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世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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12.居留地の浪人者


 その男は、やはりと言うべきか、浪人者と見えた。


「……!」


 ヌイは声が出なかった。


 浪人者の草履は古く、着物は汚れていた。

 刀は一本だけ、しかも手をかけていた。

 目が、妙な光り方をしていた。

 居留地に潜り込もうとして、長く緊張していた目の光り方だと、ヌイにはわかった。

 

 浪人者は体をヌイに向けたまま、部屋の中を見回している。

 そして、作業台に積まれた薩摩の絹を見つけた。

 

「異人どもに売る布を出せ。

 アイツらが日本の絹を着る資格はない。

 お前もそう思いながら働かされているのじゃろう?」


 と浪人者は薩摩弁で言った。

 声は低かった。

 

 ヌイは立っていた。

 体が震えているのがわかったが、足は動かなかった。

 

(逃げてはいけない。逃げたら負けだ)

 

 江戸で過ごした最後の夜、番頭の男の前で思ったのと同じ言葉が、頭の中に浮かんだ。

 

「渡しません……!

 それに、衣服を着ることに、資格など要りません……!」


 とヌイは言った。

 

「これは私の仕事です。

 お客様のために仕立てているものです。

 渡すわけには、いきません」

 

 浪人者の目が細くなった。

 刀の柄に手がかかった。


「ふん、洋裁など、くだらんわ」

 

 ヌイは一歩だけ前に進んで、仮縫いのドレスを背中で庇う形で立った。

 針刺しを右手に握った。

 針で刀に太刀打ちしようなどとは考えていない。

 ただ、手に何かを持っていると、少しだけ違う気がした。

 しかし、腰の力が抜けてしまう。

 

 浪人者も一歩前に踏み出す。


「異人のために働くなど、情けないの……。

 わしが解放してやるわ」


 浪人者は刀を抜いた。

 その瞬間、表の扉が音もなく開いた。

 現れたのは――慶一郎だった。


「なんだ貴様、夜回りか?」


「似たようなものですが、私は彼女のボディガードです」


「ぼでえ、どういう意味じゃ?

 まあ、異人の言葉なぞ、覚える気もないがの」

 

 浪人者と慶一郎は見合っている。


 が、今になって気づく。

 慶一郎は、いつもの脇差を帯刀していなかったのだ。

 ただ立って、男を見ている。それだけだった。


(いくら慶一郎さんでも、刀がなければ……)

 

 でも、慶一郎の立ち方が、違った。

 足の置き方が。肩の落とし方が。呼吸が。

 何も動いていないのに、その場の空気が変わった。

 ヌイには理屈はわからなかったが、浪人者が一歩引いたのはわかった。

 

「お引き取りを。

 この店に関わりのある方ではないはずです」


 と慶一郎は静かに言った。

 

 浪人者が何か言おうとしたが、慶一郎が続けた。


「本物の夜回りが来る前に、お帰りになる方がいい。

 今夜は特に、居留地の警備が厳しいですから」

 

 浪人者は、刀を納めた。

 そうして振り返り、裏手の扉から出ていった。

 足音が遠ざかっていく。

 店内に残されたのは、沈黙だった。


 ヌイは作業台につかまっていた。

 膝が笑っている。

 震えているのを止めようとしたが、止まらなかった。

 針刺しを握った手が白くなっていた。

 

「ヌイさん」


 と慶一郎が近づいてきた。

 

「慶一郎さん。すごく、怖かった……」


 とヌイは言った。

 自分で自分の声を聞いて、意外なくらい素直に出たと思った。

 

「当然です。よく耐えました」


 と慶一郎は言った。

 慰めるのではなく、事実として言った。

 慶一郎は、ヌイの着物が濡れていることに、気づかないふりをした。


「怖くて当然の状況でした。

 でも、あなたは逃げなかった」

 

「はい、逃げませんでした。

 自分に負けたくなかっただけです」

 

「それを勇気と言います」

 

 ヌイは首を振った。


「勇気ではありません。ただの負けず嫌いです」

 

 慶一郎が少し笑った気配がした。

 ヌイは下を向いたままだったのでわからなかったが、声で感じた。

 

「手が、震えています」


 と慶一郎が言った。

 

「止まりません」

 

 慶一郎がヌイの傍に立った。


 ヌイの右手――針刺しを握った手――の上に、慶一郎の手が、そっと重なった。

 ヌイは息を呑んだ。

 

 慶一郎は何も言わなかった。

 ただ、手が重なっていた。

 温かかった。大きかった。じっとしていた。

 

 しばらく手を握っていると、震えが落ち着いてきた。

 慶一郎が手を離し、


「もう、大丈夫ですか?」


 と言った。

 ヌイは「はい」と答えた。


 手が赤くなっていた。

 自分の手なのに、なぜか遠くにある気がした。

 

 慶一郎が少し離れて立った。

 部屋の中を確認するように見回した。

 二人とも、しばらく別の方向を向いていた。

 

 ヌイが先に口を開いた。


「なぜ来たんですか?」

 

「……通りかかりました」

 

「また、通りかかりですか?」

 

「今回は本当に。

 仕事の帰りに、この路地を通っていました。

 そしたら、裏の扉が少し開いているのに気づきました」

 

「そうでしたか……」

 

「ヌイさん。今夜はもう、休んでください」

 

「ですが、ドレスがまだ……」

 

「明日も続けられます。

 今夜、急いで終わらせなくてもいい」

 

「……わかりました」

 

「それと、一つ聞いていいですか?」

 

「なんでしょうか?」

 

「怖かった時、何を考えていましたか?」

 

 ヌイは少し考えた。


「そうですね……。

 逃げたら負けだ、と思いました。それだけです」

 

「負けとは、誰に負けるんですか?」

 

「自分に、です」

 

「……あなたは、本当にお強い方だ」


「お父つぁん譲りなのかもしれません」

 

「私も、お父様にお会いしてみたかったです。

 それでは、もう遅いので、おやすみなさい」


 と言って出ていった。

 

 ヌイは作業台に手をついたまま、しばらくそこにいた。

 慶一郎に握られた手が――まだ、温かかった。

 

 灯りが、薩摩の絹を橙色に光らせている。

 ヌイは深呼吸をして、仮縫いに布を掛けた。針刺しを道具箱にしまった。

 そして、灯りを消した。

 

 暗くなった部屋の中で、ヌイはもう一度だけ、手を見た。

 見ても何もなかったが、それでも見続けた。


 ◇


 それから二週間が経過した。

 窓から差し込む斜めの秋の光の中で、ドレスがその全貌を見せていた。

 薩摩の絹が体の丸みに沿って走っている。

 胸から腰にかけての曲線は、洋裁の型紙から生まれたものだが、その縫い目は和裁の手によるものだ。

 針目が均一に、息をするように並んでいる。

 ヌイの仕立てたドレスが――秋の光の中に、立っていた。


 ヌイは、夏の光より、秋の光の方が好きだった。

 夏の光は全てを均等に照らしすぎる。

 でも、秋の光は角度がついて、影が落ちる。影が落ちるからこそ形が浮かび上がる。

 それが好きだった。

 

(お父つぁん、見ていますか。

 薩摩の絹で、洋服を一着、縫いました。

 これが、“世界を縫う”ということの始まりなのでしょうか?)

 

 答えは返ってこなかった。

 でも、秋の光がドレスを照らし続けていた。

 それだけで、十分嬉しかった。


 しばらくドレスを眺めていると、クレアが作業台の前に来た。

 そして、ドレスを見た。光にかざした。

 表から確かめた。裏から確かめた。

 長い時間をかけて、縫い目を一本ずつ指でなぞった。

 ヌイは傍らで黙って待っていた。

 

「……すごいわ。

 和でも洋でもない――どちらでもあるドレスよ」


 とクレアは言った。

 ヌイは何も言わなかった。

 

「ヌイさんの針目と、お父様の針目は違う。

 形は似ているのに、引き方が違う。

 あなたの針目の方が、少しだけ強いわ」

 

「強い、ですか」

 

「押しつけるのではなく、引く力が強い。

 布を自分の方に引き寄せながら縫う――そういう手の動き。

 これは、あなただけの技術よ」

 

 ヌイは、自分の手を見た。

 普通の手だと思っていた。

 惣兵衛に似た手だと思っていた。

 でも、惣兵衛と同じではない、とクレアは言った。

 

「これは、ヌイさんが一人で縫ったドレス。

 ……本当におめでとう」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

 声が少し震えた。

 震えているのを、クレアに勘づかれた気がしたが――クレアは何も言わなかった。


 ◇


 そして、舞踏会の当日。

 石畳に影が長く落ちる――秋の夕刻だった。

 ヌイは一人でドレスを抱えて、居留地の集会所へ向かった。

 大事なものを抱えている時の歩き方で、足元を確かめながら、でも速く歩を進めた。

 

 会場となる集会所は居留地の奥の、白い漆喰の建物だった。

 夕暮れの光の中に、ランプが灯り始めていた。

 馬車が二台、正面に止まっていた。

 正装した外国人が、何人か入口に立っていた。


(私は、裏から入らなきゃ)

 

 ヌイは勝手口から中に入るように言われていた。

 使用人などが使う、裏方用の出入り口だ。

 仕方がない、と思いながらも、少しだけ悔しかった。

 このドレスを持って、正面から入ってもいい気がしたからだ。


 勝手口を開けてすぐのところに、領事夫人の控室があった。

 ドレスを届けると、夫人がすぐに着替えを始めた。


「そのドレス、私が仕立てたんです。

 お着替えが終わりましたら、見せていただいてもよろしいでしょうか?」


 夫人と目が合った。

 ヌイの心には、期待の中に多少の不安も入り混じっていた。

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