第14話 記録院長ヴァルター
翌朝、レオンとミレアは再び王立記録院長室を訪れたが、宮廷魔術局で見つけた資料をそのまま持ち込むことはしなかった。
第七手順には、対象情報を一ヶ所へ集約してはならないと明記されている。そこでレオンは必要な部分だけを抜き出し、白紙計画の名称、事故の概要、第七手順の存在をそれぞれ別の紙に記録していた。
ヴァルターは二人を室内へ通すと、机の上に置かれた三通の封筒を見た。
「分けてきたのか」
「第七手順を読みました」
ヴァルターの表情がわずかに変わった。
「見つけたのか」
「宮廷魔術局に残っていました」
「そうか」
その反応だけで、少なくとも「第七手順」という言葉そのものには覚えがあるらしい。
「院長は、第七手順の内容をご存じだったんですね」
「現在の私が覚えているか、という意味なら、すべては覚えていない。ただ、必要な規則は別に残してある」
ヴァルターは金庫から、以前見せた黒い手帳を取り出した。
「その手帳ですか」
「これは確認用だ。もっと頻繁に読むべき内容は別にしている」
ヴァルターは机の引き出しから薄い黒表紙の帳面をもう一冊取り出した。最初の頁には、現在の彼自身へ向けた指示が書かれていた。
ルテラ村関連情報は集約するな。
報告を受けた場合、複写前に分散保管。
必要以上に詳細を読まない。
術式核は稼働中。
最後には、
破壊してはならない。
とある。
ミレアがその一文を見た。
「これ、院長が書いたんですか」
「筆跡は私のものだ」
「どうして破壊しちゃ駄目なんです?」
「そこまで調べてきたなら、白紙計画の事故についても知ったのだろう」
「基本的なことは」
レオンが答えた。
「特定の情報だけを記憶から消すための研究が失敗し、ルテラ村に関連する情報そのものを消し続ける術式になったこと。術式核が自己維持しており、十八年間止まっていないことも確認しました」
「アルノーについては?」
「住民百三人を《定録》で記録して避難を始め、その後、術式核へ向かったところまでです」
ヴァルターはしばらく黙った。
「なら、君たちがまだ知らない部分を話す必要があるな」
「覚えているんですか」
「全部ではない。ただし、覚えていないからこそ残した記録がある」
ヴァルターは黒い手帳を開いた。
「その前に一つ訂正しておこう。私はルテラ村を知らないと言った」
「はい」
「正確ではなかった」
レオンは口を挟まず、続きを待った。
「私はルテラ村へ行った。白紙計画にも参加した。王命第七二一号を受領し、西部へ赴任した記録もある。そして事故後、ルテラ村に関する記録を隠す作業にも関わった」
ミレアの表情が硬くなった。
「隠した?」
「そうだ」
「村のことを?」
「正確には、村に関する情報が一ヶ所へ集まらないようにした。結果として、外から見れば隠蔽としか見えないこともした」
「報告書を捨てたのも?」
「おそらく私の判断だ」
「おそらく?」
「処分した瞬間そのものは覚えていない。しかし、それを指示する規則を私自身が作っている以上、否定する理由はない」
ヴァルターはレオンを見る。
「君の報告書も、私が消したと考えて構わない」
◇
「理由を聞かせてください」
レオンが言うと、ヴァルターは頷いた。
「白紙計画の術式は、当初、人間の記憶へ直接作用するものだった。しかし第七系列の事故後、対象のあり方そのものが変わった」
「人ではなく、情報を対象にした」
「そうだ。さらに厄介なのは、術式が対象となる概念の強さに反応したことだ」
「概念の強さ?」
ミレアが尋ねる。
「簡単に言えば、ルテラ村について多くの情報が一ヶ所へ集まるほど、術式にとって『ルテラ村』が明確になる」
ヴァルターは紙を一枚取り、簡単な図を書いた。
「一人の人間が村名だけを知っている場合と、戸籍、地図、家族関係、歴史、住民全員の名前までまとめて知っている場合では、後者の方が術式の反応が強くなる。人間も同じだ。ルテラ村について詳しく知る者を何人も集めれば、それだけ一つの場所に情報が集中する」
「だから第七手順には、記録も人も集めるなと?」
「事故後にそう判断された」
「私の報告書は十二頁ありました」
レオンは自分で言いながら、意味を理解した。
戸籍、地図、ミレア、アルノー、記憶欠落現象。あの時点で把握していた情報を、可能な限り一つの文書へまとめていた。
「危険だったんですね」
「私の手元へ届いた時点で、少なくとも過去の私はそう判断したのだろう」
「だったら、処分せず分けて保存すればよかったんじゃないですか」
ミレアが言った。
「本来なら、その方がいい。ただ、受領した職員がすでに内容を読み、複写が始まりかけていた可能性がある。緊急時には文書そのものを処分するよう、私は以前から指示していた」
「そのせいで、何も知らない私たちから見れば、誰かが証拠を消しているようにしか見えませんでした」
レオンが言う。
「その通りだ」
ヴァルターは言い訳をしなかった。
「そして私は、そう見えることを承知で続けてきた」
◇
レオンは、黒い手帳にあったもう一つの指示を指した。
「破壊してはならない、というのは?」
ヴァルターの顔から、わずかに疲労が滲んだ。
「術式核を止める試みは、十八年間で三度行われた」
「三度?」
「事故直後を含めてな」
最初の試みは、外部から魔力供給を遮断する方法だった。
しかし術式核はすでに自己維持状態へ移行しており、供給を止めても稼働を続けた。
二度目は、術式核そのものを破壊しようとした。
「そのとき何が起きたんです?」
ミレアが尋ねた。
「記憶が戻り始めた」
「それなら、成功だったんじゃ」
「戻ったのは、自分の記憶だけではなかった」
ヴァルターは一度言葉を切った。
「その場にいた人間全員へ、周囲の人間の記憶まで流れ込んだ。自分が見たはずのない景色を思い出し、知らない家族を自分の家族だと認識する者が出た。複数人の人生が、一人の頭の中で混ざった」
ミレアの顔から表情が消えた。
「そんなことが」
「三人が死亡した。直接の原因は術式反動による精神損傷と記録されている。ほかにも、自分が誰なのか分からなくなった者がいた」
「それが、記憶汚染の逆流」
「当時はそう呼んだ」
宮廷魔術局に残されたヘルマンの手紙にあった言葉だった。
ヴァルターは、破壊すれば記憶汚染が逆流する可能性を主張。
レオンはあの一文を思い出した。
「院長は、二度目の失敗を見て破壊に反対したんですか」
「記録上はそうだ。その時点から、術式核を無理に壊すより、拡大を防ぎながら維持する方が被害は少ないと主張している」
「三度目は?」
「数年後、魔術局がより穏やかな停止方法を試した。結果は同じだった。規模こそ小さかったが、周囲の人間に他人の記憶が混ざり始めたため中断した」
ヴァルターは黒い手帳を閉じた。
「それ以来、私は術式核へ手を出すことに反対してきた」
◇
「それで十八年間、このまま?」
ミレアの声には、責める響きが混じっていた。
「そうだ」
「村の人たちは?」
「最初の数年間は探した」
ヴァルターの答えは早かった。
「避難後にどこへ運ばれたか分からなくなった住民を、軍と行政で追跡した。ただし、情報を集めれば術式が強くなる。だから調査結果は一ヶ所へまとめず、それぞれ別の地域で管理した」
「見つかったんですか」
「三十一人までは、生存を確認した記録がある」
ミレアが立ち上がりかけた。
「三十一人?」
「十八年前から数年間の話だ。現在も生きているとは限らない」
「その記録はどこに?」
「複数の場所へ分散している」
「見せてください」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
「お願いします」
「一度に三十一人分は見せられない」
「どうして」
「今説明したばかりだろう。ルテラ村の住民として三十一人を一つに結びつければ、その情報密度が上がる」
「でも、一人ずつなら?」
ヴァルターはミレアをしばらく見つめてから、頷いた。
「一人ずつなら、危険は下げられる」
「じゃあお願いします」
「待ってください」
レオンが割って入った。
「まず記録の所在と閲覧方法を決めましょう。ミレアさんが知りたいのは分かりますが、今ここで感情のまま全部を繋ぐのは危険です」
ミレアは何か言いかけたが、やがて椅子へ座り直した。
「分かりました」
ヴァルターはレオンを見た。
「アルノーなら、もっと早く止めただろうな」
「大伯父と私は別人です」
「それもそうだ」
◇
レオンには、まだ聞かなければならないことがあった。
「アルノーは、術式核へ向かった」
「そうだ」
「院長も一緒だったんですか」
ヴァルターは黙り込んだが、その反応だけで答えはほとんど分かった。
「宮廷魔術局の記録には、アルノーが一人で向かったように書かれていました」
「最後は一人だった」
「では、その前は?」
「私もいた」
ヴァルターは椅子の背へ体を預けた。
「事故が起きたあと、アルノーは住民の名簿を作り直し、避難を提案した。私は中央との連絡と記録分散を担当していた。避難が崩れたあと、術式核をどうするかで意見が割れた」
「院長は破壊に反対した?」
「当時はまだ、何が起きるか完全には分かっていなかった。ただ、術式核へ直接触れる危険性は理解していた」
「アルノーは?」
「止めなければ、さらに広がると考えていた」
ヴァルターは、自分の手を見た。
「私たちは一緒に山へ向かった。どこまで行ったか、今の私は覚えていない。ただ、途中で私はアルノーを止めようとしたらしい」
「らしい?」
「記録がある」
ヴァルターが黒い手帳の古い頁を開くと、そこに残された文章は今まで見たものより乱れていた。
アルノーを止めた。止まらなかった。
その次。
殴られた。
ミレアが思わずレオンを見る。
「アルノーさん、院長を殴ったんですか」
「そのようだ」
ヴァルターは頬を触った。
「昔の私は、左頬を殴られたと書いている」
「理由は?」
「私が戻れと言ったからだ」
さらに頁をめくる。
アルノーは一人で第三隔壁より先へ進んだ。追うな。
「第三隔壁?」
「今は何を指すか分からない。ただ、おそらく地下施設の内部だろう」
レオンはグレンの警告を思い出した。
山の地下に、まだ残っている。
「院長は、そのあと王都へ?」
「帰還記録では三日後だ」
「アルノーを置いて?」
「そうなる」
ヴァルターの声は平静だった。
ただ、その言葉を口にするときだけ、視線が黒い手帳から離れなかった。
「彼が最後に何と言ったか、覚えていますか」
「一部だけ」
ヴァルターはゆっくり答えた。
「記録を消すな、と言われた」
「それだけ?」
「続きがあった」
「何と?」
「思い出せない」
ヴァルターは目を閉じた。
「十八年間、何度も記録を探した。だが、その続きを書いた紙は見つからなかった」
◇
「一つ聞いてもいいですか」
ミレアが言った。
「何だ」
「院長は、村のことを隠してきたのを後悔してます?」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
「毎日ではない」
「毎日ではない?」
「後悔するためには、何をしたか覚えていなければならないからな」
ミレアは黙った。
「記録を読めば、過去の私が何をしたかは分かる。文書を処分し、人を分散させ、ルテラ村という名前を表から消した。それが正しかったとは言わない」
「でも、続けた」
「続けなければ被害が広がると、過去の私が判断したからだ」
「今の院長は?」
「判断材料が同じなら、同じ結論を選ぶ」
ヴァルターの声は静かだった。
「真実を残すことと、真実を広めることは同じではない。存在した事実を記録しておく必要はある。しかし、その記録を一ヶ所へ集め、誰でも読めるようにすれば、術式が再び強くなる可能性がある」
レオンは何も言わなかった。
「フェルナー。君は記録官だ。だから聞く」
ヴァルターが真正面からレオンを見る。
「真実なら、すべて残すべきだと思っているのか」
「残すことと、公開することは別だと思います」
「では、誰が公開するか決める?」
「一人で決めるべきではありません」
「理想論だな」
「そうかもしれません。ただ、院長一人が十八年間決め続けた結果、ルテラ村は存在しなかったことになりました」
ヴァルターの表情がわずかに硬くなった。
「そこにいた百三人まで」
ミレアは口を挟まず、ヴァルターもしばらく答えなかった。
「否定はしない」
やがて、そう言った。
「私は被害を抑えることを優先した。そのために、多くのものを消した」
「必要だったとしても?」
「必要だったかどうかを、今の私には完全には証明できない。それも含めて、私がしたことだ」
責任から逃げる言い方には聞こえなかった。
◇
ヴァルターがその日のうちに見せた生存者記録は、一人分だけだった。名前の代わりに管理番号を振った封筒には、十八年前にルテラ村から避難した可能性がある、当時二十七歳の女性について記されている。彼女は南西部の町で身元不明者として保護され、数年後に別名で生活を始めたが、現在の所在は十年前の記録を最後に途切れていた。元の村での名前は、その紙には書かれていない。
「どうやってルテラ村民だと判断するんです?」
ミレアが尋ねる。
「対応表が別の場所にある」
「そこまで分けてるんですか」
「必要だった」
ヴァルターは一枚の紙だけをレオンへ渡した。
「最初はこれを調べろ。対応する人物の名前は、別の保管所で確認できるよう手配する」
「他の三十人は?」
「一人ずつだ」
「セイルは、この中にいますか」
ミレアの質問に、ヴァルターは少し考えた。
「今の私は知らない」
「記録を見れば?」
「確認はできる。ただし、君が最初から兄だけを探すのであれば、それも一つの方法だ」
ミレアは迷った末に、首を振った。
「順番でいいです」
「いいのか?」
「セイルだけ特別に知ったら、結局その人だけを追いかけると思うから。まず、他の人がどうなったのかも知りたいです」
ヴァルターは一度だけ頷いた。
◇
院長室を出たあと、レオンとミレアはしばらく無言で廊下を歩いた。
「思ってた人と違いましたね」
先に口を開いたのはミレアだった。
「誰がです?」
「ヴァルター院長。もっと、全部知ってて悪い顔しながら書類燃やしてる人かと思ってました」
「私はそこまでは想像していませんでした」
「ちょっとは怪しいと思ってたでしょう」
「かなり」
「ほら」
レオンは否定しなかった。
ヴァルターが白紙計画の隠蔽に関わり、ルテラ村の記録を分散、ときには処分しながら、事故の存在を公にしない状態を十八年間維持してきたことは間違いない。しかし、術式核を破壊しようとした過去の試みでは三人が死亡し、記憶の逆流によって自分と他人の区別を失った者までいた。その結果を知ったうえで、完全な解決より被害を広げない方法を選び続けてきた人物を、隠蔽の一面だけで敵と決めることもできなくなっていた。
「正しかったんでしょうか」
ミレアが尋ねた。
「分かりません」
「今回は、その答えでいい気がします」
「そうですか」
「院長も正しかったとは言わなかったし」
レオンは頷いた。
「少なくとも、今すぐ術式核を壊せばいいという話ではなくなりました」
「でも、ずっとこのままにもできないですよね」
「はい」
ルテラ村は今も忘れられ続けており、術式が動いている限り、ミレアの過去も住民たちの記憶も自然には戻らない。しかも十八年前のアルノーは、その術式核を止めるために山の地下へ向かった可能性が高い。
レオンはヴァルターから受け取った、生存者一人分の封筒を確認した。
「まずは、避難した人たちがその後どうなったのかを調べます」
「三十一人」
「一人ずつです」
「分かってます」
ミレアは少し歩いてから続けた。
「でも三十一人見つかってるなら、百三人全員があの村で終わったわけじゃなかったんですね」
「はい」
少なくとも、十八年前のルテラ村民が全員消滅したわけではないことは、これまでより確かになった。彼らは避難し、混乱の中で散り散りになり、自分がどこから来たのかを忘れたまま、別の場所で生きた者もいる。次に探すべきなのは、消えた村そのものではなく、そこから生きて出た人々のその後だった。




