08.和と洋
ヌイが昼食の調達のために街を歩いていると、また慶一郎とばったり遭遇していた。
「近々、上の者が、視察で横浜へ来られます。
不審な人物ではないので、見かけても驚かないでください」
と、慶一郎が言った。
「通詞の上の方……ですか?」
とヌイが聞くと、
「……まあ、そういうことです」
と慶一郎は言って、はぐらかした。
いつものことだった。
ヌイは慶一郎のそういう部分に慣れてきていた。
聞いても全部は答えない。
でも、問いつめることはしなかった。
針仕事でも、布を無理に引っ張ってはいけない。
張力に逆らうと糸が切れやすくなる。
時機を待てば、布の方が自然に動く。
(人間関係も、同じなんだろうな)
と、思ったことは、口には出さなかった。
◇
それから、数日後の朝。
ヌイが窓から港の方角を見ると、波止場の端に二人の男が立っているのが見えた。
一人は、すぐに慶一郎だとわかった。
もう一人は背が高く、総髪に縞の着物という出で立ちで、立っているだけで場の空気が変わるような凄みがあった。
二人は何かを話しているが、声は聞こえなかった。
そして、慶一郎がその男に向かって深く頭を下げた。
(あれが、上の方、か……)
ヌイは部屋の中に目を戻した。
これ以上見てはいけない気がしたからだ。
人の行動を盗み見るのは好きではなかった。
ただ、慶一郎があれほど深く頭を下げているのは、初めて見た。
普段は誰に対しても腰の低い人間だが、形だけの礼と心からの礼は、ヌイにはなんとなく見分けがついた。
あれは、心からの礼だった。
(慶一郎さんがあそこまで慕う人物……。
あの男性は、一体どういう人なのだろう)
◇
その日の午後。
ヌイとカーリーが奥で仕事をしている時、店に客がきた。
それを、クレアが対応しているようだった。
「ヌイさん、幕府のお役人の方が着物の補修をご所望です。
お願いできますか?」
とクレアが言った。
案内してきた男を見ると、ヌイは今朝埠頭で慶一郎といた人物だと気づいた。
近くで見ると、顔つきがさらに強かった。
目に力がある。でも、敵意ではなかった。
広く世界を見ている目だ、とヌイは思った。
男は、着物の補修箇所を示した。
袖の縫い目がほつれていた。
「今回は、私が補修を担当させていただきます。
よろしくお願いいたします」
と申し出ると、男がヌイを見た。
「お主が縫うのか?」
「はい」
「縫い物は、慣れているか?」
「着物の縫い直しは得意です」
男は「ふむ」と言った。
品定めではない。確認している感じだった。
ヌイが縫い始めると、男は少し離れて立ったまま待っていた。
ふらりと店の中を見回して、壁に立てかけてあったドレスの仮縫いの前で足を止めた。
「これは何だ?」
「舞踏会のドレスの仮縫いです」
とヌイは手を止めずに答えた。
「仮縫い……か」
男は少し前に出て、仮縫いのドレスを眺めた。
「しかし、これは和服の針目じゃないのか?」
「おっしゃる通りです」
「それで洋服の形を作っているのか?」
「はい、そうです」
男が腕を組んで、ドレスを見続けた。
何かを考えているらしかった。
「ふむ、面白い縫い方だ。
和でも洋でもない。折衷というのは――こういうことかもしれん。
お主が縫っているのか? これを」
「はい。私がやらせていただいています」
「名はなんと言う?」
「ヌイと申します」
「ヌイ……、珍しい名だな」
「父がつけました。縫い物の縫、だと」
男はしばらく黙ってから、「そうか」と言った。
「今の日本には、こういうものが要るのかもしれないな」
「ドレスが、ですか」
「そうではない。
和と洋を縫い合わせることが、だ。
日本と外国を縫い合わせること。
今の世界は、どちらかが一方をねじ伏せようとしている。
それでは糸が切れてしまう。
お互いが歩み寄り、縫い合わせるしかないのだが、それをわかっている人間が少ないのが現実じゃ」
ヌイはその言葉の意味を、全部すぐに理解できたわけではなかった。
ただ――縫い合わせる、という言葉が、胸の奥に刺さった。
同じことを、惣兵衛が言った。
ワーグマンが言った。
そして今、この人も言った。
「……もう少しかかります。お待ちいただけますか?」
「かまわん、待つ」
と男は言って、近くの椅子に腰を下ろした。
ヌイは縫い続けた。
◇
縫い終わって渡すと、男は補修箇所を確かめた。
「いい腕だ」
余分な言葉がなかった。
男は扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「お主は、この国が変わっても針を持ち続けられるか?」
「はい。針は置きません」
「ならば心配いらない」
男は扉を開けて、出ていった。
◇
夕方、慶一郎が店にやってきた。
「今日、お会いになりましたか?」
とだけ聞いてきた。
「はい。着物の補修にいらっしゃいました」
「どうでしたか……?」
「すごい方でした。
――あの方のお名前を、聞いてもいいですか?」
「あの人は、勝海舟、と言います」
「勝海舟……」
ヌイは名前を繰り返した。
「勝様は、幕府の方なのですよね?」
「……はい」
「でも、幕府の方にしては、妙なことをおっしゃっていました。
縫い合わせることが大事だと」
「縫い合わせる……」
「はい。和と洋を、日本と外国を――縫い合わせることが、と。
最初は、難しいことを簡単に言う方だと思いました。
……でも、簡単に言える人こそが、本当に難しいことを理解しているんだと思います」
「……そうかもしれませんね」
と慶一郎は噛み締めるように言った。
◇
それから一ヶ月。
真夏の横浜は、音が多かった。
港に入る船の汽笛。
埠頭に荷を積む男たちの掛け声。
石畳を行く馬車の音。
江戸の夏も騒がしかったが、横浜の夏の騒がしさは種類が違った。
いくつかの国の音が重なって、一つの街を作っている。
鎖国中には想像もつかなかった光景だろう。
ヌイはその音を聞きながら、毎日針を動かしていた。
舞踏会のドレスの仮縫いが、ようやく形になってきていた。
和裁の針目が体の丸みに沿って走り、薩摩の絹が洋服のシルエットを作っていく。
クレアが時折後ろから覗いて、黙って頷いた。
黙って頷くのがクレアの最大の褒め言葉だとわかってから、ヌイは仕事中にその気配を感じるたびに、少しだけ背筋が伸びた。
今日は、文久二年の八月二十一日、日曜日。
居留地の外国人にとって日曜日は安息日で、人々は教会へ行き、あるいは馬を駆って郊外へ遠出した。
ヌイには関係のない習慣だったが、街の空気が他の日より少しだけ緩むのは感じていた。
「そろそろお昼ね。
ヌイさん、カーリー、休憩に入っていいわよ」
「ありがとうございます。
けど、私はもう少しドレスを」
「そう、頑張りすぎないでね。
私は買い物があるから、午後からはお店開けるわね」
「承知いたしました。
お気をつけてください」
カーリーは何かを思い出したかのように、
「あ、ミセス・クレア。
私も両親の手伝いがあるので、今日は午前中で帰らせてもらいます」
と言った。
その後、二人は「それじゃあね」と言って、店から出た。
ヌイは一人残り、仕事場の奥でドレスの仮縫いの最終確認に入った。
◇
ヌイは仕事に没頭していた。
(なんだか、外が騒がしい……?)
店内が静寂に包まれていたお陰で、外の気配が変わったのが、はっきりとわかった。
通常の往来とは違う馬の蹄の音が、路地に響いている。
石畳を蹴る音が乱れている。
何かから逃げている、あるいは何かを急いでいるような速さだった。
(また、何か起こったの……?)




