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世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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01.迷える針子と新たな街


 居留地の一番大きな通りから路地へ入ると、白い漆喰の建物が現れた。

 扉の脇には、木の板に黒い文字で店の名が彫ってある看板があった。


「あれが、そうかも……」

 

 『ハーバート洋裁店』という看板は、想像していたよりもずっと小さかった。

 その下には『洋裁仕立て、承ります』と添えられていた。


(ふぅ、なんとか……辿り着いた)

 

 ヌイは看板を見たまま、しばらく動かなかった。

 

(お父つぁんは、異国の人とも仕事をしていたんだ。

 私なんかにできるのかな……)

 

 クレア・ハーバートという女性が、惣兵衛の仕事を知っていた。

 惣兵衛の縫い目を、遠い横浜から覚えていてくれて、その娘であるヌイに仕事を依頼している。

 そう思うと、扉を開けるのが怖いようでもあり、急がなければならないようでもあった。


「ごめんください!」

 

 意を決して、ノックをした。

 少し間があって、「どうぞ」という声がした。

 何の違和感もない綺麗な日本語だった。


 扉を開けて中に入った瞬間、ヌイは息を呑んだ。

 

「すごい生地……」


 思わず声が漏れた。

 天井まで届く棚に、色とりどりの反物(たんもの)と布地が積み上げられていた。

 橙色、藤色、萌葱(もえぎ)色、黄金(こがね)色――どれも見たことのある色だが、光沢の具合が違った。

 反物は江戸でも見慣れているはずなのに、この店の反物はどこか違う艶感を放っていた。

 

 壁には、ちょうど人間一人分の大きさの紙が貼られていた。

 紙には曲線と直線が引かれているが、ヌイには何の形か、わからなかった。

 ただ、その線の引き方が、どこか美しいとは思った。

 

「もしかして、あなたがヌイさんかしら?」

 

 奥の作業台から、女性が立ち上がった。

 年は四十を少し過ぎたくらいだろうか。

 髪は淡い栗色で、後ろにまとめてある。

 目の色が、青色だった。

 江戸では見たことのない色だ。

 頬骨が少し高く、口元には(しわ)が刻まれているが、それが威厳を与えていた。

 手に()(ばさみ)を持ったまま歩いてくるその様子は、職人そのものだった。

 

「は、はいっ!

 ヌイと申します。

 クレア様のお手紙を受け取り、参りました」

 

「クレアでいいわ。様は要らない」

 

 日本語が流暢(りゅうちょう)だった。

 外国人が話す日本語の、特有の硬さは若干あるが、それがかえって言葉の輪郭を際立たせていた。

 クレアはヌイの頭から足先まで、一度だけ視線を動かした。

 品定めではなく、確認するような目だった。


「惣兵衛さんの仕立てを見たのは、十年ほど前のことです。

 夫が商人と取引をして手に入れた薩摩の絹を、仕立てていただいた時でした。

 完成した着物の縫い目を見て、夫が声を上げたんです。

 『日本の職人の仕事がこれほど細かいとは』とね」

 

 ヌイは何も言えなかった。

 惣兵衛の話を、この女性の口から聞くとは思っていなかったからだ。

 

「お父様のことは、残念だったわね」


 とクレアは言った。

 余分な言葉を足さなかった。

 それがヌイには、逆にありがたかった。


「ヌイさん、横浜まで来てくれて、ありがとう」

 

「……いえ、私の方こそ、お手紙を頂かなければ、どうなっていたか」

 

 クレアが作業台を手で示した。


「早速だけど、ヌイさんの腕を見せてもらいたいわ。

 これを縫ってみてくれる?」

 

 台の上に、一枚の白い布と糸が置いてある。

 針は刺さっていない。


「わかりました。やってみます」

 

 ヌイは、針刺しを取り出した。

 赤い布の針刺し――惣兵衛が長年使ったものだ。


(集中しなきゃ……)

 

 ヌイは糸を針に通し、布の端に針を立てた。

 惣兵衛から教わった通りに、手を動かした。

 一針、一針。指先で布の張りを確かめながら、糸の引き具合を整えながら。

 

 気づくと、ヌイの後ろに気配があった。

 振り返ると、クレアが腕を組んで、ヌイの手元を見ていた。

 無表情で頷いていた。何を考えているのか、読めなかった。

 ヌイは視線を戻して、作業を続けた。

 

 

 縫い終わると、布をクレアに差し出した。

 クレアは受け取って、窓の光にかざす。

 針目を、指でなぞる。

 表から裏から確かめて、クレアは布をヌイに返した。

 

「素晴らしいわ……。明日からウチに来なさい」


「本当ですか? ありがとうございます!」

 

 その瞬間、部屋の奥から走ってくる足音があった。


「That's amazing!」

 

 そう言いながら勢いよく飛び込んできたのは、女の子だった。

 歳はヌイと同じくらいで、明るい栗色の巻き毛が、走った勢いで揺れている。

 目が大きく、頬に散った薄い茶色の斑点――そばかすというものだと、ヌイは後で教えてもらった――が、笑うと動いた。

 

 ヌイに向かって英語で何か言ったが、何一つわからなかった。

 

「ほら、カーリー。まずはご挨拶でしょ」

 

「あ、ごめんなさい。嬉しくてつい」

 

 今度は日本語だった。

 ぎこちないが、言葉は正しかった。

 

「日本語が話せるんですか?」


 ヌイは驚いた。

 

「少しだけ! ミセス・クレアに習ったの!

 あなたがヌイよね?」

 

「はい。ヌイと申します」

 

「素敵な名前ね!

 私はカーリー。よろしくね!」

 

「カーリーさん、ですね」

 

「カーリーでいいよ。さんは要らない」

 

 ヌイは思わず笑った。


「ふふ……、わかりました。カーリー」

 

 カーリーが嬉しそうに笑い返した。

 

「あの速さでこの針目……、ヌイは本当にすごいよ!

 ミセス・クレアが声を出さずに頷いてたの、分かった?

 あの人が頷くのって、なかなかないのよ!」

 

「カーリー、余計なこと言わなくていいから、早く仕事に戻りなさい」

 

 クレアはため息をついた。

 

「はーい、わかりました!」

 

 カーリーは走って奥へ消えた。

 ヌイはその後ろ姿を見ながら、先ほどまで胸の中にあった緊張が、少しほぐれたような気がした。


 ◇


 その夜、ヌイに割り当てられた部屋は店の二階だった。

 四畳半ほどの小さな部屋で、窓が一つ。

 窓から見えるのは居留地の路地と、向かいの洋館の屋根だった。

 

 天井を見ながら、今日一日のことを順番に思い返した。

 居留地の門。石畳。クレアの目。カーリーの笑顔。壁に貼られた紙の、知らない曲線。

 

(明日から、ここで働くんだ……)

 

 ただ一つだけ、引っかかっていることがあった。

 

(あの紙……)

 

 壁に貼られていた紙の線を、ヌイはさっきからずっと頭の中で辿っていた。

 何の形か、最初はわからなかった。

 でも、考え続けているうちに、少しずつわかってきた。


(あの形って、もしかして……)

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