第十五話 最後の準備
翌朝。
北の山脈には、薄い雪が降っていた。
白い雪が静かに舞い落ちる中、レオンハルトたちは石碑の前に集まっていた。
昨日見つけた古い石碑。
その向こうには、山の内部へ続く巨大な裂け目がある。
裂け目の奥からは、黒い霧のような魔力が絶えず流れ出していた。
「ここから先が、封印の間です」
封印の魔女が告げる。
騎士たちの表情が引き締まった。
「邪龍は、この奥に?」
「はい」
魔女は頷いた。
「正確には、まだ完全に目覚めてはいません」
「ならば、今のうちに」
「ええ」
魔女はレオンを見る。
「ですが、その前に一つ確認しておきたいことがあります」
「何だ?」
「封印を開始した後、私は殿下を直接助けることができません」
レオンは黙って彼女を見る。
「封印術は、王家の血を持つ者でなければ完成させられません。私は術式の補助はできますが、最後の封印を成すのは殿下自身です」
「ああ」
「もし途中で術式を止めれば――」
「失敗する」
「はい」
レオンは一度、目を閉じた。
昨夜から何度も考えていたことだった。
自分が失敗すれば。
この国に何が起こるか。
考えるだけで、胸が重くなる。
それでも。
「やる」
レオンは目を開いた。
「俺が封じる」
◇
封印の魔女は、地面に魔法陣を描き始めた。
雪の上に光が走り、複雑な紋様が次々と浮かび上がっていく。
「この魔法陣を中心として、邪龍を封印します」
レオンは魔法陣を見つめた。
「俺がここに立つ」
「はい」
「魔力を流し続ける」
「はい」
「そして、最後に王家の血を媒介として封印を完成させる」
「その通りです」
数か月前。
この術を初めて教えられた時には、これほど複雑なものを自分が扱えるとは思っていなかった。
術式を覚えるだけでも苦労した。
魔力を一定に保つだけでも何度も失敗した。
だが。
何度も繰り返すうちに、少しずつ形になっていった。
今ならできる。
そう思える。
けれど――。
「殿下」
「何だ?」
「一つだけ、覚えておいてください」
魔女の声が静かになる。
「封印術は、力だけでは完成しません」
「……覚悟、か?」
「はい」
レオンは苦笑した。
「それは、何度も聞いた」
「では、もう一つ」
魔女はレオンを見つめた。
「最後まで、自分が生きて帰ることを諦めないでください」
「……」
「封印に命を捧げる必要はありません」
レオンの表情が変わった。
「俺が死ななければ封印できない、というわけではないのか?」
「ありません」
魔女ははっきりと答えた。
「術式を完成させることと、命を失うことは別です」
「そうか」
「むしろ、帰る意思を失った者では、封印術を最後まで維持できないでしょう」
レオンはしばらく黙っていた。
そして。
「……それなら、問題ない」
「はい?」
「帰る理由なら、ある」
レオンは北の空を見た。
その向こうに、王都がある。
「俺を待っている人がいる」
魔女は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
◇
昼過ぎ。
封印の間へ続く道の確認が終わった。
騎士たちは周囲の警戒に当たり、魔女は最後の術式確認を行っている。
レオンは一人、岩壁のそばに立っていた。
手には、王家に代々伝わる短剣。
封印術で使うためのものだ。
「……これを使う日が来るとはな」
幼い頃。
父から王家の歴史を聞かされた時には、邪龍の封印など遠い昔の話だと思っていた。
まさか自分が、その役目を担うことになるとは。
レオンは短剣を鞘へ戻した。
「殿下」
騎士の一人が近づいてくる。
「何だ?」
「王都からの伝令が来ています」
「王都から?」
「はい」
レオンは受け取った書状を見る。
封蝋には王家の紋章。
封を切る。
中に書かれていたのは、短い報告だった。
北方で魔物の活動が増加していること。
しかし、王都周辺は今のところ平穏であること。
そして――。
エレオノーラが婚約破棄の権利を行使していないこと。
レオンは、その一文をしばらく見つめていた。
「……そうか」
小さく笑う。
「まだ、待っていてくれるのか」
書状を胸元へしまう。
「なら、なおさら失敗できないな」
◇
夕方。
最後の食事が用意された。
騎士たちはいつもより静かだった。
明日には、封印の間へ入る。
全員がその意味を理解している。
レオンもまた、ほとんど口を開かなかった。
食事を終えた後。
魔女が隣へ座った。
「眠れそうですか?」
「分からない」
「緊張していますね」
「ああ」
レオンは苦笑する。
「俺はこれでも王太子なんだがな」
「王太子であることと、恐怖を感じることは別でしょう」
「……そうだな」
少し沈黙する。
「なあ」
「はい」
「もし俺が失敗したら」
魔女は答えを急がなかった。
「その時は?」
「その時は、私ができる限りのことをします」
「そうか」
「ですが」
魔女はレオンを見る。
「失敗すると決めつける必要はありません」
レオンは少しだけ笑った。
「分かっている」
そして立ち上がる。
「明日だ」
「はい」
「明日、邪龍を封じる」
レオンは空を見上げた。
雪雲の向こうには、星があるはずだった。
「そして帰る」
その声は静かだった。
けれど、確かな決意が込められていた。
◇
同じ頃。
王都では、夜空に星が瞬いていた。
私は窓辺に座り、一通の手紙を書いていた。
レオンへ送ることはできない。
今、彼がどこにいるのかも正確には分からない。
それでも。
書かずにはいられなかった。
『レオンへ』
そこまで書いて、手が止まる。
何を書けばいいのだろう。
無事でいて。
帰ってきて。
待っている。
伝えたいことは、たくさんある。
けれど。
私は最後に、たった一言だけ書いた。
『おかえりなさい、と言わせてください』
まだ帰ってきていない人への言葉。
それでも。
きっと帰ってくると信じて。
私は手紙をそっと閉じた。
◇
翌朝。
レオンハルトは目を覚ました。
外には、朝日が差し込んでいる。
北の山脈が、白く輝いていた。
「殿下」
魔女が呼ぶ。
「準備が整いました」
レオンは立ち上がる。
剣を腰に差す。
短剣を確認する。
そして、最後に一度だけ王都の方角を見た。
「行こう」
少数精鋭の騎士たちが続く。
その先にあるのは。
邪龍が眠る、封印の間。
そして――。
王国の命運を懸けた、最初で最後の封印だった。




