17.薩英戦争
「薩摩は、イギリス相手に本当に戦うつもりなのでしょうか?」
ヌイはクレアに聞いた。
「……わからない。
おそらく、まともにやり合ったら、薩摩に勝ち目はないわ。
イギリスの艦隊には、最新式の武装が山ほど積んである」
「……そんな」
ヌイは言葉を失った。
(どうして、そこまでして争ってしまうのだろうか……)
すると、慶一郎が息を切らしながら、中に入ってきた。
その表情は固かった。
そして、
「始まってしまいました……」
とだけ言った。
「戦争、ですか?」
とヌイは確認した。
「はい。薩摩の砲台が、イギリス艦隊に向けて砲撃を始めたことで、開戦したとの情報です」
ヌイは針を持ったまま、動けなかった。
(錦江湾が、今――)
惣兵衛の話の中にあった海が、今この瞬間、砲声を上げている。
「私はしばらく、連絡役として動きます」
と慶一郎は言った。
「来られない日が続くかもしれません。
大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です。
慶一郎さんの方こそ、お気をつけて」
慶一郎がしばらくヌイを見た。
何か言いたそうにして、言わなかった。
そして、「行ってきます」とだけ言って、出ていった。
◇
カーリーが来たのは、その日の夕方だった。
扉を開けた瞬間に、赤い目をしていた。
泣いていた。
「イギリスの旗艦の艦長さんが、死んだって」
とカーリーは言った。
「ジョスリング大佐、っていう人」
ヌイは立ち上がった。
「知っている方ですか?」
「知らない。
でも、知らない人でも、悲しいよ。
悲しくて悲しくて、どうしたらいいかわからない」
カーリーが泣いていた。
ヌイはカーリーの隣に行って、肩を抱いた。
言葉はなかった。
ただ、肩を抱いていた。
すると、クレアが奥から出てきた。
カーリーとヌイを見て、何も言わずに台所へ行った。
少しして、温かいお茶を持ってきた。
三人でテーブルについた。
「イギリス旗艦の艦長と副長が戦死し、全体で六十余人の死傷者が出たと聞いたわ」
とクレアが静かに言った。
予想に反して、薩摩は強大な武力を持っていたのだ。
「薩摩側の被害は、どうなのでしょうか?」
ヌイはそう聞いた。聞かずにはいられなかった。
「薩摩の側も、城下町の一部を焼かれた、と」
ヌイはお茶を両手で持った。
(城下町が、焼かれた……。
お父つぁんが「桜島が映って真っ黒に見えることがある」と言っていた城下町が……)
手が震えて、お茶を置いた。
惣兵衛の針刺しを取り出し、手に持った。
そうすることで、震えが少し落ち着いた。
◇
その夜、ヌイは一人になってから、泣いた。
泣くのが得意でないヌイが、泣いた。
部屋の隅に座って、針刺しを胸に抱いて、なるべく声を殺して泣いた。
しかし、なぜ泣いているのかが、うまく言葉にならなかった。
惣兵衛の故郷が戦場になったこと。
イギリスの人間が死んだこと。
カーリーが怯えていたこと。
慶一郎が「行ってきます」と言ったこと。
全部が重なって、針刺しの中に溶けていった。
泣き止むと、惣兵衛の声が聞こえた気がした。
『ヌイというのはのぅ、縫い物の縫じゃ。
切れたものを繋ぐ。裂けたものを合わせる。
傷ついたものを、元に戻す――それが縫合ぞ』
(まだ繋いでいる途中です、お父つぁん。
“世界を縫う”のが、こんなに難しいとは思いませんでした。
私は、まだまだ無力です……)
目を拭って、針を持った。
夜が更けても、針を動かし続けた。
◇
そして二日が経過し、文久三年七月四日。
食料・弾薬・石炭の欠乏と船体の修理が必要となったため、イギリス艦隊は横浜へ退散した。
「戦争が、終わりました。
どちらも無闇に傷つけ合い、そのまま勝敗のない終わりを迎えました」
と、店に来ていた慶一郎は言った。
ヌイは俯いたまま、針を動かした。
手を止めなかった。
手を止めたら、また泣いてしまう気がした。
◇
時は流れ、秋になった。
文久三年九月二十八日から、薩摩藩の使者が横浜のイギリス公使館で講和の談判を始めていた。
慶一郎は、その交渉に通詞として加わった。
仕事が増え、来られない日が多くなった。
それでも、合間に顔を見せてくれた。
(慶一郎さん、今日は来るかな……?)
そんなことを考えながら針仕事をしていると、店の扉が開いた。
「皆さん、お変わりないですか?」
慶一郎だった。
ただ、最近は特に忙しいせいか、声に覇気がなかった。
「慶一郎さん、お疲れのようですね。
やはり、交渉は難しいですか?」
とヌイが聞いた。
「ええ、難しいです。
でも前に進んでいます。
どちらも内心は、終わらせたいと思っていますから」
「良い方向へ向かうことを、願っています」
ヌイはそう言って、型紙を引き続けた。
戦争が終わった後の横浜は、不思議と前より静かだった。
◇
それから、一週間が経過した。
文久三年十月五日。
久しぶりに、慶一郎がヌイの店に来た。
「今日は皆さんに、ご報告があって来ました。
四回にわたる交渉の末、ついに薩摩藩とイギリスの和議が成立いたしました」
聞いていたみんなには、安堵の表情が広がった。
「本当に良かったわ。
これで一歩前進ね」
とクレアが言った。
ヌイは、慶一郎が右手に持っている何かが気になった。
丸い、橙色のもの。
「その持っているのって、なんですか?」
「ああ、これは、みかんです。
薩摩からイギリス側への、和議の証として渡されたものなんです。
ワーグマンさんがひとつ、私に分けてくれました。
よかったら、皆さんで食べませんか?」
「それじゃ、私が剥きます」
ヌイは立ち上がって、みかんを受け取った。
両手で包んだ。
重かった。
みかん一個の重さよりも、重く感じた。
その時、店の扉が開き、ワーグマンが入ってきた。
「みなさんごきげんよう。
慶一郎に持たせたみかんは美味しいか?」
ワーグマンの言葉は、慶一郎が訳してくれた。
「ワーグマンさん、こんにちは。
今から私が剥こうと思っていたところです」
「それはいいタイミングだ。
よければ、みかんを持つ手を、描かせて欲しい。
いつだか、スケッチさせてくれる約束をしただろう?」
「あれ、本気だったんですね。
私の手でよければ、描いてください」
「ありがとうございます」
ヌイは両手でみかんを包んだ。
ワーグマンは鉛筆を舐め、スケッチを始めた。
みかんを剥こうと、少しだけ力を込めると、皮の香りがした。
甘い、柑橘の香り。
(これが薩摩の……)
目が滲んだ。こらえた。
「薩摩の土で育ったものです」
と慶一郎は言った。静かに。
「薩摩の海の近くで、お父つぁんも、子供の頃に食べていたって言ってました。
薩摩には甘いみかんがあると、いつも自慢していました」
ヌイは、惣兵衛が剥いてくれたみかんを思い出していた。
それから、カーリーがぽつりと言った。
「私の名前、スカーレットっていうじゃない?
前にも話したけど、みかん色って意味でもあるんだよね」
ヌイがカーリーを見た。
「スカーレット――みかん色。
このみかんは、カーリーの色なのですね」
とヌイは繰り返した。
「そう。なんか変な気分。
薩摩と戦争して、薩摩が送ったみかんの色が私の名前だなんて」
ヌイはみかんを見た。当たり前だが、綺麗なみかん色だった。
スカーレット――緋色でもなく、朱色でもなく、みかんのような、温かい橙色。
(生麦での事件の日に見た緋色は、暗くて重かった。
でも今日のこの色は――)
「スカーレットって、素敵な名前だと思います。
最初知った時も言いましたけど」
とヌイは小さく笑いながら言った。
「そう?」
とカーリーが言って、今度は素直に嬉しそうにした。
クレアもみかんを見て、目を細めた。
「私の夫も大好きだったわ。みかん。
薩摩の商人に初めてもらった時、甘くて驚いていたわ」
夫の話をするクレアの目に、涙はなかった。
ただ、何か遠いものを見ている目があった。
(お父つぁん。薩摩のみかんが、横浜に来ました)
一個のみかんを、日本人二人と、イギリス人三人で囲んでいた。




