第五話 届かない声
レオンが私を「エレノア」と呼ばなくなってから、さらに数週間が過ぎた。
「エレオノーラ嬢」
今では、その呼び方にも慣れてしまった。
――慣れたと思っていた。
けれど、本当は違う。
その声を聞くたび、胸の奥が小さく痛む。
以前なら。
「エレノア」
そう呼んで、笑ってくれた。
それだけのことが、今では遠い昔の出来事のように感じられる。
◇
ある日の昼休み。
私は一人で廊下を歩いていた。
すると、前方からレオンが歩いてくるのが見えた。
その隣には、あの女性がいる。
最近では、二人が一緒にいることも珍しくなくなっていた。
私は立ち止まった。
避けることもできた。
けれど――。
今日は、どうしても聞きたいことがあった。
「レオン……」
思わず、昔の呼び方が口からこぼれた。
レオンの足が止まった。
女性もこちらを見る。
レオンは一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに表情を消した。
「……エレオノーラ嬢」
やはり。
その呼び方だった。
「少しだけ、お話しできますか?」
「今は無理だ」
「ほんの少しでいいのです」
「何の話だ?」
「……私のことです」
レオンの眉がわずかに動いた。
「私が何か、あなたを怒らせるようなことをしたのでしょうか?」
「していない」
思いがけず、即答だった。
「では、どうして……」
「それは――」
レオンが言葉を止める。
私はその続きを待った。
けれど、隣にいる女性が静かに口を開いた。
「殿下。時間がありません」
「ああ」
レオンは私を見る。
その瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「エレオノーラ嬢。今は、私に構わないでくれ」
「……分かりました」
まただ。
また、突き放された。
「失礼いたします」
私は頭を下げて、その場を離れた。
背中を向けた瞬間。
涙が出そうになった。
けれど、泣かなかった。
もう、人前では泣かないと決めていた。
◇
その日の午後。
私は学園の図書室にいた。
机の上には、開いたままの本。
けれど、何度ページをめくっても内容が頭に入ってこない。
私は頬杖をつきながら、窓の外を眺めた。
「……私、何をしているのかしら」
レオンに会えば傷つく。
話そうとしても、追い返される。
それなのに、会いたいと思ってしまう。
幼い頃からずっと一緒だった。
私にとってレオンは、婚約者である前に、大切な幼馴染だった。
だからこそ。
突然、知らない人のように扱われることが辛かった。
その時。
「エレオノーラ様」
図書室の入口から声がした。
振り返る。
学園の使用人だった。
「王宮から、こちらを」
「私に?」
「はい」
差し出されたのは、一通の封書。
私はすぐに分かった。
レオンからだ。
震える手で封を開く。
けれど。
中に書かれていたのは、わずか数行だった。
『学園の卒業まで、もうあまり時間がない』
『それまでは、俺を信じて待っていてほしい』
『必ず、伝える』
私は何度も読み返した。
「……必ず、伝える」
その言葉だけが、胸に残った。
何を?
いつ?
どうして今は言えないの?
分からないことばかりだった。
けれど、最後の一文を信じることにした。
◇
一方、王宮。
「殿下」
例の女性が、机の上に広げられた書物を閉じた。
「本当に、あの方に何もお伝えしないのですか?」
「……ああ」
レオンは答えた。
「卒業までは、何も話さない」
「ですが、あの方はかなり苦しんでいます」
「分かっている」
「ならば――」
「分かっているからこそだ」
レオンは静かに答えた。
「今の俺が何をしているのかを知れば、エレノアはきっと俺を待つ」
「それが嫌なのですか?」
「……ああ」
レオンは窓の外を見る。
遠くに学園が見える。
「俺が帰れなかった時、あいつに残るのは後悔だけになる」
「ですが、何も知らないまま婚約を解かれるほうが、辛いのでは?」
レオンは黙った。
その言葉は、胸に突き刺さった。
分かっている。
そんなことは分かっている。
それでも。
「俺は、あいつに生きてほしい」
小さく呟く。
「俺がいなくなっても、幸せになってほしい」
女性はそれ以上、何も言わなかった。
◇
それから数日。
私はレオンと話すことができなかった。
学園で見かけても、彼は私を避ける。
いや。
正確には、私に近づかないようにしている。
けれど時々。
遠くから私を見つめていることがある。
目が合うと、すぐに逸らされる。
そのたびに、胸が苦しくなる。
嫌われたわけではない。
でも、愛されているとも思えない。
私は、その曖昧な距離の中で苦しんでいた。
そんなある日の夕方。
廊下の窓から外を見ていると、王宮へ向かう馬車が見えた。
レオンの紋章が入った馬車。
その後ろには、もう一台。
そして、その馬車には――。
あの女性が乗っていた。
私は無意識に窓へ近づいた。
馬車は王宮へ向かって遠ざかっていく。
「……あの方は、一体誰なの?」
答えはない。
ただ。
レオンが私に何も話してくれない理由と、あの女性が王宮にいる理由。
その二つが、どこかで繋がっている気がした。
私は胸元で手を握りしめる。
卒業まで、あと少し。
レオンは「必ず、伝える」と言った。
だから私は待つ。
どれほど苦しくても。
どれほど寂しくても。
その約束だけを信じて。




