02.名前の意味
(あの紙に描かれていた曲線は……、人間の体の形だ)
和裁では、体の形を型紙に写し取ることはしない。
布を平らに広げて、縫い目で立体を作る――平面から立体へ、という手順だ。
でも洋服の型紙は、最初から体の形を紙に起こしている。
体の丸みを、最初から計算に入れている。
(……始まりが違うのね。
お父つぁんは、この違いを知っていたのかな……)
惣兵衛が洋服を縫ったという話は、聞いたことがない。
和裁一筋の職人だった。
それでも、クレアの夫がその仕事を覚えていてくれた。
(お父つぁんは、どんな着物を縫ったのだろうか……)
惣兵衛の針は、こんなに遠くまで届いていた。
ヌイは目を閉じたまま、しばらく針の感触だけを指先で思い出していた。
◇
翌日、クレアが伝票の担当者の欄に『Scarlett』と書くのが見えた。
「スカーレット……って方も働いてるんですか?」
とヌイが尋ねた。
すると、カーリーが顔を赤くして答えた。
「スカーレットってのは、私の本名よ。
その名前で呼ばれると、なんか……大げさな感じがして、昔から苦手なのよね。
なんか、名前負けしてるというか……」
「名前負け……?
スカーレットってどんな意味なんですか?」
「日本語に直せば、“みかん色”って意味なんだけど、言葉の響きが、贅沢な感じがするのよ……。
産まれた時に、私のほっぺがみかん色だったから、お父さんがスカーレットって名付けたみたい」
「そうでしたか。
私はカーリーにピッタリな綺麗な名前だと思います」
「ヌイが言うと素直に嬉しいな。
ちなみに、ヌイの名前はさ、どういう意味なの?」
「私の名前は――」
その時、惣兵衛の記憶が蘇った。
◇
ヌイが七つか八つの頃。
近所の子に「ヌイって変な名前ね」と言われて、泣きそうになりながら家に戻った。
仕事場にいた惣兵衛に事情を話すと、惣兵衛は膝にヌイを乗せてくれた。
大きな膝だった。
そして、惣兵衛が語り始める。
「ヌイというのはのぅ、縫い物の縫じゃ。
切れたものを繋ぐ。裂けたものを合わせる。
傷ついたものを、元に戻す――それが縫合ぞ」
薩摩の訛りが、その言葉の端々に滲んでいた。
惣兵衛は薩摩の出身だった。
若い頃に江戸へ出てきて、日本橋に小さな仕立て所を構えたのだ。
「でもお父つぁん、傷は完全には治らないでしょ?」
惣兵衛は少し黙ってから、こう続けた。
「傷跡は残る。でも繋ぎ合わせた糸は、傷つく前よりも強くなることがあるんじゃ。
だからお前は、ヌイじゃ。
喧嘩の絶えないこの天下を縫い合わせるために産まれてきた子じゃ」
◇
「――私の名前は、縫い物の縫から付けたと、お父つぁんが話していました」
「縫い物って……。
ヌイはこの仕事をするために産まれてきたみたいね!」
「そうかもしれません。
できることなら、お父つぁんとずっと一緒に、縫い続けたかったです」
「ヌイのお父さんも、仕立て師だったの?」
「はい。
物心ついたころから、お父つぁんは針を持っていました。
カーリーのご両親は、何をしているのですか?」
「私の親は、二人とも居留地で商人をしているわ。
だから、私がミセス・クレアの店の手伝いに来ているのは半ば趣味のようなもの。
私ね、幼い頃から服が好きで、縫い物が好きで……。
でもね……、残念だけど、私の腕はこの程度」
と言って、カーリーは縫いかけの布を見せてくれた。
決して下手ではなかった。
ただ、丁寧さに気を使いすぎているのか、逆に針目にばらつきがあった。
「ヌイはどうやって覚えたの?」
「お父つぁんに習いました。
子供の頃から、仕立て所の隅で針を持って遊んでましたよ」
「子供の頃からって、何歳から?」
カーリーが目を丸くした。
「三歳の頃には、もう端切れを縫っていたと思います。
糸の通し方は、物心ついたときには知っていました」
「……すっごい」
感嘆でも皮肉でもなく、本当にそう思っているような声だった。
「私なんて、初めて縫い物をしたの、九歳の時だよ。
しかも目がぜんぶずれてた」
ヌイは笑った。
カーリーとは、不思議と話しやすかった。
故郷が違う。育ちが違う。見た目も、考え方も、食べるものも、眠る場所も違う。
それなのに――いや、だからこそかもしれないが――変な遠慮がなかった。
互いに当たり前のことが通じないから、全部ゼロから話せた。
言葉が足りない部分は身振りで補い、それでも通じない時は笑って済ませた。
◇
翌日、カーリーがヌイの着物の袖口をそっと触った。
「これ……当たり前だけど、全部手縫いだよね?」
「はい、そうですよ」
「すごい……、途中で柄が変わっている。
斜めに流れているのに、縫い目がどこにも見えない」
「これは、“コの字閉じ”の技術の応用をしたんです。
ずらして縫い合わせると、柄が流れて見えます」
「“コの字閉じ”って……?」
「えっと、カーリーはカタカナって知ってますか?」
「少しなら……!
『ツ』が可愛くて好きよ!」
「か、可愛い……?
まあ、簡単に言うと、カタカナのコの文字のように縫うことなんです。
合わせ方とかは……ちょっと説明が難しいから、見せましょうか?」
ヌイが端切れを取り出して実演すると、カーリーは眉を寄せながら真剣に見ていた。
「……本当にすごい。なんで揃うの?」
「糸の引き方で合わせます」
「でも、布は動くでしょ?」
「動くのを手で感じながら、ずれを修正するんです」
「……ヌイって天才かも」
「そんな事ないです。
お父つぁんに教わったことをやっているだけです」
しかし、ヌイにとって難しかったのは、型紙だった。
既存の型紙を元に、別の寸法の型紙を作るよう、クレアに頼まれていた。
ヌイは最初の一時間、紙を前にして固まった。
どこから始めればいいのかが、わからなかった。
和裁でも型紙を使うことはあるが、洋裁の型紙とは根本的に違う。
和服の型紙は「布の取り方」を示すものだ。
でも、洋服の型紙は「体の形そのもの」を紙に起こしている。
試しに定規を当てて線を引いてみる。
すると、クレアが一目見て言う。
「ヌイさん、それだとやり直しね」
「どこが違うのでしょうか?」
「そうね、全部かしら」
全部違うことくらい、ヌイにはわかっていた。
しかし、どう違うのかがまるでわからない。
ヌイはやり直した。
「クレアさん。今度は、どうでしょうか?」
「……また、やり直しね」
「難しいです……。
どう違うのかを教えていただけませんか?」
そう言うと、クレアはしばらくヌイを見てから、言った。
「それを自分で考えることが、仕事よ」
クレアは答えを教えてくれなかった。
ヌイは布を縫う手を止めて、型紙だけを見続けた。
何がおかしいのか。線のどこが違うのか。
なぜこの曲線でなければならないのか。
夜、部屋に戻ってからも、頭の中で型紙を引き続けた。
眠れなかった。窓の外に月があった。
(お父つぁんは洋服を縫ったことがない。
だから教えてもらえなかった。
……今度は自分で考えるしかない)




