03.運命の出会い
横浜に来てから十日目、クレアのもとに客が来ていた。
絹の仕立てを頼みたい、というオランダ人の商人で、通訳の女を伴っていた。
ヌイは奥の作業台で縫い物をしながら、その声を半分聞いていた。
しかし、問題が起きた。
どうやら、通訳の女がクレアの言葉を訳せずにいるようだった。
クレアの言葉には専門的な縫製用語が含まれていたのだ。
その時、店の扉が開いた。
「失礼します」
と日本人の男が入ってきた。
歳は二十代の半ばくらいだろう。
背は高くもなく低くもなく、着流しに羽織、腰には脇差を差しており、特に目立つ風体ではなかった。
ただ、こちらへ向かってくるその歩き方が、違った。
無駄がなく、足音がほとんどしなかったのだ。
「Heeft u hulp nodig?(何か手伝いましょうか?)」
男は商人と通訳を一目見て、すべてを理解したような顔をして、流暢な外国語で言った。
オランダ語らしかった。
男はクレアに向かって、今度は日本語で話し始めた。
「横から失礼いたしました。
縫製用語を、通訳の方がご存じなかったようで、少しお手伝いを」
「ありがとう。おかげで助かりました」
「いえ、たまたま通りかかりましたので」
クレアと商人の話が再開した。
男が通訳に入り、会話は滑らかに進んでいる。
(あの男の人、何者なんだろう……)
通訳をしているが、幕府の通詞というものは、もっと公的な場にいるのではないだろうか。
この男が私たちのために、何の前触れもなく、通りすがりに手伝いをするというのは、不自然な気がした。
話が終わって、商人が帰っていった。
男も帰り際に「失礼しました」とクレアに言って、扉に向かった。
「……あ、あの」
ヌイは、自分でもなぜ声をかけたのかわからなかった。
その声に男が振り返り、目が合った。
一重の、落ち着いた目だった。
日本人の見慣れた目の色のはずだが、綺麗な瞳だった。
「なんでしょう? お嬢さん」
声をかけたはいいが、何を話していいか自分でもわからなくなり、「助けてくれてありがとう」という旨の言葉を言った気がする。
男はヌイの顔を一度見て、それから手元の縫い物を見た。
「いえ、お困りのように見えましたので」
「それだけですか?」
聞いてから、少し後悔した。
失礼な聞き方だったかもしれない。
「ええ、それだけです」
「あなたは、通詞の方ですか?」
「そんなところです。
ご縁があれば、またお役に立てるかもしれません。
それでは」
嘘をついているようには聞こえなかったが、全部を言っているようにも聞こえなかった。
そして、男は出て行った。
「ヌイさん、あの男性とお知り合いなの?」
とクレアが聞いた。
「いえ、初めて見ました」
クレアは「そうですか」と言って、仕事に戻った。
ただ、ヌイは男の去り際の一言が、頭の隅に引っかかっていた。
(彼は“また”と言った。
名前も知らない相手に“また”と言った……)
それが形式的な言葉ではなかったような気がした。
◇
その三日後。
ヌイは、クレアに頼まれた糸を買いに街へ出ていた。
そして、路地の角で前から歩いてきた人と正面からぶつかった。
「痛っ、ごめんなさい」
と言い、顔を上げると、先日の男だった。
「……あれ、あの時の洋裁店の方ですよね?」
「あ、はい。偶然ですね。
改めまして、先日はありがとうございました」
「いえ。その、名前を伺ってもよろしいですか?」
「わ、私のですか!?」
「あなた以外にいないでしょう?」
「そうですよね!
えっと、私はヌイと申します。
カタカナでヌイ、と」
「ヌイさん。素敵な名前だ。
申し遅れました。私は慶一郎といいます」
「慶一郎様……」
「様はいりません」
「……では、慶一郎さん」
慶一郎がうなずいた。
歳の近い男性の名前を呼ぶのは、少し照れ臭かった。
「ヌイさんは、今はお仕事の途中でしたか?」
「買い物の帰りです。糸を」
「でしたら、この先の路地を行くといい。
少し遠回りですが、石畳ですので、重い荷物を持ち歩くなら楽です」
「ありがとうございます。
この辺り、詳しいのですね」
「仕事柄、この辺りを歩くことが多いので。
それでは、また」
と慶一郎は言って、歩き出した。
今回も“また”と言われた事が、やはり気になった。
(でも、なんでこの人は、私にわざわざ道を教えてくれたのだろう)
慶一郎は、ヌイの荷が重いということを、一目で見て取っていた。
(周りをよく観察している人だ)
ヌイは歩きながら思った。
自分も針仕事をしていると、細かいものを見るようになる。
布の歪み、糸の緩み、指先の力の入り方。
そういう細部を自然に拾う目が、仕事の中で育っていく。
慶一郎の目も、私と同じく何かを細かく見ている人の目だ、と感じた。
何を見ているのかは、わからなかった。




