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婚約破棄を告げた王太子は、泣きそうな顔で私に微笑んだ  作者: なごやかたろう


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第十三話 封印の魔女

 北へ向かう旅は、王都を離れて三週間を経過していた。

 王太子レオンハルト率いる一行は、街道を外れ、山間の道へと入っている。

 馬車の窓から見える景色は、王都とはまるで違っていた。

 緑豊かな平地は次第に姿を消し、岩肌の覗く山々が増えていく。

 さらに北へ進めば、雪に覆われた北の山脈が見えてくる。

 その先に。

 邪龍がいる。


「殿下」


 馬車の向かいに座る女性が口を開いた。


「少し休まれてはいかがですか?」

「まだ大丈夫だ」

「ここ数日、ほとんど眠っておられません」

「眠っている時間が惜しい」


 女性は小さく息を吐いた。

 レオンは窓の外を眺めている。

 けれど、その瞳に映っているのは北の景色だけではない。

 王都。

 そして、エレオノーラ。


「……あいつ、待っているんだな」

「はい」


 女性が答えた。


「婚約破棄の権利を行使しない、と」

「ああ」


 レオンは目を伏せた。

 胸の奥に、温かいものが広がる。

 同時に。

 その温かさが、今は少しだけ苦しかった。


「……帰らないとな」


 小さく呟いた。


「はい」


 女性は静かに頷いた。


     ◇


 しばらく馬車が進んだ。

 車輪が石を踏む音だけが、狭い車内に響いている。

 やがてレオンが、膝の上に置いていた手を握りしめた。


「……なあ」

「はい」

「本当に俺に、邪龍を封印できるのか?」


 女性はレオンを見る。

 その問いには、これまで見せなかった不安が滲んでいた。

 封印術そのものは、もう習得している。

 数か月間。

 レオンは王宮の奥で、彼女から徹底的に教えを受けた。

 術式の組み方。

 魔力の流し方。

 複雑な術式を維持するための集中。

 何度も繰り返し、何度も失敗し、そのたびに修正してきた。

 知識も技術も、身につけた。

 だが。

 これから向かう場所は訓練場ではない。

 本当に邪龍を目の前にして。

 一度きりの封印術を成功させなければならない。

 もし失敗すれば。

 北方の民だけではない。

 王国そのものが危機にさらされる。

 そして、自分自身も無事では済まないかもしれない。


「封印術については、もう何度もお答えしました」


 女性が静かに言った。


「殿下は、必要な術式をすべて習得されています」

「ああ」

「魔力の制御にも問題ありません」

「……分かっている」

「では、なぜ?」


 レオンは苦笑した。


「本番だからだ」

「……」

「今までやってきたのは、全部訓練だ」


 レオンは自分の手を見る。


「術式を間違えても、やり直せた」

「はい」

「魔力が乱れても、そこで止められた」

「はい」

「だが、邪龍を前にしたら違う」


 レオンは顔を上げた。


「一度しかない」


 女性は黙っている。


「もし術式が崩れたら?」

「……」

「もし、俺の魔力が足りなかったら?」


 レオンの声が、少しだけ低くなる。


「もし、邪龍の力が想定より強かったら?」


 それは王太子としての質問ではなかった。

 一人の青年としての、純粋な不安だった。

 数か月間、封印術を学んできた。

 だからこそ分かる。

 邪龍の封印が、どれほど難しいものなのか。


「……本当に、俺にできるのか?」


 女性はしばらくレオンを見つめていた。

 そして、はっきりと答えた。


「できます」

「……本当に?」

「はい」


 迷いのない返事だった。


「殿下なら、邪龍を封印できます」


 レオンは黙って彼女を見る。


「簡単だとは申しません」

「分かっている」

「邪龍は、これまで殿下が訓練で相手にしてきた魔物とは比べものにならないでしょう」

「ああ」

「封印の最中には、凄まじい魔力の奔流が起こるはずです」


 女性は淡々と説明する。


「その中で術式を維持しなければなりません。一瞬でも集中を乱せば、封印は失敗します」

「……そうか」

「ですが」


 女性はレオンをまっすぐ見た。


「殿下は、この数か月間、一度も逃げませんでした」

「……」

「術式に失敗すれば、最初からやり直した」


 レオンは黙って聞いている。


「魔力が尽きても、翌日にはまた訓練された」

「……」

「分からないことがあれば、理解するまで繰り返した」


 女性は静かに微笑んだ。


「ですから私は、殿下ならできると申し上げています」


 レオンは目を伏せた。


「……そうか」


 しばらくして。

 小さく息を吐く。


「なら、やるしかないな」

「はい」

「絶対に成功させる」


 その声には、もう迷いはなかった。


     ◇


 馬車が止まった。


「殿下」


 外から騎士の声がする。


「北の山脈が見えてきました」


 レオンは立ち上がった。

 扉を開ける。

 冷たい風が吹き込んできた。


「……これが」


 目の前に広がる巨大な山々。

 頂は白く染まり、その一角から黒い煙のようなものが立ち上っている。

 大地の奥から、何か巨大なものが息づいているようだった。

 騎士たちの間にも緊張が走る。


「邪龍は、まだ完全には目覚めていません」


 女性が隣に立つ。


「だからこそ、今のうちに封印する必要があります」

「ああ」


 レオンは北の山脈を見上げた。

 怖くないと言えば嘘になる。

 自分が本当に成功できるのか。

 最後まで立っていられるのか。

 王都へ帰れるのか。

 分からない。


 それでも。

 レオンの脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。

『私は婚約破棄の権利を行使しません』

 エレオノーラの言葉。


 そして。

『ちゃんと帰ってきてください』

 学園で聞いた優しい声で、そう言われた気がした。

 レオンは剣の柄を握った。


「帰るぞ」


 騎士たちが顔を上げる。


「俺たちは、必ず王都へ帰る」

「はっ!」


 一斉に声が響く。

 レオンはもう一度、北の山脈を見上げた。

 そして、歩き出す。


     ◇


 その頃、王都。

 私は窓辺に立って、北の空を眺めていた。


「……今頃、どこにいるのかしら」


 レオンが出征してから、まだ数日。

 それなのに、随分と長い時間が過ぎたように感じる。

 私は胸元で手を握った。


「絶対に、帰ってきて」


 誰もいない庭に向かって呟く。


「私は待っていますから」


 もちろん、返事はない。

 けれど。

 なぜか、レオンも同じ空を見ているような気がした。

 同じ空の下。

 遠く離れた場所で。

 二人はそれぞれ、同じ約束を胸に抱いていた。

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