が、なぜ王立記録院の調査に?」
ミレアが答えるより先に、レオンは事情を簡潔に説明した。西部には十八年前までルテラ村が存在したが、現在は地図と人々の記憶から消えており、現地へ近づくほど関連する記憶が急速に失われる。同行しているミレア自身も、当時その村で暮らしていたミレア・ルーウェンだと確認された人物だった。
セラは途中で質問を挟まず、最後まで聞いた。
「その記録は持っていますか」
「一部だけです。情報を一ヶ所へ集めすぎない方がいい可能性を考えています」
セラの目がわずかに細くなった。
「誰にそう教わりました?」
「誰にも。ただ、王都へ送った詳細な報告書が何度も失われているので、条件を変えて試しています」
「なるほど」
セラは椅子へ深く座り直した。
「ヴァルター・クロイツ院長には会いましたか」
「昨日」
「何と言っていました?」
「十八年前のことをほとんど覚えていないそうです。ただ、自分自身へ残した記録に『第七手順を参照』という言葉がありました」
その瞬間、セラの表情が変わった。
「第七手順?」
「ご存じですか」
「言葉だけなら」
セラは立ち上がった。
「少し待っていてください。確認したい資料があります」
◇
戻ってきたセラは、古びた鍵を一本持っていた。
「地下の旧研究資料庫へ行きます」
「閲覧許可は?」
「今、私が出しました」
「主任権限で?」
「この研究室の前身が管理していた資料ですから」
廊下を歩きながら、セラは十八年前の研究室について説明した。
「当時、この部署は認識干渉術式研究室という名前でした。人間が物を見る、名前を覚える、人物を認識するといった精神作用を魔術的に制御する研究をしていたそうです」
「そうです、というのは?」
「私が入局した頃には研究分野そのものが縮小されていました。当時を直接知る研究者もほとんど残っていません」
「十八年前の責任者は?」
「ヘルマン・ヴェルツ。私の師です」
セラは少し間を置いた。
「そして、アルノー・フェルナーと一緒に西部へ行った人物でもあります」
レオンは足を止めかけた。
「アルノーを知っていたんですか」
「師が何度か名前を口にしていました。ただし、詳しい話を聞いた記憶はありません」
「あなたにも記憶の欠落が?」
「その可能性を考えています」
セラは歩みを止めずに続けた。
「師は八年前に亡くなりました。晩年になると、自分宛ての手紙を大量に残すようになっていたんです。当時は老化による物忘れだと思っていました」
「今は?」
「あなたの話を聞いて、別の可能性を考え始めました」
◇
旧資料庫の一角には、十八年前の研究記録をまとめた棚が残っていた。
完全に整理されているわけではない。抜けている番号も多く、表紙だけ残ったファイルもある。
セラは目録を確認しながら、ある研究番号を探した。
「第七系列……これです」
箱には鍵が掛かっていた。
セラが持ってきた鍵を差し込むと、少し抵抗はあったものの開いた。
中に入っていたのは十数冊の研究報告と、分厚い計画書だった。
表紙には正式名称が記されている。
認識選択消去実験計画書。
その下に、手書きで別の呼称が添えられていた。
通称――白紙計画。
「白紙」
ミレアが読んだ。
「何を白紙にする計画なんです?」
セラは最初の頁を開いた。
「人の記憶です」
計画の目的は、戦時下における情報保全技術の研究だった。捕虜になった兵士や敵側へ寝返る可能性のある者から、指揮官の名前、作戦計画、補給路、地形、暗号といった軍事上重要な情報だけを選んで消去し、本人の人格や日常生活に関する記憶は残す。それが当初の研究目標だった。
「最初から村を消そうとしたわけではないんですね」
ミレアが言った。
「計画書を見る限りは」
レオンも内容を確認した。
初期段階では、被験者に記憶させた複数の図形から一種類だけを認識できなくする、特定の単語を一時的に思い出せなくする、指定した人物の顔と名前の結びつきを弱めるといった、小規模な記憶操作に成功していた。ただし、いずれも持続時間は短く、対象も限定されている。
問題は第七系列だった。
「これが、西部で?」
「そうです」
第七系列では、より大規模かつ長期間持続する術式を実験する計画になっていた。
実験地の名称欄は削られていたが、旧ファルン郡北西部の山間部という位置情報は残っており、レオンたちが見つけた軍用道路の先と一致した。
◇
実験開始後の報告書は、途中から急激に文章の調子が変わっていた。
最初は数値と観察結果だけを記した冷静な研究記録だった。
しかし、ある日を境に異常報告が連続している。
術式核の自己維持を確認。外部供給停止後も稼働継続。
対象概念境界の拡大を確認。
対象者指定不能。
対象情報に接触した者への作用伝播を確認。
ミレアが最後の行を指した。
「これって、王都で報告書を読んだ人が忘れたのと同じですよね」
「おそらく」
レオンは文章を読み直した。
当初の術式は、人間を指定して記憶を消す仕組みだった。
ところが第七系列では、何らかの理由で対象が人間から情報そのものへ変わっている。
「ルテラ村という情報を消している?」
ミレアが尋ねる。
「そう考えると、これまでの現象を説明できます」
レオンは答えた。
「村にいた人だから忘れるのではなく、ルテラ村について知った人間が影響を受ける。だから王都にいる人でも、報告書を詳しく読めば記憶を失う」
「逆に、村へ近づくと何も読まなくても忘れる」
「現地そのものが大量の関連情報を持っているからかもしれません」
セラが研究報告を読みながら頷いた。
「当時の研究者も、ほぼ同じ推測をしています。術式が『場所』を消しているのではなく、特定の概念に結びつく情報を認識できなくしている、と」
「特定の概念というのが」
「ルテラ村だった可能性が高いでしょう」
ミレアは少し嫌そうに笑った。
「村の名前一つを忘れさせるつもりが、村に関係するもの全部を忘れる魔法になった?」
「もっと悪いです」
セラが別の頁を開いた。
「自己維持しています。誰かが術式を使い続けているのではなく、術式そのものが今も動いている」
「十八年間?」
「あなたたちの観察が正しいなら、そうなります」
◇
セラは一度資料庫を出て、自分の研究室から木箱を持って戻ってきた。
「師の遺品です」
中には何十通もの封筒が入っており、宛名はすべて同じだった。
ヘルマン・ヴェルツへ。
「自分宛て?」
ミレアが尋ねる。
「はい。師が未来の自分へ書いていました」
セラは日付の古いものから選び、一通を開いた。
白紙計画について思い出そうとするな。資料を読め。
次の手紙には第七系列は失敗したとあり、さらに別の一通には、村は消えたのではない。忘れられていると書かれていた。
レオンたちは黙って読み進めた。
術式核を停止できなかった。
その次には、
破壊案は却下された。
とある。
「破壊できたんですか?」
ミレアが聞く。
「少なくとも案は出ていたようです」
セラがさらに手紙を探すと、対応する記録はすぐに見つかった。
ヴァルターは、破壊すれば記憶汚染が逆流する可能性を主張。
レオンはその名前を見て手を止めた。
「ヴァルター院長が?」
「当時の研究記録にも参加者として名前があります」
「破壊に反対した」
「そう読めます」
ミレアが少し眉を寄せた。
「じゃあ、今まで術式が残ってるのは院長のせい?」
「まだそこまでは言えません」
レオンが答えた。
「逆流が何を意味するのか分からない以上、破壊しなかったことが間違いだったかどうかも判断できません」
「やっぱりそう言いますよね」
「事実が足りませんから」
セラは二人のやり取りを聞いていたが、やがて別の封筒を差し出した。
「こちらを見てください。アルノーについて書かれています」
◇
ヘルマンの記録によれば、事故発生後、最初に住民の避難を提案したのはアルノーだった。
術式が人間の記憶へ影響する以上、口頭での指示や通常の名簿では統制できない。
そこでアルノーは、村民全員を自分の《定録》で記録し直した。
レオンたちが発見した、あの戸籍簿である。
手紙には、
アルノー、住民全員を定録。百三名。
翌朝避難開始。
とある。
「やっぱり、避難したんですね」
ミレアが言った。
「少なくとも開始はしています」
その後の記述は、徐々に混乱していた。
途中で術式範囲急拡大。
統制不能。兵士も目的を忘れる。
馬車が分散。住民が互いを認識できなくなる。
ミレアの表情が固まった。
「互いを認識できない?」
「家族同士でも、相手が誰か分からなくなった可能性があります」
レオンは答えながら、自分でもその光景を想像した。
百三人を村外へ出そうとした避難の途中で術式が拡大し、兵士は何のために住民を運んでいるのかを忘れ、住民自身も隣にいる人物が家族なのか他人なのか分からなくなった。馬車が別々の方向へ走り出せば、あとから全員を集め直すことなどできなかっただろう。
「だから、私だけあの道で?」
ミレアが言った。
「可能性はあります。誰かとはぐれたのか、意図的に別の馬車へ移されたのかまでは分かりませんが」
「セイルも」
「別の場所へ運ばれた可能性があります」
ミレアはそれ以上何も言わず、手紙へ目を戻した。
最後には、アルノーについてもう一つ記述があった。
アルノーは残った。
術式核へ向かった。
帰還せず。
レオンは、その三行をしばらく見つめた。
十八年前、大伯父は避難する住民と一緒には逃げず、山の地下にある術式核へ向かったまま戻らなかった。
「グレンさんの『あの記録官を止めろ』って」
ミレアが言う。
「アルノーさんのことだったのかもしれませんね」
「可能性は高いと思います」
グレンは、山の地下に何かが残っていることと、ある記録官を止めることを同じ紙に書いていた。当時そこへ向かった記録官がアルノーなら、二つの警告は同じ出来事を指していたのかもしれない。
◇
「第七手順を探しましょう」
レオンが言うと、セラも頷いた。
「師の手紙に何度か番号が出ています。おそらく、第七系列事故後の安全手順です」
資料箱をさらに探すと、事故後に作られた緊急対応文書の中から薄い冊子が見つかった。
表紙には、
第七系列認識災害対応手順。
と記されている。
通称欄。
第七手順。
「これですね」
レオンはヴァルターの黒い手帳を思い出した。
記憶の欠落が認められた場合、第七手順を参照。
十八年前のヴァルターが自分自身へ残した指示は、この冊子を指していた。
中には七項目の基本規則があり、最初の四項目には、対象情報を単独で扱わないこと、行動目的を複数の形式で記録すること、異なる人物や媒体の記録を相互に照合すること、記録内容そのものに誤りが含まれる可能性を考慮することが定められていた。
「これ、ほとんど私たちがやってきたことですね」
ミレアが言った。
「必要に迫られてですが」
五つ目と六つ目は、現地での退避条件や、記憶混乱が起きた際の隔離方法だった。
七つ目の規則を読んだところで、レオンは手を止めた。
対象概念に関する記録を、一箇所へ集約してはならない。
「集めるな?」
ミレアが覗き込む。
その下には、対象となる概念に関係する情報を狭い範囲へ集めるほど、術式の反応が強くなる可能性があると記されていた。それは文書だけの話ではなく、同じ情報について詳しく知る人間を一ヶ所へ集めることも避けるよう警告されている。
「情報が増えると、術式が強くなるんですか」
「そう書いてあります」
レオンは、自分が王都へ送った最初の報告書を思い出した。
十二頁の報告書には、戸籍と地図、住民、ミレア、アルノー、記憶の欠落まで、ルテラ村について確認できた情報を可能な限り詳しくまとめていた。自分はまさに、すべてを一ヶ所へ集めていたのだ。
そして王立記録院へ届いた直後、報告書は異例の経路で院長室へ回され、「重複資料」として処分されている。
「もしかして」
ミレアも同じことに気づいたらしい。
「ヴァルター院長が報告書を捨てたのって」
「情報を消したかったのではなく、集めたままにしておくことを避けた可能性があります」
レオンは答えた。
もちろん、まだ推測でしかない。
それでも、第七手順の規則を知っていたヴァルターが、ルテラ村について詳細にまとめられた報告書を見つけたとすれば、処分という行動には別の意味が生まれる。
「じゃあ院長、敵じゃない?」
「それもまだ分かりません」
「そこは変わらないんですね」
「報告書を処分したことと、その理由が正しかったかどうかは別です。それに、十八年前の文書が失われた理由もまだ分かっていません」
セラが第七手順を閉じた。
「ただ、クロイツ院長がこの規則を知っていたことは間違いないでしょう」
「本人は忘れている」
「だから、手帳へ残した」
十八年間、ヴァルターは何も知らずに文書を消していたわけではない。
少なくとも過去の彼は、ルテラ村に関する情報を集めてはならない理由を知っていた。
◇
その日の調査を終える前に、三人は白紙計画の資料を一つの場所へ集め直さず、必要な記録だけを分けて別々の保管場所へ置くと決めた。レオン自身も、調査内容を一冊の帳面へまとめるのをやめ、複数の記録へ分散させることにした。
「せっかく記録を残してるのに、今度はまとめちゃ駄目なんですね」
ミレアが言った。
「不便ですが、仕方ありません」
「記録官にはつらそう」
「かなり」
レオンは珍しく即答した。
セラが少し笑った。
「一つだけ確認しておきたいんですが、フェルナー記録官」
「何でしょう」
「この調査を続けますか」
セラが何を問うているのかは分かった。ルテラ村が忘れられた理由はほぼ判明し、十八年前に王国が行った魔術研究の失敗によって生まれた術式が、今も山の地下で人々の記憶から特定の情報を消し続けている。しかも、調べれば調べるほど術式が反応する可能性すらあった。
「続けます」
レオンは答えた。
「理由を聞いても?」
「まだ分かっていないことが多すぎます。避難した百三人がその後どうなったのかも、アルノーが術式核で何をしたのかも分かっていません」
ミレアが横から加える。
「私のお兄ちゃんがどこへ行ったのかも」
「そうですね」
レオンは頷いた。
「それに、白紙計画は王国の研究です。事故を起こして村一つを十八年間忘れさせているなら、誰かが記録として残す必要があります」
セラは少し考えたあと、静かに頷いた。
「分かりました。こちらでも資料を調べます。ただし第七手順には従います」
「お願いします」
レオンは最後に、今日確認した内容を一枚の紙へすべて書こうとして、手を止めた。
第七手順の七番目にある「情報を一ヶ所へ集約してはならない」という規則に従い、紙は三枚に分けた。一枚には白紙計画の目的を、もう一枚には事故後の避難記録を、最後の一枚には術式核と第七手順について記す。
三枚をそれぞれ《定録》で固定し、別々の封筒へ入れた。今までレオンにとって記録とは、情報を整理して一ヶ所へまとめるためのものだったが、今回だけは、残すために分けなければならない。
十八年前の人々もまた、同じ矛盾の中でこの現象と戦っていたのだろう。
そして、その中にはアルノー・フェルナーも、ヴァルター・クロイツもいた。
次に確かめるべきなのは、十八年前のヴァルターが何を知り、何を恐れ、なぜその後もルテラ村に関する記録を処分し続けたのかだった。




