第12話 存在しない命令書
地下書庫に、しばらく沈黙が続いた。
レオンが尋ねたのは、ルテラ村を知っているかという単純な質問だった。それに対してヴァルターは「その名前をどこで知った」と聞き返したのだから、少なくともレオンには、何も知らない人間の反応とは思えなかった。
「質問に答えていただけますか」
ヴァルターはレオンを見た。
「ルテラ村を知っているか、だったな」
「はい」
「今の私は、知らない」
予想していなかった答えだった。
「今の私は?」
ミレアが聞き返す。
ヴァルターは彼女へ視線を向けた。
「言葉通りだ。ルテラ村という名前を聞いても、村の景色も場所も、そこで何が起きたのかも思い出せない」
「でも、名前には反応しましたよね」
「したようだな」
「どうして?」
「それを説明できれば苦労はしない」
ヴァルターは机の上にある王命台帳へ目を落とした。
「フェルナー。君は西部で、何を見つけた?」
レオンはすぐには答えなかった。
相手は自分の報告書を処分した記録に名を残す人物だが、ヴァルター本人の意図までは確認できていない。ここで全情報を渡すべきか判断するには、まだ材料が足りなかった。
「先に、院長が何を知っているのか確認させてください」
「私を信用していないのか」
「判断できるだけの情報がありません」
「それを本人に言うか」
「記録官なので」
ヴァルターは一瞬だけ目を細めたが、怒った様子はなかった。
「アルノー・フェルナーの親族だと聞いていたが、似ているな」
レオンの意識がその言葉に集中した。
「アルノーを知っていたんですか」
「記録では、知っていたことになっている」
「記憶では?」
「ほとんど残っていない」
ヴァルターは自分のこめかみに指を当てた。
「ただ、この名前を調べるな、と自分自身へ注意した記録がある。ルテラ村も同じだ。詳しく知ろうとすると、翌日には理由ごと抜け落ちる」
ミレアがレオンを見る。
自分たちに起きている現象と同じだった。
「院長にも記憶の欠落が?」
「少なくとも、過去の私はそう判断したらしい」
「いつからですか」
「十八年前からだ」
ヴァルターはそう答えたあと、自嘲するように口元を歪めた。
「もっとも、十八年前に何があったのかを私は覚えていないが」
◇
場所を院長室へ移すと、ヴァルターは扉を閉め、壁際の金庫から黒い革表紙の手帳を取り出した。
「これは?」
レオンが尋ねる。
「私が私に残している記録だ。必要があるときだけ読む」
「毎日は?」
「読まない。読むこと自体が何かを引き起こす可能性があるからだ」
その判断が正しいのかどうかは、今のレオンには分からない。
ただ、ヴァルターも長い間、自分の記憶を信用せずに行動してきたことだけは分かった。
「王命第七二一号について、この手帳に記載はありますか」
「ある」
ヴァルターは頁をめくった。
「本文を読んだ記憶はない。しかし十八年前、私自身が受領した記録が残っている」
「受領者は院長だった?」
「当時は院長ではない。二十四歳で、中央記録部に配属されたばかりの記録官だった」
現在五十二歳なら、十八年前は三十四歳のはずだ。そこまで考えたところで、レオンは今の発言に引っかかった。
「十八年前なら、院長は三十四歳では?」
ヴァルターがレオンを見る。
「そうだな」
「今、二十四歳と」
「……言ったか?」
「はい」
ヴァルターは黙り込み、数秒後に自分の手帳を確認した。
「三十四歳だ。記録もそうなっている」
ミレアの表情が強張った。
「こういう間違いも起きるんですか」
「ある。古い記憶ほど、周辺の別の記憶と混ざることがある」
ヴァルターは何事もなかったように話を続けようとしたが、レオンにはその一瞬の錯誤も重要に思えた。
起きているのは単純な忘却だけではなく、失われた部分を別の記憶で埋めてしまう場合もあるらしい。レオンはヴァルターの錯誤を、その可能性を示す事例として記録した。
◇
王命第七二一号の本文は失われていたが、命令そのものが存在した痕跡は多く残っていた。発令台帳には番号と日付があり、件名欄だけが削られている。配布記録によれば、命令書は王立記録院、宮廷魔術局、西部軍司令部、旧ファルン郡行政所の四ヶ所へ送られていた。
「村一つの戸籍整理に出す命令ではありませんね」
レオンが言うと、ヴァルターも頷いた。
「少なくとも、これだけの機関を同時に動かす必要はない」
「軍と魔術局が入っている」
ミレアが配布先を見る。
「何か大きなことをしてたってことですよね」
「そう考えるのが自然です」
さらに受領簿を確認すると、王立記録院分には署名が残っていた。
ヴァルター・クロイツ。
若い頃のものだが、現在の署名と特徴が一致している。
「確かに院長が受け取っています」
「そうらしい」
「覚えていない?」
「まったく」
ヴァルターは自分の名前を、他人の記録でも見るように眺めていた。
命令書本体は存在しないものの、それが発令され、複数の機関へ配布され、ヴァルターが受け取ったことは、それぞれ別の記録から確認できる。周辺の痕跡を残したまま、本文だけが抜け落ちていた。
◇
次に調べたのは、同じ時期の予算記録だった。
王命が何を目的としていたのか分からなくても、大きな事業なら金の流れが残っている可能性がある。
十八年前の西部地方特別予算を確認すると、通常の道路整備や治安維持費とは別に、一件だけ突出して大きな支出が見つかった。
西部特別魔術研究費。
金額を見たミレアが眉を上げる。
「これ、高いんですか?」
「小さな村なら、数年は維持できます」
「そんなに?」
「王立記録院の地方支所なら十ヶ所以上、一年運営できます」
「分かりやすい」
承認根拠の欄には、
王命第七二一号。
と記載されていた。
用途の詳細は削られていたが、物資購入記録までは完全には消えておらず、大量の魔石と術式用の金属、測量器具、仮設建築資材、軍用食料が購入されていた。
「魔術研究ですね」
ミレアが言った。
「少なくとも、予算上は」
「ルテラ村の近くで?」
「そこまではまだ確認できません。ただ、同じ時期にグレンさんが村北側の山へ軍用道路を測量しています」
山中へ続く軍用道路と白い光、そしてグレンが残した山の地下に、まだ残っているという警告。別々の場所で見つかった情報が、少しずつ同じ方向を向き始めていた。
◇
西部特別派遣の人員記録には、記録官、測量官、魔術技師、軍人、行政官など四十人以上が記載され、その中には王立記録院のアルノー・フェルナーとヴァルター・クロイツ、西部測量局のグレン・ハースという、すでに知っている三人の名前があった。
「院長も西部へ行っている」
レオンが言った。
ヴァルターは名簿を見ても表情を変えなかった。
「記録上はな」
「現地へ行った記憶は?」
「ない」
「ルテラ村へ行った可能性は?」
「分からない」
名簿の末尾には事業終了時の人員確認が添えられ、帰還、転属、負傷、死亡の別に処理されていたが、四人だけは所在不明となっていた。
そのうち一人がアルノー・フェルナーだった。
「四人、戻ってない」
ミレアが言った。
「少なくとも公式記録では」
「院長は帰ってるんですよね」
「私はここにいる」
ヴァルター自身の帰還記録も残っている。
西部から王都へ戻ったのは、アルノーが消息を絶った三日後だった。
「三日後……」
レオンはその日付を書き留めた。
「院長。アルノーがどうなったのか、本当に何も覚えていないんですか」
ヴァルターは長い間答えなかった。
「覚えていない」
やがて、そう言った。
「だが、彼が死んだと聞かされた記憶もない」
「では、なぜ死亡扱いに?」
「所在不明のまま一定期間が経過したからだ。それは通常の行政処理だろう」
「院長自身が、その処理に関わった可能性は?」
「あるだろうな」
「それも覚えていない?」
「そうだ」
レオンはヴァルターの顔を見た。
嘘をついているようには見えなかったが、もちろん《定録》に嘘を見抜く力はない。今記録できるのは、ヴァルター・クロイツが「覚えていない」と答えた事実と、そう答えたときの様子だけだった。
◇
関連文書の目録を追うと、王命第七二一号に対応する保存箱が一つ存在していたことも分かった。
管理番号を確認して地下書庫のさらに奥へ向かうと、目当ての棚には確かに箱があった。ただし、中身は空だった。
「また?」
ミレアが呆れたように言う。
箱そのものに破損はなく、内部には文書を保管していた跡も残っている。貸出簿を確認すると、十八年前に一度だけ箱全体が持ち出されていた。
借用者の名前は、
ヴァルター・クロイツ。
返却欄は空白だった。
レオンは貸出簿と現在のヴァルターを見比べた。
「院長が借りています」
「見れば分かる」
「返却記録がありません」
「それも見れば分かる」
「文書はどこへ?」
「知らない」
ヴァルターの声に、初めてわずかな苛立ちが混じった。
「私が隠したと言いたいのか」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「私の顔は、そこまで分かりやすくないと思います」
「分かりやすいぞ」
ミレアが横から言った。
「今は黙っていてください」
「はい」
ヴァルターは小さく息を吐いた。
「疑うのは当然だ。十八年前の私が箱を借り、その中身が消えている。今の私が見ても、怪しいと思う」
「だからこそ、院長自身が残した記録を確認したいです」
「黒い手帳か」
「はい」
ヴァルターはしばらく迷ったあと、再び手帳を開いた。
◇
十八年前に近い頁には、意味の分からない短い指示がいくつも残されていた。日付は連続せず、数週間空くこともあれば、同じ日に何度も書き足されていることもある。
その中に、王命第七二一号という文字があった。
ヴァルターが読み上げる。
本文を読んだ者は、翌朝再確認すること。記憶の欠落が認められた場合、第七手順を参照。
「第七手順?」
ミレアが聞く。
「何のことか分からない」
ヴァルターは次の行を読んだ。
記憶を信用するな。
そこまでは、レオンたちがすでに実践している方法と同じだった。
しかし、その下にはもう一文あった。
記録だけを信用するな。
レオンはその言葉を読み返した。
「どういう意味でしょう」
「分からない」
ヴァルターも眉を寄せた。
「記憶が消えるなら、記録を頼るしかないんじゃないですか?」
ミレアが言う。
「私たちは、そうしてきました」
レオンは答えた。
「ただ、この注意書きを当時の院長が残したのなら、記録にも別の危険があった可能性があります」
「改ざん?」
「それも考えられます。しかし《定録》まで含めて信用するなという意味なのか、複数の記録を照合しろという意味なのか、それだけでは判断できません」
ヴァルターが黒い手帳を閉じた。
「十八年前の私は、何かを恐れていた。それだけは確かだろう」
「ルテラ村を?」
「分からない」
「第七二一号を?」
「それも分からない」
「では、第七手順とは?」
「知らない」
ヴァルターは自分で答えながら、疲れたように額へ手を当てた。
「私も、その答えが知りたい」
◇
その日の調査を終えたあと、レオンは記録院の外でミレアと情報を整理した。
王命第七二一号の本文そのものは失われているが、複数の独立した記録から、命令が十八年前に確かに存在したことは確認できた。それは王立記録院、宮廷魔術局、西部軍司令部、旧ファルン郡行政所へ配布され、記録院では若い頃のヴァルターが受領している。同じ命令を根拠に多額の西部特別魔術研究費が支出され、現地へはアルノー、グレン、ヴァルターを含む四十人以上が派遣されたが、事業終了時にはアルノーを含む四人が所在不明となった。さらに、関連文書の保存箱は十八年前にヴァルターが借り出し、現在は中身が失われている。
「やっぱり院長、かなり怪しくないですか」
ミレアが言った。
「状況だけ見れば」
「でも、まだ決めない?」
「はい」
「本人が忘れてるから?」
「それもあります。それに、今まで私たちは一つの記録だけを見て判断しないようにしてきました」
レオンはヴァルターの古い注意書きを思い出した。
記憶を信用するな。
記録だけを信用するな。
「今まで以上に、別の場所に残っている資料と照合した方がいいと思います」
「王命が送られた他の場所?」
「はい。王立記録院の資料だけでは、院長が関わっている記録に偏りすぎています」
「じゃあ次は」
「宮廷魔術局です」
西部特別魔術研究費、大量の魔石と術式資材、山の地下、白い光。これらとの関係を確かめるうえで、王命第七二一号の配布先のうち、まだ詳しく調べていない宮廷魔術局は避けて通れなかった。
十八年前、西部で何らかの魔術研究が行われていたことは、すでに予算記録から確認できる。
その研究がルテラ村とどう関係し、ヴァルターの手帳に残された「第七手順」という言葉が何を意味するのか。王立記録院に答えが残っていないのなら、別の記録を探すしかない。
レオンはその日の調査記録の最後に、次の行動を書き加えた。
宮廷魔術局にて、王命第七二一号および十八年前の西部特別魔術研究を調査する。王立記録院の資料と必ず相互照合すること。
《定録》で固定する。
王命第七二一号の本文が失われても、その命令によって動いた人間と金、物資の記録までは完全には消えていない。残された周辺記録を一つずつ繋げば、本文が何を命じていたのかも、いずれ形を取り戻すはずだった。




