第十二話 残された侯爵令嬢
大広間の扉が閉じてから、しばらく。
誰も動かなかった。
音楽も止まったまま。
料理の前に立っていた給仕たちも、何をすればいいのか分からない様子で立ち尽くしている。
つい先ほどまで、卒業を祝う華やかな場所だった。
それが今は、まるで別の場所になっていた。
「……邪龍」
誰かが呟く。
「本当に、復活したのか?」
「北の山脈って……あの北方か?」
「なら、王太子殿下は……」
ざわめきが広がっていく。
私は、その声を聞きながら立ち尽くしていた。
レオンが去った扉を見つめたまま。
「エレオノーラ」
兄の声がした。
「……お兄様」
振り返る。
兄は心配そうな顔をしていた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫です」
そう答えたものの。
自分でも、全然大丈夫ではないことが分かっていた。
兄が私の肩に手を置く。
「帰ろう」
「はい」
私は頷いた。
けれど、足が動かなかった。
頭の中では、レオンの最後の言葉が何度も繰り返されている。
『君は、俺にとってずっと大切な人だ』
そして。
『生きて帰れるか、分からない』
「……お兄様」
「なんだ?」
「レオンは……帰ってきますよね?」
兄はすぐには答えなかった。
「……帰ってくるさ」
優しい声だった。
けれど、その声に確信がないことくらい分かってしまう。
「そうですよね」
「ああ」
私はもう一度、扉を見る。
「帰ってきます」
自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
馬車の中。
私はずっと窓の外を見ていた。
王立学園が遠ざかっていく。
今日で卒業した。
本来なら、レオンと一緒に学園生活最後の日を喜ぶはずだった。
卒業パーティーで踊って。
これまでの思い出を語って。
これからの未来について話すはずだった。
それなのに。
私の手元に残ったのは、婚約破棄の権利だけ。
「……変なの」
思わず呟いた。
「何が?」
向かいに座る兄が尋ねる。
「婚約を破棄されたわけではないのに」
私は胸元に手を当てた。
「婚約は終わったんですよね」
「王太子殿下は、そういう意味で告げたのだろう」
「でも……」
私は小さく笑った。
「私には、破棄する気なんてありません」
兄は何も言わなかった。
「だって」
涙が一粒落ちる。
「レオンは、私を嫌いになったわけじゃなかったから」
「……そうだな」
「ずっと、何かを隠していたんですね」
「ああ」
「もっと早く教えてくれればよかったのに」
兄は苦笑した。
「王太子殿下らしいと言えば、らしいのかもしれないな」
「……不器用すぎます」
「ああ」
二人で小さく笑った。
けれど。
すぐに、胸の奥が痛くなった。
「でも……」
私は窓の外を見る。
「北の山脈って、どれくらい遠いのでしょう」
「かなり遠い」
「レオンは、いつ帰ってくるのでしょう」
「分からない」
「そうですか……」
私は目を閉じた。
レオン。
どうか。
無事でいて。
◇
翌朝。
王都には大きな混乱が広がっていた。
北の山脈で邪龍が復活した。
王太子レオンハルトが討伐ではなく、再封印のために出征した。
その情報が正式に発表されたからだ。
王宮からの発表によれば、邪龍は完全に復活したわけではないらしい。
しかし、封印の弱体化によって周辺地域では魔物の活動が活発化しているという。
王都の民は不安に包まれていた。
私は屋敷の窓から、王都を見下ろしていた。
「エレオノーラ様」
侍女が声をかける。
「王宮から使者が参りました」
「私に?」
「はい」
応接室へ向かう。
そこには王宮の使者が立っていた。
「バレンティン侯爵令嬢」
「はい」
「陛下より、お伝えするよう命を受けております」
私は姿勢を正した。
「昨夜、王太子殿下が告げられた通りです」
「……はい」
「殿下との婚約について、あなたには正式に婚約破棄を選択する権利が与えられております」
私は黙って聞いていた。
「王命として、です」
「……分かりました」
「その意思については、急いで決める必要はないとのことです」
私は少し驚いた。
「そうなのですか?」
「はい」
使者は一礼する。
「陛下は、殿下が無事に戻られるまで待つことも、あなた自身の未来を選ぶことも、どちらもあなたの自由であると仰せです」
私は目を伏せた。
王様は、私に選ばせてくれるらしい。
けれど。
私の答えは、もう決まっていた。
「お伝えください」
私は静かに顔を上げる。
「私は婚約破棄の権利を行使しません」
「……承知しました」
「レオンが戻ってくるまで、待ちます」
使者が一礼する。
「承りました」
◇
その日の午後。
私は一人で庭に出た。
春の終わりを告げる風が吹いている。
ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
まだ王太子と侯爵令嬢という立場も知らなかった頃。
庭園で一緒に遊んだこと。
木陰で本を読んだこと。
レオンが剣の稽古を始めた頃。
私が応援すると、照れくさそうに笑ったこと。
どれも大切な思い出だった。
「……私、待っていますからね」
誰もいない庭で呟く。
「ちゃんと帰ってきてください」
返事はない。
それでも。
私は信じていた。
◇
そして、北へ向かう王太子一行。
長い街道を進む馬車の中で、レオンは窓の外を眺めていた。
「殿下」
隣に座る女性が声をかける。
「王都から連絡が入りました」
「エレノアのことか?」
「はい」
レオンが振り返る。
「……どうした?」
「婚約破棄の権利についてです」
レオンは一瞬、目を伏せた。
「そうか」
「エレオノーラ様は――」
女性が言葉を続ける。
「その権利を行使しないと、返答されたそうです」
「……」
レオンの瞳が揺れた。
「そうか」
それだけ言って、窓の外へ顔を戻す。
けれど。
口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
「……困ったな」
「殿下?」
「帰らないわけには、いかなくなった」
女性は何も言わなかった。
レオンは北の空を見つめる。
「必ず帰る」
今度は、誰かに言うためではなく。
自分自身に誓うように。
「エレノアのところへ」




