表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/19

15.慶一郎の正体


 冬の夜の港は、波の音が遠くにあった。

 潮の匂いは、夜でも相変わらずだった。

 

 桟橋の端に、慶一郎が立っていた。

 端正な顔を伝い落ちる雫が、月明かりで輝いた。

 ヌイの足音に気づいたのか、慶一郎が振り返った。

 

「ヌイさん、こんな遅くに、どうかしましたか?」


「夜分遅くに、すみません。

 ……どうしても、お話をしたくて」


「話なら、いつもしているでしょう」


「そうではなくて、もっと――深いお話を」


 慶一郎は少し間を置いた。


「何のことですか?」


 ヌイは覚悟を決め、慶一郎の目を見た。

 

「先日、路地裏で浪人者の方に、何かを渡しているのを……見ました」

 

 慶一郎の顔が固まった。

 

「見ていたんですか……?」

 

「はい。見てしまいました。

 見なかったふりをしようともしたのですが、できなくて」

 

 冬の波の音だけがあった。

 

「あれは、何を渡したのですか?」


 と、ヌイは素直に聞いた。

 慶一郎は、すぐに答えなかった。

 

 ヌイは待った。

 クレアの言葉を、胸の中で繰り返しながら。

 

 すると、慶一郎が口を開いた。


「少し、昔話をさせてください」


「……聞かせてください、あなたのこと」


 慶一郎は、上を向いて何かを語り始めようとした。

 それはきっと、涙が溢れないようにするための仕草だった。


 しばらく沈黙が流れ、ついに慶一郎が、


「……神代(かみしろ)


 そう言った。


「今、なんとおっしゃいましたか?」


「私の名前は、神代慶一郎です」


「神代……慶一郎。

 もしかして神代って、長崎の出島を取り仕切っていたという、あの……」


「さすがヌイさん、よくご存知ですね。

 私の神代家は、代々長崎で通詞を生業(なりわい)としてきた一族です。

 父は出島でだけでなく、幕府でも通詞をしていました。

 私は、そんな父が誇りであり、目標でもありました」


「お父様も、幕府の通詞だったのですね」

 

「はい。そして父は、オランダ語、英語、フランス語――外の言語を学び、外の世界を知り、『日本は鎖国のままでは立ち行かない』を信念に、幕府に開国を進言し続けていました。

 今から十年以上前の話です」


「十年以上前というと、ペリーの艦隊が日本に来る前の話ですよね?」


「そうです。

 当時の父は、攘夷派から見れば、売国奴だったんです。

 そして、父は突然いなくなりました」

 

 ヌイは黙って聞いていた。

 

「父を拉致したのは、攘夷過激派の組織――天人会(てんじんかい)でした。

 その組織の使いが私のところへ来て、密偵となるよう脅してきました。『断れば、父の命はない』と」

 

「それで、密偵になられたのですか……?」

 

「名目上は、そうです。

 それから天人会は、私を密偵として育て上げるのですが、その時に、あの黒船が日本に来たんです」


「ペリー……」


「はい。それが、天人会をより残忍な組織へと変貌させる契機となりました。

 私は、外国語が話せる数少ない密偵でした。

 そこで、天人会は私に『横浜の居留地に潜り込み、日本人と外国人の間に争いの種を蒔け。さもなくば父は殺す』と指示を出してきました」

 

「そんなの……、酷過ぎます」

 

「私は、そんな父の信念に背く指示を受けるくらいなら、自決した方が良いとさえ思いました。

 しかし、『さもなくば父を殺す』ということは、父はまだ生きている、ということだと気づいたのです。

 それから私は約十年間、いつか父を救える日が来ることを信じ、彼らに従うふりをしています」


「従う……ふり?」


「はい。なので先ほど、“名目上は”と言いました。

 私は、密偵として偽の情報を流し続けました。

 居留地への抜け道だと偽った嘘の地図。

 警備の穴だと思わせた虚偽の報告。

 外国人への攻撃を空振りさせることが、私にできる唯一の抵抗でした」


「では、昨夜の御殿山も……?」

 

「そうです。

 ヌイさんに見られてしまったあの時も、私は偽の情報を渡していました。

 ですが、長州の者たちの動きは、私には止めることができなかった。

 だからせめて死傷者が出ないよう、イギリス人の視察がいない昨夜に決行させました」


 慶一郎の握り拳が、震えていた。


「……現実は厳しいですね。

 どうしてみんな、仲良くできないのでしょうか?

 私とクレアとカーリーは、家族のように暮らしているというのに」


「仲良くできないのは、きっとお互いがお互いを恐れているからです」


「未知のものを怖いと思う気持ちは、理解できますが……」


 慶一郎は、近くに置いてあった木箱を叩いた。

 

「……畜生。昨日だけじゃない、東禅寺の時も、私は事件を止めることができなかった」

 

「……どうか、ご自分を責めないでください」

  

「ヌイさんは、お優しいのですね。

 それに、打ちひしがれている私に、勝先生も声をかけてくださるんです。

 『お前のお陰で全面戦争は回避できている。今、協力者を募っている。もう少しの辛抱だ』と」


「では、勝様は慶一郎さんが密偵だと知っているのですか?」

 

「おそらく、知っています。

 全部ではありませんが、私の立場を察して、陰から支えてくださっているのだと思います。

 正体を問いただすことなく、ただ見守ってくださっている……」


「勝様は、なんでもお見通しなのですね」

 

「勝先生には、かないません。

 でも、それはヌイさんも同じです。

 以前から、あなたの観察眼は、私の正体に近づきつつある、と感じていました。

 それは脅威のはずだった。

 任務上の障害のはずだった。

 でも、私の胸の中にあったのは――脅威ではなく、別の何かでした」


「別の何か、とは?」

 

 慶一郎は動かなかった。

 それが、答えのように思えた。

 

 夜の海遠く、船の汽笛が一度鳴って、消えた。

 波の音が来た。冬の潮風が石畳を渡った。

 ヌイの羽織の裾が、風に揺れた。

 

「寒いですから、そろそろ戻りましょう」


 と慶一郎は言った。

 

「そうですね」


「では、お送りします」

 

 今夜は断らなかった。

 

 二人で石畳を歩いた。

 肩の間に、少しだけ間があった。

 でも昨日よりは、近かった気がした。

 

 店の扉の前まで来て、慶一郎が「おやすみなさい」と言った。


「慶一郎さん」

 

「なんでしょう?」

 

「いつか、あなたとお父様が再会できるよう、願っています」

 

「ありがとうございます」


 と慶一郎は言った。

 声が、少し変わっていた。

 

 ヌイは扉を開けて、中に入った。

 扉が閉まった後に、一度だけ振り返った。

 そこには、慶一郎が月明かりの中で立っていた。

 

 ◇

 

 ヌイは、寝床へ行っても、眠れる気がしなかった。

 むしろ、手を動かしていないと、現実に押し潰されそうな気がしていた。

 道具箱を持った。

 針刺しを取り出した。

 すると、惣兵衛の言葉が蘇った。


『お前は縫い合わせるために生まれてきた子じゃ』

 

(まだまだ、私は縫いきれません、お父つぁん)

 

 針を、手に持った。

 冬の夜の横浜が、静かに、外で息をしていた。


 ◇


 そして、長い冬が終わった。

 文久三年の春は、横浜に静かに来た。

 

 石畳の隙間から草が顔を出し、港に入る船の数が少しずつ増えた。

 居留地の人々が窓を開け始め、空気が動いた。

 御殿山の焼き討ちから二ヶ月ほどが過ぎていた。

 

 慶一郎は変わらず来ていた。

 あの夜に交わした埠頭での言葉の後から、二人の間に何かが生まれていた。

 うまく名前のつけられないものだった。

 互いを知っていながら、まだ知りきっていない――その距離感が、針と布のように、引き合っていた。


 この日、ヌイはクレアの使いで街を歩いていた。


(江戸を出てから、もうすぐ一年になるんだ……)


 その時、ヌイは番頭の男の言葉を思い出していた。


『……一年だ。一年待ってやる』


 ヌイはあれから一年間働き詰め、貯金をしていた。

 それで、父の残した借金を払えるかは分からなかったが、それでも、筋を通しにいく必要はあった。


(近いうちに、一度江戸へ戻らなければ)


 そう思った時、視界の端に見覚えのある三人組の男を捉えた。

 番頭の男と、その手下だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ