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世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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16.新たな壁


「あ……」


 番頭の男と目が合い、思わず声が出た。

 どうして良いかわからずに立ち尽くしていると、番頭の方から近づいてきた。


「お前さん、針仕事の方は順調か?」


「どうしてそれを」


「あの時、そう俺に言っただろ。

 それとも、あれは嘘だったのか?」


「いえ。今は、和裁の技術で洋服を縫わせてもらっています」


「らしいな、実は度々コイツらに見に行かせていたんだ。

 どうも、立派なドレスを仕立てたらしいじゃないか」


「立派だなんて……。

 あ、お金……ですよね?

 今持ってきますので、少々お待ちください」


 ヌイは、その場を駆け足で離れた。

 そして、クレアたちに見つからないように店の裏手の扉から、貯金を持ってきた。


「……これで、全部です」


 ヌイが、これでもかと銭の入った袋を差し出すと、番頭の男は袋の中身を改めた。

 すると、手下の男の一人が前に出てきた。


「おいおい、嬢ちゃん、俺らのこと舐めてんのかい?

 これじゃ足りな――」


 番頭の男は、手下を静止し、


「こいつは預からせてもらう。

 そして――もう、俺たちとは関わらなくていい」


 と低い声で言った。


「そういうわけには……!

 本当は足りないのですよね?

 それくらい、私にもわかります。

 今すぐに返すことはできませんが、いつか必ず返します。

 もう少しだけ、待っていただけませんか?」


 番頭の男は、後ろを向いたまま話した。


「……俺も子供の頃、親の借金の肩代わりをしたことがある。

 お前と同じだ。でも俺は男だから、長い時間かけて力仕事で返すしかなかった。

 昔は勉強が好きで、寺子屋にも毎日通っててな。

 本当は蘭学者になりたかったんだが、諦めるしかなかった……。

 親父から託された“夢”を追う今のお前さんの姿を見て、こう思ったんだ。

 ――これ以上、邪魔はできねぇってな。

 くだらん昔話を聞かせて悪いな。

 それじゃ、二度と会うことはないだろう」


 番頭の男は、歩き始めた。


「ありがとうございます……!

 いつか、必ず“世界を縫って”みせます!」


 ヌイはそう言って、頭を下げた。下げ続けた。

 三人の男がいなくなっても、しばらくの間、ずっと。


 ヌイは、こんな関係でも縫い合わせられなかったことが、少し悔しかった。

 しかし同時に、心の枷も取り払われていた。


 ◇


 文久三年の春が深まり、初夏の気配が来た頃から、横浜の空気が再び変わり始めた。

 薩摩藩は、イギリス側の生麦事件の解決要求を依然として拒否していた。

 それに対し、イギリスは武力による解決を模索しており、六月にはイギリス艦隊が鹿児島に向かう、という話が居留地でも広まった。

 

 ヌイは針を動かしながら、その話を聞くたびに、胸の奥が鈍く痛んだ。

 

(薩摩――お父つぁんの故郷が、戦場になる……)

 

 惣兵衛が子供の頃に泳いだという錦江湾が、戦場になるかもしれない。

 惣兵衛が「朝の光が当たると綺麗でのぅ」と言っていた、あの海が。

 

(戦争になれば、どちらも人が死ぬ)

 

 ヌイはその心の痛みを針の動きに変えた。

 痛みが消えるわけではなかったが、針を動かしている間は、次の針目のことだけを考えていられた。


 ◇

 

 梅雨の晴れ間の午後、慶一郎が来た。

 

「ヌイさん。少し外、歩けますか?」


 珍しい誘いだった。

 店の外に連れ出されることは、これまでなかった。


「どちらまで行きましょう?」


「目的地は、特には決めていません。

 ただ、久しぶりに天気がよかったので、陽の光を浴びようと思いまして」


「わかりました」

 

 二人は居留地の端まで歩いた。

 港が見える場所に出た。

 海に夕方の光が斜めに落ちていた。

 

「薩摩とイギリスとの件が、近づいてきていますね……」


 と慶一郎は言った。

 

「はい」

 

「ヌイさんは、お父様の故郷のこと、心配していますか?」

 

「それは、もちろん心配しています。

 でも……それだけではない気もします」

 

「何がです?」

 

「薩摩が攻められることと、薩摩の人間が誰かを傷つけることが、どちらも同じ重さで胸に来るんです。

 片方だけを悲しむことができない」

 

「……それは、正直な感覚だと思います」


「お父つぁんの故郷である薩摩、母のように慕っているクレアさんの故郷であるイギリス……。

 その間で戦争が起こってしまうなんて、考えたくもありません」


「今回ばかりは、さすがの私も願うことしかできません。

 私ごときに、これほどまでに大きな戦火を抑える力は……」


「それでも、慶一郎さんには、言葉があります。

 言葉があれば、どんな人間とも、繋がれる。

 言葉と針は似ているかもしれません」

 

 波の音が来た。

 慶一郎がヌイの方を向いた。

 

「ヌイさん、一つ聞いてもいいですか?」

 

「なんでしょう?」

 

「ヌイさんは、その……将来のことを、考えたことはありますか?」

 

 ヌイは慶一郎を見た。

 突然の話題に、目を丸くした。


「将来、というのは?」


 慶一郎の耳が赤くなっていた。

 

「この先、横浜でずっと針を持ち続けるのか。

 それとも、誰かと……、ということを」

 

 ヌイは少し間を置いた。


「誰かと、というのは、どなたかのことを指していますか?」

 

「さ、指しています……。

 私のことを、指しています……!」


 と慶一郎は言った。はっきりと言い切った。

 

 遅れて、波の音がした。

 ヌイは前を向いて、海を見た。

 

「私は針を置けません。

 誰かのそばにいるために、仕事を手放すことは、できません」

 

「さすが、ヌイさんらしいです」

 

 と慶一郎は言った。


「褒めてるんですか?」


「それはもちろん。

 私の聞き方が間違っていました。

 針は置かなくていい。

 あなたの針を、誰よりも近くで見てきた人間として、それだけは言えます。

 そして、これから先も、ずっとあなたの手を見ていたいです」


 慶一郎はヌイの手を取った。

 

「でも……、神代の家がどう言うかは――」


 とヌイは言った。

 それは、あまりにも現実的過ぎる話題だった。

 神代家のような名家と、苗字も持たない庶民の結婚など、考えられない話だった。

 

「すぐに、というのは難しいと思います。

 古い家です。すぐには首を縦に振らない。時間もかかります。

 私が一人で動いても、すぐにはどうにもならないかもしれない」


 と慶一郎は正直に言った。


「それでは、さっきの話は――」

 

「それでも……!

 ここで諦めたら、私は一生、後悔してしまいます」

 

 ヌイはしばらく黙っていた。

 海が光っていた。

 

「ヌイさん。少し、時間をくださいませんか?

 神代の家は、いつか必ずわかってくれます」


「わかりました。

 待つのは、得意です」

 

 とヌイは小さく笑いながら、答えた。

 

 帰り道、二人は並んで石畳を歩いた。今日は少しだけ、肩の距離が近かった。


 ◇


 それから、二ヶ月ほどが過ぎた。

 文久三年七月二日の朝は、曇っていた。


 その日、イギリス代理公使・ニールが艦隊を率いて鹿児島湾に入り、薩摩藩に犯人の引き渡しと賠償金の要求をした。

 しかし、交渉は不調に終わったようだった。


 昼休憩が終わり、仕事の準備を始めると、クレアが独り言のように呟いた。

 

「いよいよ戦争になるわね……」

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