06.外国の男たち
その外国人の男は、背が高く、肩幅が広く、顎に短い無精ひげを蓄えていた。
手に帳面と鉛筆を持っており、歩きながら何かを描いていた。
(歩きながら描くなんて、器用な人ね)
男はヌイを見て、ぴたりと止まった。
それから何かを英語で言った。
早口で、ヌイには一言も聞き取れなかった。
「すみません、日本語で話せますか?」
「……スコシ」
と男は日本語で言ってから、また英語で何かを言った。
少し、というのが嘘だったのか、それとも日本語ではうまく伝えられないことがあったのか、判断がつかなかった。
そこへ、背後から「失礼」という声がした。
振り返ると、慶一郎が立っていた。
(また、慶一郎さんだ……)
ヌイ自身が思った“また”という言葉は、“都合よく現れる”という意味と“また会えた”という意味と、両方あることに気づいた。
どちらの意味がより強かったかは、考えないことにした。
「Mr. Wirgman」
と慶一郎が英語で言った。
(もしかして、彼がワーグマンさん?)
男が振り返り、慶一郎を見て笑顔になった。
二人は知り合いなのだろうか。
「ヌイさん、この方はチャールズ・ワーグマンさんといって、イギリス人の画家です。
今、とある雑誌の準備をされているそうで、あなたのことをスケッチしたいと言っています」
と訳してくれた。
「雑誌……ですか?」
「横浜の居留地の方々に向けた、風刺と絵の雑誌だそうです。
日本での暮らしや、時事のことを描いていきたいと話しています」
ヌイはワーグマンを改めて見た。
ワーグマンはすでに帳面を構えて、鉛筆を持ち、ヌイの着物をまじまじと観察していた。
「ちょっと待ってください。
なんで私なんですか?」
慶一郎が訳すと、ワーグマンはとても興奮した様子で、英語で話した。
「なるほど。『ハーバート洋裁店で腕の良い針子が働き始めたと、噂で聞いた。それが彼女である事は見れば分かる。いつか取材に行こうと思っていたが、その手間が省けた』と話しています」
と慶一郎が訳してくれた。
「腕のいい、なんてそんな……。
でも、恥ずかしいので顔は描かないでください。
手元なら、構いません」
慶一郎がそれを訳すと、ワーグマンが大きく笑った。
何か言いながら、肩を揺らしている。
「なんで笑うのですか?」
「彼が笑っているのは褒めているからですよ」
かすかに、慶一郎自身も笑っているような声だった。
ヌイはしばらくワーグマンを見てから、「では」と言って路地の石垣に腰を下ろした。
持っていた荷物から端切れと針を取り出して、縫い始めた。
「Amazing! The hands of working women are the most beautiful in the world!」
ワーグマンが独り言のように何か言った。
「『素晴らしい』と言っています。
『仕事をしている女性の手が一番美しい』とも」
と慶一郎が訳した。
「お世辞でしょう」
「ワーグマンさんはお世辞を言わないことで有名です」
「本当ですか?」
「居留地では」
その返答に、ヌイは少し笑った。
スケッチが終わるまで、しばらくかかった。
ワーグマンは何度も角度を変えながら、鉛筆を走らせていた。
その間、ヌイは縫い続けた。
西日が少しずつ色を変えていった。
◇
終わってから、ワーグマンがヌイに向かって何かを言った。
慶一郎が少し間を置いてから訳した。
「『描いた絵は残る。百年後も残る。あなたの針も、誰かの布の中に残る。どちらも同じだ』と言っていました」
(布の中に残る……)
それは、亡くなった惣兵衛の仕事のことを言っているのか、と一瞬思った。
クレアの夫が、遠い横浜から惣兵衛の仕立てを覚えていてくれた。
それも、残る、ということかもしれない。
「……ありがとうございます」
とヌイは言った。
ワーグマンがにっこりして、帽子を持ち上げた。
それから慶一郎に向かって早口で何かを言い、路地の向こうへ大股で歩き去った。
ヌイと慶一郎は、二人きりになった。
石垣に腰を下ろしたまま、ヌイは端切れを片付けた。
針を針刺しに戻す。糸を巻き直す。一つひとつ丁寧にやる。
急ぐことで慶一郎を追い払うような形にするのが、なんとなく気が引けた。
「慶一郎さんは、ワーグマンさんとは、お知り合いなのですか?」
「ええ、少し前からご縁があります」
「通訳として、ですか?」
「それもありますが、とても面白い方なので」
「面白い……。
事件の場でもスケッチをされるような方が、ですか?」
「ご存知なのですね。
私は、彼がそういう方だからこそ、面白いと感じたのかもしれません」
と慶一郎は笑いながら言った。
「ヌイさんは、どう思いましたか?」
「何が、ですか?」
「描かれてみて、です」
ヌイは少し考えた。
「正直、緊張していたので、よくわかりません。
でも、“残る”と言われた言葉は少し刺さりました」
「刺さった、というのは」
「針が、という意味ではなくて……。
いえ、針で刺されたような感覚かもしれません」
と冗談混じりで言った。
普段は冗談を言わないヌイだが、慶一郎と二人きりという状況が、そうさせたのかもしれない。
しかし、慣れない冗談は、慶一郎にはいまひとつ伝わらなかった。
ヌイの顔は赤くなった。
「えっと、それはどういう意味でしょうか?」
本当に聞いている声だった。
流したり、やり過ごしたりする感じがない。
「亡くなった父が縫った布が、まだ残っているんだなと気づかされました。
それが、針で刺されたような感覚だったんです」
少しの沈黙があった。
「ヌイさんのお父様の仕立てを、ミセス・クレアとそのご主人が覚えていた、という話は聞きました。
それが、ここへ来ることになった縁なのですよね?」
「はい」
「では、お父様が残した縫い目が、私たちの関係を縫い合わせてくれたのかもしれませんね」
慶一郎は簡単に言った。
でも、簡単に言ったことが、余分な飾りのない分だけ、真っ直ぐに届いた。
西日で石畳が赤く染まっていた。
「遅くなりましたね。お送りします」
「結構です。一人で戻れます」
「用心してほしいと言ったのは私ですから」
と慶一郎が言った。
「……では、お願いします」
言葉は少なかった。
ヌイは、慶一郎の少し後ろを歩いた。
どういうわけか背負っている荷物の感覚が、いつもより少し、はっきりとしていた。
◇
そして翌日。時刻は正午過ぎ。
荷降ろしが済んだばかりの埠頭に、潮と木材の匂いが混ざっていた。
ヌイが糸の注文書を届けに行く途中、桟橋で一人の男が木箱の上に座っているのを見かけた。
この頃になると、外国人はもう見慣れていたが、この男の褐色の肌は、他のどれとも違った。
南の海を長く旅してきたような、太陽を深く吸い込んだような色だった。
着ているものは西洋の船乗り風だったが、装飾品が独特で、貝を磨いたものと思しき首飾りをしていた。
「Aloha!」
男がヌイに気づいて、にっこりとした。
外国語で何かを言ったが、ヌイが知っている発音とは少し違った。
「すみません、日本語しか話せなくて」
困っていると、後ろから足音がして「どうかしましたか」という声がした。
振り返らなくてもわかった。慶一郎だった。
(この人は、また……)
「また、お力になれそうですね」
「聞こえていましたか? 私の心の声」
「顔に出ていました」
ヌイは自分の頬に手を当てた。
慶一郎はすでに男の方を向いて英語で話しかけていた。
男が答えると、慶一郎の顔が少し変わった。
何か、面白いことを聞いた時の顔だ、とヌイは思った。
「あの方は何と言っているのですか?」
とヌイが聞くと、慶一郎がこちらを向いた。
「この方は、太平洋を渡って来られたそうです。
アメリカの捕鯨船の乗組員で、ハワイという島に長く住んでいたと。
ヌイさんはご存知ですか?」
「……ハワイ、聞いたことないです」
「ハワイは、南にある大きな島です。
今はいろんな国の方が住んでいると聞いています」
男がヌイを見て、また何か言った。
今度は短かった。
「彼、『name』と言いましたか?」
と慶一郎に聞いた。
「ヌイさん、いい耳してますね。
彼はあなたの名前を聞きたいと言っています」
「私は、ヌイと申します」
とヌイが答えると、男の表情が変わった。
驚いた顔だったが、怖いとか悲しいとかではなく、何か思いがけないものを見つけた時の顔だった。
男がゆっくりと立ち上がり、また言葉を続けた。
「The word "nui" is a Hawaiian word meaning……(“ヌイ”という言葉は、ハワイの言葉で……)」




