07.薩摩の絹で洋服を
慶一郎は、翻訳した。
「“nui”という言葉は、ハワイの言葉で“偉大な、大切な”という意味があり、神の名にも使われる言葉だと、彼は話しています」
ヌイは動けなかった。
「どうしてそんな名前なのかと、聞いていますよ」
と慶一郎が続けて訳した。
その瞬間、頭の中で惣兵衛の声が蘇った。
あの薩摩訛りの、大きな体から出る穏やかな声だった。
『ヌイというのはのぅ、縫い物の縫じゃ。
切れたものを繋ぐ。裂けたものを合わせる。
傷ついたものを、元に戻す――それが縫合ぞ』
「……父が、縫い物の縫から名付けてくれました」
慶一郎がそれを訳すと、男がまた言葉を返した。
今度は、声が少し静かになっていた。
「偉大な縫合――きっとあなたは、何かを繋ぐために生まれてきた娘だ、と話しています」
潮風が来た。
ヌイは手の中の注文書を、少しだけ強く握った。
(偉大な縫合……)
父はハワイのことを知っていたのだろうか。
いや、たぶん知らなかっただろうと思う。
ただ、縫い物という言葉を選んで、ヌイという名をつけただけ。
それが、遠い海の向こうの言葉と、偶然に重なっていた。
「Aloha!」
男がまた何かを言い、日本式の“お辞儀”をした。
「彼は、良い土産話ができた、と感謝しています」
と慶一郎は訳した。
「こちらこそ、ありがとうございました」
ヌイという言葉の意味を教えてくれたことに対する感謝だった。
「Mahalo!」
男は元気よくそう言って、船の中に消えていった。
再び、慶一郎と二人きりになる。
「今のは、ハワイの言葉で『ありがとう』という意味です」
「慶一郎さん、ハワイの言葉まで知っているんですね」
「たまたまです。でも――」
と慶一郎は言いかけて、止まった。
「でも?」
「……あなたの名前が、ハワイの言葉と繋がった。
素敵な話です」
繋がった、と慶一郎は言った。
名前が、繋がる。言葉が、繋がる。意味が、繋がる。
針で縫い合わせたものが――繋がる。
惣兵衛は江戸で死んだ。薩摩には帰れなかった。横浜にも来なかった。
それでも、惣兵衛の縫い目は、クレアとその夫の記憶に残っていて、ヌイをここへ引き寄せた。
惣兵衛がつけた名前は、南の島の言葉と意味が繋がった。
(お父つぁんはいなくなったのに、近頃はお父つぁんの生きた証をたくさん感じる……)
「あ、いけない!
私はクレアさんから頼まれた仕事があるのでした。
それでは」
慶一郎に別れを告げて、歩き始めると、
「私もそちらの方向なんです。
ご一緒してもよろしいですか?」
と言った。
いつもは目を見て話す慶一郎だが、この時ばかりは、ヌイの目を見なかった。
ヌイと慶一郎は埠頭を離れて、路地に入った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
でも、並んで歩いている、ということが、今日はなぜか少しだけ心強かった。
◇
それから数日後。
絹の競りの日は、居留地の一角が別の顔を見せた。
普段は静かな倉庫街に、早朝から絹を積んだ車が行き来する。
外国の商人と日本の商人が一列に並び、絹の山が秤にかけられ、数字と数字が紙の上で格闘する。
通詞たちが各所を走り回り、値段の折衝と書類の翻訳を同時にこなす。
(熱気が、すごい……)
ヌイがその場に足を踏み入れたのは、クレアに見学してくるよう言われたためだった。
ヌイは初めての雰囲気に、圧倒された。
江戸でも絹は見ていた。
惣兵衛の仕立て所には大量の絹が持ち込まれることもあったし、絹問屋についていって反物の山を見たこともある。
しかし、比にならない。
ここで積まれているのは、見たことのない量だった。
絹がひと山、またひと山と並んでいて、朝の光を浴びて、それぞれ微妙に違う光り方をしていた。
(絹が、こんなにも集まるなんて……)
ヌイは足を止めて、並んでいる絹の山を見ていた。
目が、自然に動いた。
職人の目だ、と自分でも思う。
品質の良し悪しを、手で触れなくても光の具合でだいたい読むことができる目は、惣兵衛から受け継いだヌイの誇りだった。
そんな中、ふと、一つの山に目が留まった。
他の山とは、艶が違う。白さが、少し深い。繊維の揃い方が、違う。
産地が違うのかもしれない、とヌイは少し考えた。
そこへ、声がした。
「ヌイさん、来ていたんですね」
慶一郎だった。
この場でも通詞として仕事があるらしく、帳面を持って忙しそうにしていた。
それでもヌイを見つけると、歩み寄ってきたのだ。
「ヌイさんも、これから競りですか?」
「いえ、今日は見学です」
「そうでしたか。
私は絹のことはさっぱりなので、どれも同じに見えてしまいます。
見て学べるヌイさんは、素晴らしい目をしていらっしゃるんですね」
「そんなことないです。
慶一郎さんも見方が分かれば、きっと区別がつくと思います。
例えば、あの絹、他の山と比べて光り方が少し違うの、分かりますか?」
とヌイは目で山を示すと、慶一郎も同じ山を見た。
「あれは、さっき私がいた絹の山ですね。
確かに、他と比べると、艶が違うように見えます」
「そうなんです。
あれは、おそらく薩摩で取れた絹なのだと思います」
その言葉を聞いた慶一郎は、感心したように微笑んだ。
「……すごいです。
確かにあそこの絹は、薩摩のものだと商人が言っていました」
ヌイはそれを聞いてホッとした。
「上州の絹と薩摩の絹では、艶が違います。
上州は明るく光りますが、薩摩は少し深い光り方をするんです」
慶一郎はヌイを見ているが、ヌイは山を見たまま答えた。
「ヌイさんは他の絹も、見ただけで産地がわかるんですか?」
「いえ、実は、父が薩摩の出でして。
子供の頃から、薩摩の絹だけは慣れ親しんでいました。
仕立て所に持ち込まれることもあって――艶の違いは、目で見てわかるようになったんです」
「なるほど、ヌイさんの鋭い観察眼は、そういったところから来ているのですね」
「観察眼とは大げさです。
針仕事は細かいところを見る仕事なので、慣れているだけです」
「そういう慣れを観察眼と呼ぶんだと思います」
ヌイは慶一郎の方を向いて「そうでしょうか」と言ってから、
「……父が薩摩の出だということは、周りには話していませんでした。
クレアさんだけは、それを知っているのですが……」
と付け加えた。
「なぜ、話さないのでしょうか?」
「特別、隠しているわけでもないのですが、薩摩というと、今の横浜では――」
言いかけて、止めた。
続きはわかるだろうと思った。
慶一郎も「ええ」とだけ言った。
今の横浜で“薩摩”という言葉には、重さがあった。
東禅寺の話はまだ落ち着かず、日本とイギリスの関係は綱渡りのような状況が続いており、薩摩とイギリスの軋轢は水面下で高まっていたのだ。
ヌイがその名を軽々しく言えないのは、惣兵衛の故郷を誇りに思っているからこそだった。
「でも、私が薩摩の絹で縫ったものを、クレアさんは気に入ってくれています。
そして、薩摩の絹は、ここで喜ばれている。
その事実だけで十分だと思っています」
慶一郎が「十分、か」と繰り返した。
何かを噛みしめているような繰り返し方だった。
そこへ、馴染みの商人がヌイに声をかけてきた。
クレアへの伝言を頼まれた。
慶一郎も仕事に戻り、二人はそれぞれの用へ向かった。
◇
その日の夕方、カーリーが帰った後、ヌイはクレアに呼ばれた。
普段とは違う呼ばれ方だった。
仕事の指示ではなく、改まって話をする時の声だった。
ヌイが作業台を離れてクレアの前に立つと、クレアはテーブルに一枚の紙を置いた。
その紙には、採寸の数字が書いてあった。
「ヌイさん。来月、居留地で舞踏会が開催されるわ」
「はい。それが、どうしたのでしょう?」
「領事の夫人が、ドレスを用意してほしいとのことで、私に依頼がきたの。
素材には薩摩の絹を使いたいと思っているわ。
ヌイさん、あなたにこのドレスを一着、担当してもらうわ」
ヌイはしばらく黙った。
「私、一人でですか?」
「もちろん」
「私はまだ、洋服を仕立てたことはありません」
「知っているわ」
「……失敗するかもしれません」
「それも、知ってる。
でも、あなたなら仕立てられると私は信じているの。
それは、毎日あなたを見ているからこそよ。
最近は、型紙を引く手が変わった。
体の声を聞く耳が変わった。
あなたはここへ来た時とは、もう別の針子になっているはずよ」
ヌイは何も言えなかった。
「怖い?」
「はい、怖いです」
「……では怖がりながら、やりなさい」
とクレアは言った。
「怖くなくなった時が、慢心の始まりだと、私は思っているわ」
ヌイは「はい」と言った。
採寸の紙を受け取りながら、手が少しだけ震えていた。
震えているのを、見られないように、紙をしっかり握って隠した。
クレアは見ていないふりをした。
それも、優しさだとヌイは思った。




