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世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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11.ファミリーネーム


 生麦村での事件から二日後の朝。

 慶一郎は、疲れた顔で店に立ち寄っていた。


「みなさん、お変わりはありませんか?」


 と、慶一郎は最初に聞いた。

 

 彼の着物に、夜通し仕事をしていた跡があった。

 目の下に(くま)があった。

 それでも言葉は乱れていなかった。

 

 クレアとヌイは頷いた。


「あれ? カーリーさんはいらっしゃらないのですか?」

 

「はい。今日はあの子は親のところに行っています。

 あの日以降は、こういう日が増えました」


 と、クレアが答えた。

 

「その方がご両親も安心です。

 クレアさんも、しばらくは一人での外出はお控えください。

 居留地の外は特に危険です」

 

「ええ、わかりました」

 

 慶一郎がヌイに目を向けた。


「不安を煽るわけではありませんが、ヌイさんは居留地の中でも気をつけてください。

 お父様のことが、知られていないとは限りません」


「用心いたします。

 ところで、昨日も今日も、慶一郎さんはあちこちを飛び回っているようですが?」


 とヌイは言った。

 

「やはり、素晴らしい観察眼ですね。

 私の着物や表情から推察したのですか?」


「ええ、まあ」


「バレてるなら仕方ないですね。

 でも、“いつもの仕事”ですよ」

 

「昨日はどこへ行かれていたのですか?」

 

 慶一郎は一拍置いた。


「幕府のお役目で、少し」

 

「会談の通訳……ですか?」

 

 今度の沈黙は、少し長かった。

 

「……ヌイさん、それはどこで聞きましたか?」

 

「聞いたわけではありません。

 直感的に、そう感じただけです」


 とヌイは言った。


「私は、慶一郎さんがいつも重要な場所にいることに、気づいてしまったんです。

 東禅寺の報が届いた時も、その前の埠頭でも――何か大きなことが起きる時、あなたはいつも、その近くにいます」

 

 慶一郎が少し目を細めた。


「観察しているんですね」

 

「針仕事は細かいところを見る仕事です」

 

「ヌイさんは、いつもそう言いますね」


 と慶一郎は言った。

 かすかに笑っているような声だった。


「慶一郎さん。

 あなたは私たちに、何か大事な事を隠していますよね?」


「……ただの通詞ではないのでは、と思っているのですか?」

 

「はい。思っています」

 

「正直に言うのですね」

 

「私、嘘をつくのが苦手なので」

 

 慶一郎がヌイを見た。

 ヌイも慶一郎を見た。

 初めてこれほどはっきりと、正面から目を見た気がした。

 慶一郎の目は――落ち着いていた。

 隠しているものがあることを、隠していない目だった。

 

「鋭い方ですね、ヌイさんは」


 と慶一郎は言った。


「昨日は横浜で、英国代理公使と外国奉行の会談に参加していました」


「……通詞として?」


「通詞として“も”です。

 その会談では、イギリス側は幕府に対して厳しく責任を追及していました。

 ですが、今はここまでしか言えません。

 でも嘘はついていません」


 慶一郎は、どこか申し訳なさそうな表情をした。

 彼自身も、ヌイに全てを話せないことを辛いと感じているようだった。

 

「慶一郎さんは、嘘をつかないことくらい、わかっています」

 

 とヌイは言った。

 

「なぜわかるんですか?」

 

「目が、いつも正直です。言葉よりも」

 

 慶一郎は、しばらく沈黙し、

 

「……ヌイさん」


 と呼んだ。

 ヌイも、


「……慶一郎さん」


 と呼び返した。

 呼んでから少し気恥ずかしくなって、視線を手元に戻した。

 

「とにかく、危ないことは、なるべくしないでください」


 と慶一郎は言った。

 

「わかりました」

 

「生麦での事件の時のように、路地に出るのも、です」


「……」

 

 ヌイは言葉を言いかけて止めた。

 白い馬で駆け込んできた夫人を見た時に、反射的に走り出ていたのだ。

 危ないとわかっていたかどうか、正直なところ、わからなかった。

 

「ヌイさんは、気配りのできる女性です。

 体が先に動いてしまう人なのは、わかります」

 

「あの時の、気づいていたんですか?」

 

「近くにあなたのような女性がいれば、すぐに気づいてしまいますよ」


 この時、ヌイは初めて慶一郎が自分に好意を寄せているのではないかと、感じた。


(……いやいや、私みたいな娘、慶一郎さんと釣り合うはずない……!)

 

「からかわないでくださいっ!」


 とヌイは言った。

 思わず声が出てしまってから、少し言いすぎたかと思った。

 慶一郎がかすかに笑った。


「からかってなんか、ないですよ」

 

 会話はそこで自然に途切れた。

 慶一郎が立ち上がろうとした時、


「……苗字」


 とヌイは言った。

 

「はい?」


「……慶一郎さんには、きっと苗字があるんですよね?」


「どうして、急にそれを聞くのですか?」


「きっと、慶一郎は一般庶民の出身ではない、と感じていたからです」


 この時代、苗字を名乗ることが許されていたのは、武士や公家、一部の医者や学者のみであった。

 当然、ヌイには苗字はない。


「ヌイさんには敵わないな……」


「実は私、苗字を名乗ることに憧れがあって……。

 初めてここに来た時に、ハーバートという苗字が、とても印象に残りました。

 そして先日、クレアさんは私を家族だと言ってくれた。

 だから、今の私は、言うなれば『ヌイ・ハーバート』なのかもしれません」


「ヌイ・ハーバート……」


「すみません、話が逸れました。

 私は、もっと慶一郎さんの事が知りたい。

 本当は、今すぐにでも全部を知りたい……!

 ……お仕事の都合上、話せないことは沢山あるのかもしれないですけど、せめて苗字くらいは、あるなら知りたいと思ったのです……」


 ヌイは、横浜に来て少しずつ感情を出すようになっていた。

 しかし、今はヌイ自身、自分がどういう感情なのかわかっていなかった。

 いや、わからないふりをしていた。


 慶一郎は、悩んだ挙げ句、


「……苗字は、あります。

 でも、ごめんなさい。

 それも、今は教えられないのです」


 と静かに言った。

 

「いつか、わかる日は来ますか?」

 

 慶一郎が止まった。

 

「……いつか、必ず教えます。

 それまで待ってもらえますか」

 

「待つのは得意です。

 針仕事は待つことが大切なので」

 

 慶一郎は、「ありがとうございます」と言って、出ていった。


 ◇

 

 それからヌイは一人で、しばらく動けなかった。

 なぜ「苗字」などと言ってしまったのか、自分でもわからなかった。

 聞く必要があったのか、と問われれば、なかった。

 でも――聞きたかった。

 それは確かだった。

 

(慶一郎さんと、名前だけで呼ぶのが、少し、心細い気がする……)

 

 苗字があれば、もっとしっかりと、その人の輪郭がわかる気がした。

 名前だけだと、霧の中にいるような感じがした。

 

 針を持ち直し、仮縫いに向かった。

 薩摩の絹が、いつもよりも白く光っていた。


 ◇


 それから一週間ほどが経ったが、居留地はいまだ落ち着かない日々が続いていた。

 夜になると、浪人者(ろうにんもの)――主君を失い、稼ぎがなくなった武士――が徘徊しているらしい。

 その浪人者は、薩摩藩の武士だったという噂まで立っていた。

 

 九月になると、ヌイは深夜まで仕事をする日が増えた。

 事件の影響で、舞踏会の日は変更になると聞いていたが、ドレスの仕立ては以前に決めた期日までに終わらせたかった。

 それに、どうしても手を止めると、余計なことを考えてしまう。

 針を動かしている間は、次の針目のことだけ考えていられる。

 ヌイにはその時間が必要だった。


 ◇

 

 今夜もそうだった。

 店に一人で、灯りの下で仮縫いの確認をしていた。

 クレアはすでに寝室へ行っており、カーリーは今日も親元へ戻っている。

 

 店の外には、夜回りの足音が聞こえた。

 生麦事件以来、居留地の警備が強化されているのだ。

 だから、裏手の窓から音がした時、ヌイは最初、夜回りだと思った。

 

 しかし、同じ音が繰り返されていることに気がついた。

 

 夜回りは普通、一定の足音で通り過ぎて行く。

 だが、この音は――何度も店の裏を往復している。

 ヌイは針を持ったまま、動けなかった。


(……来ないで)

 

 ヌイの願いは届かず、裏手の扉がわずかに開く音がした。


 草履の足音が、一つ、また一つ、店の中を歩いている音が聞こえる。

 その足音は一歩ずつヌイのいる部屋まで近づいてきた。


(……まさか、噂の浪人者……?)

 

 そして――男と鉢合わせた。

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