14.慶一郎の裏の顔
慶一郎が、男に何か紙のようなものを手渡していた。
通詞の仕事かもしれない。
幕府の密命かもしれない。
それ以外の何かかもしれない。
でも、浪人者に何かを手渡す場面は、ヌイが思い描いていた慶一郎の輪郭と、合わなかった。
(見なかったことにするべき……?)
いや、できなかった。
見てしまった事実は消えない。
特にヌイには、細かいものを見る目があるから、尚更だった。
◇
二日後、いつも通りに慶一郎が店に来た。
「みなさん、お変わりないですか?」
「あら、慶一郎さん。
いつも立ち寄ってくれて、ありがとうねぇ」
クレアが挨拶をした。
しかし、ヌイは普段なら顔を上げるところで上げられなかった。
なぜか慶一郎に対してよそよそしくなってしまった。
意識してそうしたわけではなかった。
慶一郎は気づいたと思う。
でも何も言わなかった。
いつも通りに「それでは」と言って、いつも通りに出ていった。
ただ、出ていく前の一拍が、少し長かった気がした。
「ヌイ、慶一郎さんと何かあった?」
とカーリーが聞いた。
「何もないです」
「そう? 私にはそうは見えないよ?」
「仕事中は針が優先です」
「ふーん、嘘が下手なのね」
とカーリーは含みのある声で言った。
「う、嘘ではありません!」
「じゃあ何か、正直になれないことがある……?
もしかして……ケンカしたの?」
「ケンカもしていません!
……いえ、実は、不可解なことがあって。
でも、本人には到底聞けないことで……」
とヌイは言った。
それ以上は言わなかった。
「慶一郎さん、昨日ヌイがいない時にも来てたけど、元気なさそうだったよ?
何かあったんじゃないかな?」
「……そうですか」
ヌイはそっけなく答えて、針を持った。
見てしまった事実の正体がわからないまま、針を動かし続けた。
◇
ある夜、クレアがヌイを呼んだ。
二人でお茶を飲みながら、クレアが言った。
「慶一郎さんのこと、心配なんでしょ?」
「なぜ、そう思うんですか?」
「顔を見ていれば、わかるわ。
私も……、昔は恋する乙女だったから」
「こ、恋だなんて……!」
「ヌイさん。あなたは他人に対しては正直だけど、自分には嘘ばかりつくのね」
ヌイには確かに心当たりがあった。
「恥ずかしがることじゃないわ。
あなたくらいの歳の子は、みんな悩むものよ。
日本人とか、イギリス人とか、関係ないの」
「クレアさんは、どんな悩みがあったのですか?」
「私も似たような事よ。
うちの夫はね、結婚する前から、何でも一人で背負う人だったわ。
でもね、私はそれに気づいた時、何も聞かなかった」
「なぜでしょう?」
「それは、彼を信じていたからよ。
商売のことは商売の人間に任せる――そう決めていたから。
でも聞かなかったことを、後で後悔したこともある」
「後悔、ですか」
「もっと聞けばよかったと思うことがある。
もっと夫のことを知ろうとすればよかった、と。
知ることを遠慮しなければよかった、と。
もっと心の支えになれれば、と」
ヌイはお茶を持ったまま、クレアを見た。
「でも、無闇に聞いても答えてもらえないということは、必ずある。
相手がまだ言えない時というのは、ある。
そういう時こそ、信じて待つしかないわ」
「待つのは、得意なつもりです……!」
「知っているわ」
とクレアは言って、少し笑った。
「毎日ヌイさんを見ていれば、伝わるもの。
だから、今日は人生の先輩として、人間関係における待ち方を教えるわ。
あなたは針仕事をしている間、ずっと待っているでしょう?
布が整うのを。糸が落ち着くのを。
実は人間関係も、それと同じなのよ」
ヌイは少し考えた。
「でも、ただ待つのは、怖いこともあります。
待っている間に、わからないことが大きくなって――誤解のまま、終わってしまうとか」
「だから言ったでしょ?
終わってしまわないように、上手に待つの」
とクレアは言った。
「待つことは、何もしないことじゃない。
糸を緩めずに、張り続けること。
そうすれば、きっと彼のことがわかってくるはずよ。
上手くいくコツは、ただひとつ――相手を信じること」
――緩めずに、張り続ける。
針仕事の言葉で言えば、それは理解できた。
布を縫っている途中で糸を緩めると、針目が乱れる。
緊張を保ちながら次の針目を待つ――それが丁寧な仕事の基本だ。
(慶一郎さんと私の間の見えない糸も、緩めずに、張り続けないといけない……)
そう心の中で理解した。
◇
文久二年の十二月は、寒かった。
居留地の石畳に霜が降りる朝が続いた。
ランプの火が北風に揺れた。
港に入る船が少なくなった。
クレアの店は繁忙期が終わり、静かな時間が増えた。
慶一郎は時折来るが、ヌイのよそよそしさは少し緩んでいた。
『待つことは、何もしないことじゃない。
糸を緩めずに、張り続けること』
というクレアの言葉が、ヌイの中で動いていたからかもしれない。
十二月十三日の早朝。
荷の届く音や商館の扉が開く音がして、人が動き始める。
その音の中に、一人の男が走ってくる音が混じった。
走り方が普通ではなかった。
ヌイは扉を開けて、路地に出た。出てしまった。
すると、ちょうど慶一郎が路地を通りかかった。
「慶一郎さん、何が起きたんですか!?」
とヌイが聞いた。
慶一郎の顔が、いつもと違った。
固まっている、ということではない。
何かを受け止めようとしている顔だ、とヌイは思った。
そして、その顔のまま、近寄ってきた。
「ヌイさん、落ち着いて聞いてください。
江戸の品川御殿山にあるイギリスの公使館が、昨夜――焼かれました」
「焼か……れた?」
あまりのショックに、言葉を繰り返すしかなかった。
「完成間近でしたが、全焼したと……」
「亡くなった方は……?」
「建設中でしたので、幸い中にいた者はなく、怪我人は出なかったようです 」
ヌイは息を吐いた。
そして、頭に浮かんだことを真っ先に聞いた。
「また、薩摩の方がやったのでしょうか……?」
「それが、今回は長州の志士たちによるものです」
慶一郎は、静かに、でも重く、そう言った。
しかしヌイは、即答した慶一郎に対して、若干の違和感を覚えていた。
「……薩摩ではなく?」
「はい」
ヌイは路地の石畳を見ていた。
(長州の志士……。
よかった。父の故郷、薩摩の者の仕業ではない)
それが頭の中をよぎった。
その直後に、
(いや、そういうことではない)
と思った。
どこの藩であれ、誰が実行したのであれ、外国の公使館が燃やされた事実は変わらない。
でも、心の中の一部が、違う形で息をついた。
それが何なのかを、ヌイはすぐには言葉にできなかった。
いや、言葉にするのは、あまりにも恐ろしかった。
◇
カーリーが昼前に来た。
店の扉を開けて入ってきた瞬間に、目が赤かった。
泣いていたとわかった。
「カーリー……、大丈夫?」
とヌイが立ち上がって聞いた。
「ごめん、ヌイ。そっちに行ってもいい?」
カーリーは歩いてきて、ヌイの横に座った。
椅子を引き寄せて、肩と肩が触れるくらい近くに座った。
「ヌイは聞いた? イギリスの公使館が燃えたって。
江戸は遠いけど……、怖いよ……。
東禅寺が二回狙われて、生麦村で殺されて、今度は公使館が燃えて――次は何が起きるの、どこまで続くの……」
ヌイは何も言わずに、カーリーの肩に手を置いた。
言える言葉が見つからなかった。
肩の震えが、少し伝わってきた。
◇
その夜、ヌイは眠れなかった。
窓の外に、冬の星が見えた。
横浜の夜空は江戸より広かった。
空を遮るものが少ないせいか、星がはっきり見えた。
ヌイは布団の上に座って、針刺しを握りながら考えていた。
昨夜、長州の藩士たちによって、公使館が燃えた。
その時、慶一郎はどこにいたのだろう。
(……ダメよ、疑っては。
クレアさんに言われた通り、彼を信じなきゃ)
そう思いつつも、ヌイは昨日の出来事を思い返していた。
夕刻に、慶一郎が一度店に来ていた。
いつも通りに「変わりはないですか?」と言って、出ていった。
それが昨日の夕方のことだった。
つまり、慶一郎は昨夜は横浜にいた。
御殿山のある、江戸の品川にはいなかった。
慶一郎が横浜にいたなら、御殿山の焼き討ちには関わっていない。
実行した長州の藩士たちとは別のところにいた。
しかし、あの場面が頭に戻ってきた。
いつぞやの夕刻、居留地の外れの路地で浪人者に何かを手渡していた、あの場面だ。
(あれは一体、何を渡していたの……?)
ヌイには“内通”しているように感じられた。
まだ、確証はない。
でも、ヌイの中で、「慶一郎は裏切り者かもしれない」という思いと、「そうであってほしくない」という思いが、初めて、天秤に乗った。
昨夜、横浜にいた。
江戸の焼き討ちには直接は関わっていない。
それだけが確かなことだった。
ヌイは、羽織を着て立ち上がった。
今は、クレアの『聞かなかったことを、後で後悔したこともある』という言葉の方が、気になっていた。
(確かめなくちゃ……)
◇
ヌイは、店の裏手の扉から外に出た。
今夜の居留地は、案外静かだった。
足元に気をつけながら、ヌイは路地を歩いた。
ただ、慶一郎がいそうな場所を、体が目指していた。
――以前、慶一郎と勝海舟と話していた埠頭。
夜に一人で立っていることがある場所だと、なんとなく知っていた。
行ってみると、慶一郎が涙を流して立っていた。




