序章.文久二年の旅支度
「金が無けりゃ、遊郭で稼いでこい」
日本橋の路地裏の桜に、青白い月が映えていた。
表通りの賑わいとは隔絶された、暗く細い路地。
そこに面している朽ちた長屋が、ヌイの家だった。
「いやっ、離してくださいっ!」
ヌイは、部屋で二人の大男に両腕を掴まれていた。
目の前には、腕組みをして立つもう一人の男もいる。
ヌイの父・惣兵衛が生前から付き合いのあった、絹問屋の番頭の男だった。
「父親の借金は娘が払う。
それが筋というもんじゃねぇか?」
番頭の男の声には、凄みがあった。
「お前さんは、若くて器量もある。
遊郭へ行けば三年ほどで返せるだろ」
ヌイは、足を踏ん張った。
床の冷たい感触が、足の裏を通じて全身に伝わってくる。
自分の心臓の音がうるさいくらい聞こえた。
怖くて、怖くて、手が震えた。
(助けて、お父つぁん……)
部屋の隅に、惣兵衛が着物を仕立てる際に使っていた道具箱が置いてある。
その蓋の隙間から、赤い布でできた針刺しが見えていた。
――惣兵衛が、死んで半年が過ぎていた。
◇
“コロリ”という伝染病が江戸に入ってきたのは、去年の秋口だった。
その呼び名は、恐ろしい死への速さに由来していた。
就寝前に元気だった人間が、翌朝には冷たくなってしまうのだ。
ヌイは、寝る前に厠へ向かう惣兵衛の足音が普段と違うことに気がついた。
(お父つぁん、ふらついている……?)
そっと様子を見に行くと、惣兵衛が土間にしゃがみ込んでいた。
「ヌイ、近づくな。これはコロリじゃ」
その声があまりにも静かで、ヌイは一歩も動けなかった。
「お前が倒れたら、誰がわしの針を受け継ぐんじゃ……。
布地の声を聞けるのは、わしとお前だけじゃ……」
(布地の声を聞け――着物を仕立てる時に、お父つぁんがよく言っていた言葉だ)
「お父つぁん、せめて、お水でも……」
「いかん。その水は捨てろ。
今の江戸の水は信用できん」
「では、薬を買いに行ってまいります……!」
「余計なことはするな。その金は取っておけ」
「お父つぁん……」
「……ヌイ。日本は開国以降、混迷を極めとる。
お前の針で、日本と外国を繋ぐんじゃ――世界を縫え……」
「世界を……縫う……」
ヌイは、その言葉の意味がわからなかった。
夜が明けた頃、惣兵衛はもう、ほとんど声が出せなくなっていた。
ヌイは、惣兵衛の手が印象に残った。
それは、和裁士として針を持ち続けた、大きくも繊細な手だった。
「ヌイ。わしの……針刺し……に……」
「針刺し? 針刺しがなんです?」
惣兵衛は答える事なく、静かに目を閉じた。
◇
「――おい、娘。聞いてるのか?」
番頭の男の声で、ヌイは我に返った。
「返せる見込みがないなら、その身で返すしかない。
それが世間の道理だ」
ヌイは、自分の奥歯が鳴りそうになるほど、顎に力を込めた。
(逃げちゃいけない。逃げたら……、負けだ)
心の中で繰り返す。
「……一つだけ聞かせてください」
声が震えた。それでも出した。
「私には、あの針があります」
ヌイは惣兵衛の道具箱の方を見た。
男たちの手がわずかに緩んだ隙に、するりと抜け出して箱の前まで歩いた。
蓋を開けて、惣兵衛の針刺しを取り出した。
赤い布に包まれた、小さくて重いものだった。
「父の借金は、この針で、必ず返します。
だから、遊郭などには行きません。
そういうのは、心に決めた人としか……、いたしません……!」
「ふっ、父親と同じで馬鹿な娘だ。
針子ごときが、この借金を返せると思っているのか?」
番頭の男が鼻で笑った。
笑い方が、静かで、それが余計に怖かった。
「針子なんてものは、手間の割に稼ぎが知れている。
お前も、父親を見ていればわかるはずだ。
腕がよくても、死んで借金が残った――それが針子という仕事だ」
ヌイは黙っていた。反論できなかった。
――事実だったからだ。
「女が一人で生きるには、体しかない。
……三年で返せるなら、賢い選択だと思うがね」
“体しかない”という言葉が、胸の奥に刺さった。
針のように刺さった。
でも針と違うのは――傷つけるために刺されたということだ。
(それでも、お父つぁんは、針で生きたんだ……)
「私には、お父つぁんから託された、夢があるんです……!」
番頭の男は、“夢”という言葉に動きが止まった。
「世界を縫え――それが、“日本橋の惣兵衛”から託された、最期の言葉です。
親子としてではなく、二人の仕立て師として……」
それから、長い沈黙があった。
その間、ヌイは番頭の男と目を合わせ続けた。
「……一年だ。一年だけなら待ってやる。
お前さんの父親には、多少だが借りもあるしな」
ヌイの覚悟が伝わったのか、番頭の男はそう言い残し、男二人を連れて出て行った。
足音が路地の向こうへ消えていくのを聞きながら、ヌイはその場にへたり込んだ。
針刺しを胸に抱えたまま、しばらくそうしていた。
しかし、泣かなかった。
ヌイは、泣くのが得意ではなかった。
◇
翌朝、大家の婆さんが一通の手紙を持ってきた。
「横浜ってところから来てるよ。ヌイちゃん宛だね」
見慣れない文字が混じっていた。
日本語で書かれているが、どこか違う。
端整だが少し角張った文字だった。
差出人の名に『ハーバート洋裁店 クレア・ハーバート』とあった。
『私は、横浜の外国人居留地で洋裁店を営んでいるイギリス人の女性です。
最近は人手が足りず、腕のいい針子を探しています。
以前、“日本橋の惣兵衛”の手による着物の仕立てを見て感動したのを覚えています。
そして、彼にはヌイという娘がいると聞きました。
あなたがその娘なら、横浜へ来てほしい。
クレア・ハーバート』
二度読んだ。三度読んだ。
横浜がどこにあるかは知っていた。
東海道を南へ行き、神奈川の先にある港町だ。
三年前に開港してからは、外国人がたくさん住み着いているという話は聞いていた。
惣兵衛のお得意様が「横浜はもう別の国みたいだ」と言っていたのも覚えている。
(横浜か……)
ヌイは針刺しを見た。
縫い続けなければならない。
この針を持ち続けなければならない。
それはわかっている。
ただ、どこで縫うかを、今まで考えたことがなかった。
惣兵衛の後を継いで、日本橋で平凡な人生を送る気でいたからだ。
(お父つぁん。私、横浜へ行っても、いいのかな……?)
荷物をまとめるのに、それほど時間はかからなかった。
持っていくものは少なかった。
着替え、惣兵衛の道具箱。それだけだ。
大家の婆さんに「気をつけてお行き」と言われた。
幼少の頃から顔見知りの長屋の人たちが何人か顔を出して、手を振っていた。
「行ってまいります!」
ヌイは深く頭を下げて、路地を抜けた。
◇
東海道は春の人出で賑わっていた。
旅人、行商人、大名行列の先触れ、荷を積んだ馬。
ヌイは道具箱を背負って、その流れの中をひたすら歩いた。
神奈川の宿を過ぎると、潮の匂いがしてきた。
(私、海って、見たことないな……)
横浜の居留地へ続く道に入ったとき、空が広くなった。
と思ったら、その先に――光った。海が光っていた。
春の午後の陽光が、水面の上で砕けていた。
(これが、日本と外国の境界――海)
ヌイはしばらく歩みを止めずに、その光を見ていた。
すると、居留地の門が目の前にあった。
門の向こうは、別の世界だった。
(この門も、ある意味では日本と外国の境界なのかも……)
石畳。洋館の白い壁。馬車の音。
耳に届く言葉の中に、日本語はほとんど混じっていない。
門をくぐると、目が潤んだ。
なぜかはわからなかった。
怖いわけでも、嬉しいわけでもなかった。
ただ、「ここまで来た」という気持ちが、何かの形になろうとして、瞳から溢れ出てきた。
(お父つぁん、ここが横浜だよ)
道具箱の中には、惣兵衛の針刺しがある。糸切り鋏がある。
――惣兵衛が触れ続けたものが、全部ある。
ここはまだ、ヌイには何もわからない土地だ。
言葉もわからない。習慣もわからない。
(それと、世界を縫えって、なんだろう……)
外国人が行き交う街を見て、ヌイは、惣兵衛の言葉を思い出していた。
今はまだ、その言葉の意味はわからないが、その答えは横浜で探してみせる――ヌイはそう決意した。
ヌイが歩いた跡には、まるで縫い目が施されているようだった。
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