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【奨励賞受賞】世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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38.苗字の意味


 明治八年の二月、とある布告が出た。

 

『苗字のない平民は、新たに苗字を設けよ』


 横浜の街中がこの布告で大騒ぎの中、今日も絹江は“縫合”に来ていた。

 

「お師匠、聞きましたか!?

 私、苗字が持てるみたいなんです!」


「そっか、絹江さんも苗字がなかったんですね」


「“も”ってどういう意味ですか?

 お師匠は“神代”っていう苗字がありますよね?」


「その苗字は、夫に頂いたものなんです。

 それまでの私は、ただのヌイでした」


「そうだったんですか!

 外はとにかく、大変なことになっていますよ!

 苗字の届け出どうしよ〜って!」


「一斉にとなると、役場が混乱しそうですね」


「暮らしに余裕のある人たちは、お寺に頼み込んで苗字をつけてもらってる、と聞きました!

 私の家は無理ですけどね〜」


「ほとんどの人は、自分たちで考えるんじゃないですか?

 絹江さんは、何か候補はあるんですか?」


「それが、全く何も思いつかなくて……。

 お師匠、私に何か苗字をつけてくださいませんか?」


「私がですか!?

 そういうのは、ご家族と相談してはどうです?」


「そうは言っても、オトンもオカンも、子供の頃から仕事ばかりで、文字がわからないので……」


「そうでしたか……。

 んー、何がいいでしょう……?

 住んでる場所、家族の仕事……、何か絹江さんの周りのことを参考にさせてください」


「そうですね……、家の目の前に海があります!

 あとは、母は布売りで、父は漁師です!」


「布売り……、漁師……。

 それに海に関わる言葉……。

 ……海布(かいふ)とか、どうでしょう?」


「海布絹江……なんか、気に入りました!

 帰って家族に相談してみます!」


 ◇

 

 翌週、絹江が、


「お師匠、苗字は海布に決めました!」


 と報告した。


「今日から私は、海布絹江です!」


 と言ってみて、少し照れた顔をした。


「まだ慣れていないので、変な感じがしますけど」


「そのうち慣れます。私もそうでした」


「お師匠も?」


「はい。神代ヌイと呼ばれ始めた最初の頃は、自分の名前じゃない気がしていました」


「今は?」


「今は、そういうものだと思っています。

 名前は変わっても、結局それ以外は何も変わりませんでした。

 針の仕事だけは、ずっと自分のものなんだと気づけました」

 

 その後、ヌイは型紙を引きながら、苗字のことを考えていた。

 

(お父つぁんが生きていたら、何という苗字を考えるだろう……)

 

 惣兵衛は“惣兵衛”として生き、“惣兵衛”として死んだ。


(お父つぁんに苗字をつけるとしたら、「針」の字が似合いそうかな……)

 

 針本惣兵衛。針山惣兵衛。針生惣兵衛。

 どれも違う気がした。

 でも、考えること自体が、惣兵衛への挨拶のような気がした。

 

 惣兵衛はもういない。

 でも、惣兵衛の針刺しはここにあって、惣兵衛が育てたヌイという仕立て師がここにいる。

 

(苗字がなくても、残る。

 残るものは、苗字ではなく、仕事だ)

 

 惣兵衛の針刺しを手に取った。

 これだけは、どこへ行っても手放さない。


 ◇


 その日の夕方、慶一郎が帰ってきた。

 

「苗字の布告から一週間経ちますけど、役場は未だに混んでいるみたいですね。

 翻訳の仕事の合間に通りかかったら、長い行列ができていました」


「やはり、苗字のない家が多いんだな、と改めて感じますね。

 私も、慶一郎さんと結婚しなかったら、きっと今頃大慌てでしたね。

 今日は、お父つぁんの苗字のことも、少し考えていました。

 もし、お父つぁんが生きていたら、どんな苗字をつけただろうか、と。

 でも、何を考えても、似合わない気がして」


「そうですか」


「お父つぁんは“日本橋の惣兵衛”と呼ばれていました。

 苗字がなくても、それで、十分だと思うからかもしれません」


「いい仕事をするからこそ、そうやってみんなに呼んでもらえて、定着していくのだと思います」


 ヌイは、その言葉を噛み締めた。

 

 ◇


 三月になって、大阪から手紙が来た。

 五代友厚の知人の商人からだった。


『春の取引会議に向けたドレスの注文をしたい。

 採寸のために横浜に赴く』

 

 ヌイはその文を読んで、絹江に見せた。


「お師匠、すごいです! 大阪から注文ですか!」


「絹江さんにも、仮縫いの工程を一緒にやってもらいます」


「私がですか!?」


「見ているだけでは覚えられません。

 手を動かしながら覚えなさい。

 失敗したっていい。

 一度失敗すれば、次は気をつけられます」


「でも、お客様の前で失敗したら……」


「絹江さんなら、きっと大丈夫です。

 それに、失敗をしないために、今まで何をしていましたか?」


「……練習をしていました」


「そうです。昨日までの練習が、今日以降の仕事に現れます」

 

「わかりました。やってみせます!」


 絹江はそう言って、型紙に向かった。

 少し緊張した顔だったが、目が、前を向いていた。

 嘘をつく気のない、正直な目が。

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