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【奨励賞受賞】世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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終章.惣兵衛からの手紙


 明治八年四月。

 ヌイにとって、十四回目の横浜の春が来た。

 

 今日も“縫合”の扉を開ける。

 春の朝日が、仕事場の中に入ってきた。

 棚に置いてある薩摩の絹が、白く光った。


 午前中、ワーグマンが来た。

 いつもの帳面と鉛筆を持って、いつもの大股で入ってきた。

 

「元気にやってま〜すか?」


「ワーグマンさん、いらっしゃいませ」


「おや、この子は?」


「何言ってるんですか、娘ですよ!」


 そろそろ五歳になるイトは、背が少し伸びていた。

 顔はヌイに似ていたが、目だけは慶一郎に似ていた。


「イトちゃん、もうこんなに大きくなったんで〜すか!

 スケッチさせてくれますか?」


「顔は恥ずかしいから、描かないでくださいっ!」


 とイトが言った。


「あっはっは、母親と同じことを言うんで〜すね」


 ワーグマンが肩を揺らして笑った。

 

「では、手を描きま〜す」


 ワーグマンはそう言って、イトが端切れを触っている手元に鉛筆を向けた。

 イトは構わず端切れを折り続けた。

 それがよかった。

 動いている子供の手が、そのまま紙に移っていく。

 

 

 しばらくして、ワーグマンは帳面をヌイに向けた。

 

 紙には、端切れを持つ小さな手が描かれていた。

 その下に『KAMISHIRO ITO』と書いてあった。

 

「可愛く描いてくださいましたね」

 

「ところで、イトという名前の意味はなんで〜すか?」

 イトは、縫う糸のことで〜すか?」


「はい、そうです。

 糸がなければ、縫えない――針と糸は、一緒でなければならない。

 そういう意味で夫がつけました」


「それにしても、いい名前で〜すね。

 母と娘で、仕事を半分ずつ持っているようです。

 慶一郎は、詩人(ポエマー)だな」


「かもしれませんね」


 ヌイはワーグマンの言葉選びが好きだった。


「それでは、私はそろそろ失礼しま〜す。

 あ、そうそう、ウィーン万博のドレスの新聞記事を見た時、思ったんです。

 横浜のヌイは、見えるものを作っているようで、本当は見えないものを縫っている、と」

 

 ヌイはワーグマンの言葉を、心の中で繰り返した。

 

(見えないものを縫っている……)

 

 布から服を縫うだけではない。

 親から子を。日本から世界を。

 それらの間にある、目に見えない繋がりを、針と糸が縫い合わせていく。

 それが仕立て屋の仕事なのかもしれない。


 ◇

 

 午後、クレアが来た。


「クレアお婆ちゃん、こんにちは!」

 

 イトがクレアの膝に飛び乗った。


「重くなったわね、イトちゃん」


「クレアお婆ちゃんの力がなくなったんじゃない?」


「あら、正直に言うのね」


 クレアが笑いながら言った。


「すみません、クレアさん」


 ヌイが代わりに謝った。

 

「ところで、ヌイさん。一つ話があるの」

 

「なんでしょう?」

 

「私、秋にイギリスに帰ろうかと思っているわ」

 

「帰国されるのですか?」


「夫の家族に挨拶したい。

 もう十五年以上会ってないし、義理の両親が歳を取ったと手紙が来たのよ」


「そうですか……」


「でも、そんなに長い間はいないわ。

 半年か、一年かで日本に戻るつもりよ」


「戻ってきてくれるのですか?」


「もちろんよ。

 横浜は私の故郷だもの」


「横浜が、故郷……」


「ええ、そうよ。

 ヌイさんの故郷はどこかしら?」

 

「私も、横浜かもしれません」


「色々あったものね……」

 

「はい……。

 クレアさん、必ず帰ってきてくださいね。

 待っています。横浜で」


「ええ」

 

 二人の間に、静かな時間があった。

 

「……クレアさんがいなければ、私はここにいませんでした」


「私じゃなくて、惣兵衛さんのおかげよ。

 夫の帳簿に残っていた、あの記録のおかげ。

 私はその糸のような縁をたどっただけ」

 

 イトがクレアの膝で眠り始めた。

 ヌイとクレアは、眠ったイトを見ながら、しばらく何も言わなかった。


 ◇


 夕方、慶一郎が帰ってきた。

 翻訳の仕事から帰る時の足音を、ヌイはもう覚えていた。

 石畳を踏む音の間隔で、慶一郎だとわかる。

 

「ただいまです。

 イトはどうしました?」


 慶一郎は仕事着のまま、まずイトを探した。


「イトなら、眠っていますよ」


「そっか、たくさん寝る子ですね。

 それはそうと、今日は何のお仕事をしていましたか?」


 慶一郎は、1日の終わりにヌイの仕事の話を聞くのが日課になっていた。


「今日は、大阪から依頼の型紙を引いていました。

 五代さんの知人からの」


「順調に進みましたか?」


「イトの子守りもあるので、思うようには進みませんが、八割ほどですかね」


「それなら、あと少しですね」


「はい、明日には引き終われそうです」

 

 慶一郎が型紙を覗き込んだ。

 ヌイの仕事を見る時の目は、最初の頃から変わっていなかった。


「それと、クレアさんが来て、秋にイギリスへ帰ると言っていました。

 半年か一年で戻ってくるとは言っていましたが」


「クレアさんは、もうすっかり横浜の人間ですね」


「そうみたいですね。

 私はてっきり、もう戻って来ないのかと思いました」


「それを言うと、ヌイさんも横浜の人間になりましたよね」

 

「そうですね。

 クレアさんに『故郷はどこかしら?』と聞かれた時も、真っ先に横浜が頭に浮かびました」


「文久二年の春に初めて会った時は、まだ他所(よそ)の人間という感じがしましたけど」


「そうでしたね。

 初めて居留地の門をくぐった時、泣きそうになりました」


「そうだったんですか?」


「涙は(こぼ)れませんでしたが」


「さすが、お強いですね」

 

 二人は笑った。


 ◇

 

 夜、慶一郎とイトが眠った後、ヌイは仕事場に戻った。

 習慣だった。

 夜が一番、集中できる。

 家の中が静かになった後の仕事場は、ヌイだけの時間だった。

 

 灯りをつけ、作業台に向かった。

 型紙の続きを引くこともできたが、今夜は針を持ちたかった。

 

 取り出したのは、薩摩の絹の端切れだった。

 チエが送ってきたものの残りだ。

 薩摩の絹の声が、手の平から伝わってきた。

 深い艶を持つ絹の、柔らかくて芯のある声。

 

 そして、針刺しを手に取った時、ヌイは違和感を感じた。


(この針刺しの裏、何か入ってる……?)


 何度触れたかわからない、赤い布の針刺し。

 江戸の長屋から、“縫合”まで、ずっと一緒に来た。


 ヌイは針刺しをひっくり返し、底の部分を確かめた。

 すると、赤い布が端の方で少しだけ浮いていた。

 縫い目が、ほつれているのではなく――敢えて、縫っていない部分があった。


 指でそっと押すと、布が開いた。

 そこには、薄く折り畳まれた紙が入っていた。


 震える手で紙を広げると、惣兵衛の字があった。

 惣兵衛の、細くて几帳面な字。

 

『ヌイへ。

 わしは薩摩から海を越えて江戸に渡った。

 体が持つなら、世界へも渡りたかった。

 だが、わしはもう時期、死ぬかもしれん。

 だから、代わりに海を越えて世界へ行ってほしい。

 お前には、それだけの才能があると確信しとる。

 この針刺しで、世界を縫え。

 文久元年 惣兵衛』


 ヌイは手紙を持ったまま、動けなかった。

 

 文久元年。

 きっと、あの日の夜に書かれた手紙だろう。


 惣兵衛の言葉は、全部やり遂げた後に届くように、底に仕込まれていたのだ。


(お父つぁん……)


 ヌイは手紙を針刺しの底に戻した。

 そして、縫合した。


 窓の外を見ると、横浜の夜の港に灯りが点々とついていた。


 あの灯りの向こうに、海がある。

 海の向こうに、ウィーンがある。

 ヌイの一着が、今も誰かの記憶の中にある。


 窓から夜風が入ってきた。

 潮の匂いがした。

 この匂いを初めて嗅いだのは、文久二年の春だった。

 石畳を踏みながら居留地の門をくぐって、この潮の匂いが惣兵衛の手の匂いに似ていると、ヌイは思った。

 薩摩の海の匂いと、横浜の海の匂いが、同じところを持っていると。

 それから十三年が経っていた。


 “縫合”という店を持っている。

 神代という苗字を持っている。

 イトという娘がいる。

 絹江という弟子がいる。

 クレアがいる。

 カーリーがいる。

 ワーグマンがいる。

 慶一郎という夫がいる。

 ――全部が、繋がっている。


 針が、また動いた。

 一針、一針。

 布地の声を聞きながら。

 糸の引き具合を確かめながら。

 次の針目へ、また次の針目へ。

 ヌイの手が、静かに動き続けた。


(縫い物の縫――傷ついたものを繋ぎ合わせる針。

 お父つぁん。私にはまだまだ縫うものが残っています。

 きっと、ずっと)

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