09.大名行列の作法
ヌイは仮縫いから顔を上げた。
窓の外を見ると、白い馬が走り過ぎた。
馬上の人物は、外国人の女だった。
帽子は外れ、髪が乱れて風に流れていた。
顔が真っ白で、唇が動いていた。
叫んでいるのか、祈っているのか、遠くてわからなかった。
洋服の一部が緋色に染まっていた。
ヌイは立ち上がって、扉を開けた。
路地に出ると、馬は既に通り過ぎていた。
代わりに、居留地の大通りの方が、阿鼻叫喚の巷と化していた。
次々と扉が開く音。人が走る音。
英語の叫び声が重なり合い、意味をなさないまま広がっていく。
(もう、やめて……)
ヌイは嫌な予感がした。
大通りに出ると、先ほどの白い馬が止まっていた。
馬から降りた女が、周りに集まってきた居留地の人々に向かって、震える声で何かを叫んでいた。
緋色が服に、顔に、飛んでいた――それは血だった。
彼女自身に傷は見当たらないので、誰かの血を浴びたのだろうと推察できた。
人々がざわめいた。
女の言葉を聞いた人たちの顔が、白くなり、次第に赤くなった。
怒りが広がるのが、言葉がわからなくても空気でわかった。
その時、慶一郎が群衆の中にいるのを見つけた。
他の場所から急いで駆けてきたらしく、着流しに汗が滲んでいた。
慶一郎は人垣をかき分けて女の傍に近寄り、英語で何かを聞いた。
女が答えると、慶一郎の顔が一瞬だけ止まった――何か重大なことを聞いた時の顔だとヌイは思った。
それから慶一郎は、すぐに動き出した。
落ち着いた声で周囲に何かを言い、走り去る者を引き留め、騒ぎをわずかに鎮めようとしていた。
ヌイは群衆の外縁に立ったまま、その様子を見ていた。
今は、そうすることしかできなかった。
◇
夕刻、ヌイは一人で店の中にいた。
(お願い、誰か帰ってきて……)
そう願った瞬間、店の扉が勢いよく開いた。
慶一郎だった。
その傍には、クレアとカーリーもいた。
「ヌイさん、ご無事でしたか?」
「慶一郎さん……! それに、クレアさんもカーリーも」
「お二人には偶然会ったんです。
ここまで送りますと、私から申し出ました」
「一体、何があったのですか……?」
慶一郎は、しばらく俯き、何から話して良いかを考えている様子だった。
「私が知っている範囲でよければ、お話しいたします。
……事件が起こったのは、正午過ぎです。
ヌイさん、生麦村はご存知ですか?」
「ええ、ここから少し北へ行ったところですよね?」
「おっしゃる通りです。
そこで、リチャードソンというイギリス人が大名行列の前を横断してしまい、激怒した薩摩藩士に斬りつけられ、絶命しました」
(絶命……。よりによって、薩摩の方に……)
「他にも数名いたようですが、うち一人は、ほぼ無傷で馬を飛ばし、居留地まで事件を報告しにきていました」
「その様子は見ていました。
白い馬に乗った、女性の方でしたよね?」
「はい」
その時のクレアの顔が、ヌイの脳裏に焼き付いた。
顔が青ざめる、という言葉はあるが、クレアの顔は青ざめたのではなく――色が抜けたようだった。
全ての感情が止まったような感じだった。
「……リチャードソン」
とクレアは呟いた。
「ミセス・クレア、知り合いだったのですか?」
とカーリーが恐る恐る聞いた。
「先日、少し言葉を交わした程度ですが、私たちと同じ国の人だもの」
とクレアは言った。
声は、静かだった。
怒っているのではなかった。
悲しんでいるのでもなかった。
ただ――重かった。
次に口を開いたのは、カーリーだった。
「私、日本人は好きだけど、薩摩の人間は別よ。
日本の習慣を知らずにただ馬で走っていた人を簡単に殺すなんて……。
理解してもらえないまま、殺されたんだ……。
そんなのって、あんまりだよ……」
カーリーの言葉は、針のようにヌイに刺さった。
また、ヌイの父である惣兵衛が薩摩の人間だということを知っているクレアと慶一郎は、複雑な表情で聞いていた。
しばらく沈黙の時間が流れる。
リチャードソンは、日本に来たばかりのイギリス人で、大名行列の作法を知らなかった。
薩摩の藩士は、その作法が全ての外国人に浸透しているわけではない、ということを知らなかった。
二つの「知らない」が交差して、一人の命が終わった。
(ただ、知らないということが、人を殺すことがあるんだ……)
悲しいことに、それだけは事実だった。
しばらくして、今度はヌイが口を開く。
今、あの言葉を口にするのは怖かったが、それでも言わなければならないと思った。
「カーリー、ごめんなさい。
隠してたわけじゃないんだけど、私のお父つぁんは――薩摩の出なんです」
その言葉を聞いたカーリーは、ヌイを睨むような蔑むような目で見た。
クレアはそれに気がつき、カーリーの手を握った。
ヌイはその様子を確認し、続けた。
「クレアさんは、そのことをご存知の上で私をここに置いてくださっていますよね。
ですが、私は、もうここを去った方がいいですか……?」
「なぜ、そんなことを聞くの?」
「聞かなければならない気がして。
クレアさんも、薩摩の人はお嫌いでしょう」
クレアは、強引にヌイの手を取った。
そして、優しくクレアとカーリーの手で挟んだ。
三人の手が――繋がった。
「……いい? ヌイさん。
確かに、あなたのお父様は薩摩の出身よ。
だけど、あなたは今、薩摩でも江戸でもなく、この“ハーバート洋裁店”で働いてくれている、私の家族なの。
去った方がいいか、なんて悲しいことは、もう聞かないで……」
そして、こう付け加えた。
「ただし、お父様の出身については、あまり口外しない方が安全かもしれないわね。
カーリーも、約束できるかしら?」
「……もちろん、約束する。
それと、ヌイ。私、たぶんさっきヌイのことを睨んでしまったかもしれない。
だけど、今のミセス・クレアの言葉を聞いて、後悔したわ。
だって、イギリス人とか薩摩の人とか関係なく、私とヌイは――親友だもの」
三人は泣いた。
泣くのが得意ではないヌイも、その時は涙が止まらなかった。
(お父つぁんと同じ薩摩の人が、イギリス人を斬った)
その痛みと、ここにいてもいいという安堵が一緒になって、ヌイの胸の中を重くしていた。




