10.生麦村の真実
翌朝になっても、居留地の空気は静まらなかった。
あちこちの商館に人が集まって声がしていた。
怒りと恐怖と不安が混ざった声だった。
「ねえ、ヌイ」
とカーリーが言った。
二人で仕事を始めた直後だった。
「ヌイは怖い?」
「怖いです」
「私も怖い。
これが続くかもしれないって考えると、余計に」
カーリーは針を置いて、両手で布を握った。
「はい。続いてしまうかもしれません」
「なのにヌイは針を持ってるじゃない。怖くても」
「逆です。
怖くても針を持っていれば、手が勝手に動いてくれて、気が紛れます。
何もしていない時が、一番怖いです」
カーリーがしばらく考えた。
「そういうもんなのか。
それってさ、私にも言えるのかな。
私も怖い時、何かをするべきなのかな?」
「何かしたいことがあれば、してもいいと思います」
「じゃあ……、それ考えながら仕事する!」
とカーリーは笑顔で言った。
それを見て、ヌイも自然と笑みがこぼれた。
今の二人にはそれが必要だった。
◇
午後になると、店にワーグマンが来た。
帳面と鉛筆を手にしている。
いつもより目が鋭く、細かいものを拾っている目だとヌイは思った。
事件の記録をしようとしている目だ。
少し遅れて、慶一郎も入ってきた。
今はワーグマンの通詞として仕えているようだった。
中に入るなり、ワーグマンはヌイの方を鋭い目つきで見た。
「ミス・ヌイ、今日も元気に縫い物をしていますか?」
とワーグマンが慶一郎越しに聞いてきた。
ヌイはなんと答えたらよいか悩んだが、「いいえ」と答えるのも変な気がしたので、
「はい。変わらず元気に仕事ができるのも、クレアさんのおかげです」
と答えた。
すると、ワーグマンが帳面を開いて、何かを書き付けながら話した。
「それで良い。今はそれが大切だ」
と、ワーグマンの言葉を慶一郎が訳した。
それが大切だ、という言葉をどういう意味で言ったのかはわからなかった。
ヌイは、悲しい事件が起きた時こそ元気にするのが大切だ、という意味で捉えた。
「やはりワーグマンさんは、今から取材に行くのですね?」
とヌイが聞くと、慶一郎が訳した。
「描かなければ、誰も見なかったことにする。
――だから、生麦村の今の様子を、描きに行く」
「お願いですワーグマンさん、どうか命を大切に行動なさってください。
今は……あまりにも危険だと思います」
「言われなくたって、自分の命は大切だと思っているよ。
こんなに優秀な絵描き、他にいないのだから」
そう言って、ワーグマンは笑った。
「そんなに心配するな、ミス・ヌイ。
危険だと判断した時には、すぐにその場を離れる。
だが、行かなければ、絵として残らない。
残らなければ――百年後の人間に、この事件は届かない」
以前会った時にも、この人は同じことを言っていたとヌイは思い出した。
描くことと、縫うことは、同じだと言っていた。
(百年後なんて、考えたこともなかった。
私の仕立てるドレスも、百年後まで残るのかな……)
「ワーグマンさん、一つ聞いてもいいですか?」
とヌイは言った。
慶一郎に訳させながら、続けた。
「描くことで、残ることで、何かを変えることはできると思いますか?」
ワーグマンが帳面を閉じた。
珍しく、少し間を置いた。
「語り継がれる歴史の大半は、人類の失敗の歴史だ。
それを知って学んだ人間は、きっと同じことを繰り返さないように努力するはずだ。
絵が残ることで、見た人間の頭の中の何かを変えることはできる。
今から生麦で描く絵を見た百年後の人間が、国籍を超えて仲良くしようと思ってくれれば、それでよい。
さすがに、確かめようがないがな」
そう言って、ワーグマンはまた笑った。
「確かめようがないのに、描くのですか?」
「確かめようがないから、描くのだ。
確かめられることしかしない人間は、仮初めの充足感で満足してしまっているんだろうな。
まあ、そういった生き方も否定はしないが」
ヌイはその言葉を黙って聞いた。
確かめようがないから、縫う――そういうことかもしれない、と思った。
この針目が誰に届くかは、わからない。
でも針を動かすたびに、届く可能性が少しずつ増える。
「気をつけて行ってらっしゃいませ」
とヌイは言った。
「心配してくれるなら、後日、スケッチを一枚描かせてもらおう」
ワーグマンが冗談好きなことは、よくわかった。
◇
その夜、ワーグマンは、事件の時に生麦村にいた人の証言を教えてくれた。
慶一郎が、静かに訳した。
「事件の全容を簡潔に話そう。
昨日のお昼過ぎ、生麦村で四人のイギリス人が乗馬を楽しんでいた。
時を同じくして、島津久光殿の大名行列も生麦村を通過していたんだ。
そこで、不運にもリチャードソンが乗っていた馬が制御を失った。
そして、大名行列を乱してしまったリチャードソンは落馬し、その場で薩摩藩士に斬り殺された……。
現在、リチャードソンの遺体は、居留地の商館に安置されている」
クレア、カーリー、そしてヌイ。
全員が何も言わずに聞いている。
「他の二人は、怪我こそ負ったものの、神奈川の本覚寺に駆け込んで、今のところ命に別条はないみたいだ。
もう一人は、居留地の人たちが見た、白い馬の夫人だ」
(リチャードソンさん以外は、無事だったんだ……)
「乗馬を楽しんでいた一人の男が、その日の昼過ぎには帰らぬ人となった。
だが、現場には、まだ血痕が残っていたんだ。
これを見てくれ」
ワーグマンは帳面を開いた。
しかし、ヌイはそれを見ることができなかった。
「リチャードソンは上海を拠点にしていた商人で、日本には観光で来ていたらしい。
日本を最後に見て、それから故郷のイギリスへ帰るつもりだったんだと……」
ヌイは、白い馬に乗っていた女性の服についていた血を、思い出した。
緋色だった。夏の陽光に濡れた緋色。
鎖国が二百年以上続いた日本では、まずは外国を知ることが出発点なのだろう。
知らないまま刃を交えれば、緋色だけが残る。
(縫い合わせることが大事だと、勝様がおっしゃっていた。
私にそんなことができるのだろうか……。
いや、やらなければいけない)
ヌイは、なにがなんでも舞踏会のドレスを仕立て上げてみせる、という決意を固めた。
ヌイが得意とする――和裁で。
それこそが、惣兵衛の言っていた“世界を縫う”ことの出発点なのだと、ヌイは確信していた。




