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世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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13.秋の舞踏会


 着替えが終わった夫人は、鏡の前に立った。

 

「Beautiful……!」


 と一言だけ言った。

 でもその一言で、不安は完全に消え去った。

 お気に召さなかったらどうしよう、と思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。

 鏡の中で、薩摩の絹が光っていた。

 

 ヌイは頭を下げた。深く。顔が見えないように。

 その目は、潤んでいた。

 

(お父つぁん、届きました。

 薩摩の絹が、ここで光っています)


 ◇


 日はすっかり落ち、夜になった。

 集会所の外には、涼しい秋風が通り抜けている。

 

 ヌイは正面入口の脇の石段に腰を下ろしていた。

 中から漏れる優雅な弦楽器の音が、石畳に溶けていった。

 ドレスを届けたら帰ろうと思っていたが、大きな仕事を終えた安心感で、足が動かなかった。

 

「ヌイさん、仕事は終わりましたか?」

 

 背後から声がした。

 振り返ると、慶一郎が立っていた。

 今夜は羽織に袴で、普段よりきちんとした格好だった。

 

「また、通りかかりですか?

 今夜は通詞のお役目なのですね」


「ヌイさんこそ、なぜまだここに?」

 

「すぐ帰る予定でしたが、楽しそうな音楽が聞こえたので、もう少しいようと思いまして」

 

 慶一郎は石段の隣に立った。

 座りはしなかった。

 中の音楽に、しばらく二人で耳を傾けた。

 

「……踊れますか?」


 と慶一郎が言った。

 突然の質問に、ヌイは慶一郎を見上げた。


「踊り方なんて、知りません。

 私は、庶民ですから」


「よければ、教えましょうか?」

 

「……ここで、ですか?」

 

「はい。ここで」


 と慶一郎は言って、手を差し出した。

 ヌイは手を見た。

 慶一郎の手だった。

 先日、震える自分の手に重ねてくれた手だった。

 

 ヌイは恐る恐る立ち上がり、手を取った。

 慶一郎の手が、ヌイの手を包んだ。

 温かかった。

 もう一方の手は、ヌイの腰のあたりに触れるか触れないかの距離で添えられた。

 

「左足を一歩だけ、斜めに出してみてください」


 と慶一郎が言って、音楽に合わせてヌイを一歩だけ導いた。


「こ、こうですか……?」

 

 ヌイの体が、引力に従うように動いた。

 一歩だけだったのに、次の一歩が来るような気がして――ヌイは手を離した。

 

「もうやめましょう。人に見られます」

 

「誰も見ていませんよ、今夜は。

 だって、中の方が賑やかですから」

 

「見ていなくても、私が――」

 

「私が、何ですか?」

 

 ヌイは答えられなかった。答えたくなかった。

 私が困ります、と言おうとしたが、なぜ困るかを問われたら、言葉に詰まりそうだったからだ。


「そういえば、ヌイさんが仕立てたドレス、見てきましたよ」


「……どうでしたか?」


 ヌイは恐る恐る聞いた。

 どんな答えが返ってくるか、少し身構えた。

 

「綺麗でした……。

 あのような美しいドレス、私は見たことがありません」


 と慶一郎が言った。


「……嬉しいです」


「美しいのは、ドレスだけではありませんが」

 

 ヌイは俯いた。

 顔が赤いかどうか、夜だからわからないのが救いだと思った。

 

「……帰ります」

 

 恥ずかしさで、半ば逃げるようにヌイは言った。

 

「お送りします」

 

「今日は結構です。店はすぐそこですから」


 ヌイは、足早に石段を降りた。

 そして、一度だけ振り返ると、慶一郎がそこに立っていた。

 夜の中に、静かに立っていた。


 ◇

 

 翌朝、ヌイは早く目が覚めた。

 窓の外がまだ薄暗い時間だった。

 そして、布団の中で、昨夜までのことを順番に思い返していた。


 クレアからドレスの依頼を受けたこと。

 そのドレスが完成したこと。

 夫人が「Beautiful」と言ったこと。

 そこまでは思い返せたが、その後のことは――思い返すと、胸の中に妙なものが広がった。

 妙なもの、というのが正確な言葉かどうかさえ、わからなかった。

 落ち着かない、という感じでもなく、嬉しい、という感じでもなく――何かが満ちて、それを処理する場所が見つからないような感じだった。

 

(針を持って、落ち着こう……)

 

 道具箱を開け、針刺しを取り出した。

 触れるだけで、少し、呼吸が整った。


 ◇

 

 その日の昼過ぎ、ヌイはクレアに呼ばれた。

 呼ばれたのは、クレアが仕事をする場所ではなく、私的な場所として使っている小さな部屋だった。


(こういう呼ばれ方、ドレスの仕立てを頼まれた時以来だ……)

 

 部屋に入ると、テーブルの上に一冊の帳簿が置いてあった。

 古い帳簿だった。

 表紙が日焼けしており、英語と日本語が混ざった文字で書かれていた。

 

「これは、亡くなった夫の帳簿よ」


 とクレアが言った。

 椅子に座って、帳簿を手に取った。


「十年くらい前から使っていたわ。

 横浜が開港するより前のものよ」

 

「使い込んである、いい帳簿です」

 

「ヌイさんのドレスを見て、取り出してみたくなったの。

 うちの洋裁店で薩摩の絹のドレスを仕立てることが、夫との約束みたいなものだったから……」

 

 ヌイは黙って聞いていた。

 

「夫は、横浜に来てすぐ、薩摩の絹商人と繋がりを持ったの。

 薩摩の絹は質がいいし、光り方が特別だ、と当時から言っていたわ。

 そして、和裁士にお願いして、手に入れた薩摩の絹を着物に仕立ててもらっていた」


 クレアは帳簿を開き、ヌイの前に置いた。

 

「この帳簿に、着物の仕立てを依頼した人物の名前が書いてあるんだけど、その中に、日本橋の仕立て職人の名前が出てくるの」

 

 ヌイは、クレアが指で示した1行を見た。

 そこには、日本語で書かれた名前があった。

 

『和裁士、“日本橋の惣兵衛”。その縫い目、他に並ぶものなし』


「……惣兵衛。お父つぁんの名前です」


 とヌイは言った。

 声が出るまで、少し時間がかかった。


「夫は、惣兵衛さんの仕立てが一番だと言っていた。

 初めてあなたに会った時にも話したけど、夫が完成した着物の縫い目を見て『日本の職人の仕事がこれほど細かいとは』と声を上げたのをいまだに覚えているわ」


 とクレアは言った。声が穏やかだった。


「お父つぁん……」

 

 ヌイは帳簿の一行を見つめたまま、動けなかった。

 

 惣兵衛は薩摩を出て、江戸へ来て、日本橋で仕事をして、死んだ。

 しかし、生前の惣兵衛の仕事は、クレアとヌイを繋ぎ止めていた。

 クレアの夫が帳簿に名前と住所を残していた――だからクレアはヌイに手紙を書けた。

 

(全部、繋がっていた。

 見えない糸が、ずっと前から張られていたみたいに)

 

 ヌイは、クレアから手紙をもらった時から気になっていたことを聞いた。

 

「クレアさん。お父つぁんが仕立てた着物は、今どこにあるのでしょうか?

 よければ見せていただきたくて」


「……ごめんなさい。

 見せてあげたいのだけど、今は夫の棺の中にあるわ」


「棺の中……?」

 

「ええ。キリシタンは、遺体は棺に入れて、土葬するのが主流なのよ。

 生前、大切にしていた物を中に入れてあげる風習もあるわ。

 見せてあげらなくて、残念ね……」


「いえ、いいんです。

 それほどまでに気に入っていただけたのならば、それで十分です」


 大切にしていた物を棺の中に入れる――その言葉を聞いたヌイの中に、見られなくて残念、という気持ちは、微塵もなかった。

 

 クレアが立ち上がって、ヌイの傍に来た。

 何も言わずに、ヌイの手の上に手を置いた。

 

 ヌイはクレアの小さくて骨ばった手を見た。

 

「旦那様は、どういう方でしたか?」

 

「真面目な人だった。

 商売をする人間にしては、物を大事にしすぎるくらいだったわね。

 布一枚でも、我が子のように取り扱った。

 だから、あなたのお父様の仕立てに共感して、惚れたのかもしれない」

 

「私は、お父つぁんのようになれますか?」


「必ず、なれます。

 ――でも、こないだ言ったように、あなたの針目はあなたのものです。

 お父様から和裁の技術を引き継いで、洋裁と融合させて変化した。

 全く同じは目指さなくてもいい――それが、職人の腕というものよ」

 

 ヌイはしばらく黙っていた。


「あなたはもう、この店だけの針子じゃないわ。

 横浜の針子よ。

 それくらいのものを縫い上げた人に、どうしても伝えておきたくて、呼んだの」

 

「ありがとうございます」

 

 クレアが手を離した。

 そして、部屋を出る前に、


「夫の帳簿は、いつでも見てかまわないわ」


 と言い残した。

 ヌイは一人で帳簿の前に座った。

 

 『日本橋の惣兵衛』と書いてある文字を、もう一度だけ、指でなぞった。

 インクの跡が、指先にわずかに移った。

 それは、惣兵衛の仕事の跡だった。


 ◇


 十一月に入ると、居留地の空気が少し変わった。

 生麦村での事件直後の騒然とした空気は薄らいでいたが、今はもっとじりじりとした、何かが動いているのに見えない感じの空気になっていた。

 幕府とイギリスとのやり取りが続いており、幕府の応対が遅々としているという話が、居留地のあちこちで出ていた。

 

 慶一郎は多忙になったのか、店に立ち寄る時間が短くなった。

 顔を見せても「お変わりないですか?」と確認して、すぐ出ていくことが増えた。

 ヌイは、慶一郎には何かがある、と感じていたが、問わなかった。

 

 問わない、というのは諦めとは違った。

 慶一郎という人間は、言えない時には言えないが、言える時には必ず言ってくれる。

 ヌイはそれを信じて、受け入れていた。

 受け入れながら、その輪郭を少しずつ確かめていた。

 針で布の形を確かめるように。


 ◇


 夕暮れの頃だった。

 ヌイが仕事場の窓を閉めようとして、ふと外を見た。

 居留地の外れの路地に、二人の人影があった。

 一人は慶一郎だとすぐにわかった。

 もう一人は――浪人者と見えた。

 草履が古く、着物が汚れている。

 いつかの夜に店内に侵入してきた男とは別の人物だが、同じ匂いのする立ち方をしていた。


(え……?)

 

 慶一郎がその男に、何かを手渡した。

 紙か、帳面か――小さなものだった。

 男はそれを懐に入れ、短く言葉を交わして別れた。

 ヌイは窓の前から離れた。

 動悸がしていた。

 

(今の、何……?)

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