36.ミシン導入
「では、絹江さん。
……明日から来てください」
「え? いいんですか!?
私、こんなに下手なのに……」
「最初から上手い人なんていません。
上達したいという気持ちが大切なんです。
私はただ、絹江さんの目を見て、教えたいと思っただけです」
「ありがとうございます! お師匠!
これから一生懸命頑張るので、よろしくお願いします!」
「急にお師匠呼びですか」
“縫合”に愉快な仲間が一人加わった。
◇
そして翌日。
「じゃあ、絹江さん。
まず糸を針に通してみてください」
絹江は慎重に通し、うまくいった。
「次に、この布の端を縫ってみてください」
絹江は縫い始めたが、針の持ち方が硬かった。
力が入りすぎている。
「針は、もう少し軽く持つといいですよ」
「軽く……ですか?」
「鉛筆で書く時より、もっと軽く。
力を入れ過ぎると、布地に伝わってしまいます」
「布地に伝わる?」
「手の力が強すぎると、布が引っ張られるんです。
布地は、引っ張られたくない。
ただ、自然に縫われたいだけです」
絹江が首を傾けた。
「布地が縫われたいって、どういう意味ですか?」
「感じればわかります。
今はまだ難しいと思いますが、まずは軽く持つことだけを覚えてください」
「わかりました! お師匠!」
◇
あっという間に一日が終わり、店の中には夕日が差し込んでいた。
ヌイは、弟子に教えることは、自分が学び直すことだと、すぐに気づいた。
絹江が縫い上げた布切れを確かめた。
針目の間隔が不揃いだった。
糸の引き具合にばらつきがある。
それは初めて針を持った者として当然のことだ。
(でも、布の織り目に対して、針が直角に入っている……)
絹江は、教えていないことを目で見て学んでいた。
ヌイは内心で、筋があると思った。
◇
それから毎日、絹江は来た。
二日目――糸の引き具合。
三日目――布地の準備。
四日目――採寸のやり方。
五日目――型紙起こし。
五日目の型紙起こしで、絹江が止まった。
「お師匠、どこから線を引いていいかわかりません」
「どこから引けばいいと思いますか?」
「……そうですね、体の、真ん中ですか?」
「そうです。正解は、背骨から始めます。
服の設計は、体の軸から始まるんです」
「そんなに軸が大事なのですか?」
「軸がずれると、全体が歪みます。
実際の体と同じです。
背骨が傾いていたら、どちら側かに倒れてしまう。
型紙も、中心線が正確でなければ、どんなに細部を丁寧に引いても、服は体に合いません」
「難しいですね」
「難しいです。
でも、難しいことに向き合っている時間が、仕事の中で一番面白い時間だと私は思っています。
今はそう思えなくても、ある日突然そう思う時が来ます。
来たら、教えてください」
「わかりました!」
絹江は型紙に向かった。
すると、イトが仕事場に降りてきた。
「あら、イト。お昼寝はおしまい?」
「うん! 目が覚めた!」
型紙を引いていた絹江も、イトに気がついた。
「おはよう、イトちゃん」
「絹江さん、おはよ!
絹江さんはお針子さんになるの?
最近、毎日来てるよね」
「なれるかどうかわからないけど、なりたい!」
「母ちゃんみたいに?」
「お師匠は、私の目標よ」
「母ちゃんはすごいよ!」
「そうだね、見ていて伝わってくる……」
「アタシも早く絹江さんと一緒に、母ちゃんに習いたいな〜」
ヌイはそのやり取りを聞きながら、型紙に向かっていた。
見ていて伝わる、と絹江は言った。
言葉にしなくても、仕事から伝わる――それが職人というものだと、惣兵衛が言っていた気がした。
◇
絹江が来て一週間が経った頃、問屋に注文していた足踏みミシンが一台、“縫合”に来た。
この一週間で“縫合”の評判が広まり、注文が増えていた。
一着一着を手で縫うヌイの仕立て方では、こなせる量に限りがあったため、タイミングはよかった。
ミシンを使うことに、もう迷いはなかった。
布地の声を聞く必要がある場所は手で縫う。
でも、見えない場所の直線縫いはミシンに任せる。
それがヌイの答えだった。
絹江は興味深そうにミシンを覗き込んだ。
「お師匠、ミシンを使えるんですか?」
「以前、習ったことがあります。
でも、全ての場所にミシンを使うわけではありませんよ」
「例えば、どこに使うんですか?」
「見せます。今日のこの仕事で」
その日の仕事は、イギリスの商人の妻からの依頼――裏地のついた秋用のウールジャケットだった。
ヌイが型紙を広げて絹江に説明した。
「このジャケットを縫う時、手縫いとミシンを使い分けます。見てなさい」
まず裁断。
表地のウールと裏地のシルクを裁ち終えた後、ヌイはミシンの前に座った。
「裏地の直線部分には、ミシンが使えます」
踏み台を踏んだ。ミシンが動き始めた。
裏地の縫い代には、布地の緊張を微妙に調整する必要はない。
ミシンの針が走った。均一に、速く。
「手でやると三十分かかりますが、ミシンなら五分です」
「仕上がりは、変わりますか?」
「触ってみなさい」
縫い終わった部分を絹江が触れた。
「針目が全部同じ幅ですね」
「はい。ミシンは均一が得意です。
次は手でやります。見ていなさい」
ヌイはミシンから離れた。
次は、ジャケットの前立てを縫い始めた。
着た時に最も目立つ場所の一つ。
ここが歪んでいると、全体が歪んで見える。
布地の声が来た。ウールの、しっかりした声。
この布は少し厚みがある。
縫い目が詰まりすぎると布が波打つ。
ヌイが引き具合を少し緩めると、布が平らになっていく。
絹江が覗き込んで、不思議そうな顔をしている。
「これを、ミシンでやるとどうなりますか?」
「波打ってしまいます」
ヌイは答えながら縫い続けた。
「ウールは一枚一枚、厚みが違います。
どの部分が厚く、どの部分が薄いか、それを手が感じながら、その都度引き具合を変えます。
ミシンはそれができない。
均一に送るから、布の厚みの変化に対応できない」
「でも、前立ては一番目立つ場所ですよね?」
「だから手で縫います。目立つ場所ほど、手が要ります」
「私もお師匠みたいに、手縫いでも均一に縫えるように練習しないといけませんね。
そこのカーブも手で縫うのですか?」
「ここをミシンでやってしまうと、布に歪みが生まれます。
体のカーブに沿った縫い目は、一針ごとに角度が変わります。
ミシンは角度の変わる縫い目が苦手です。
止めて向きを変えながら縫えばできますが、それをやるなら手で縫った方が早い」
絹江はうなずきながら、ヌイの手元を見ていた。
◇
こうして、一着のジャケットを仕立て終えた。
「ミシンを使う場所と手縫いの場所、どちらが多かったですか?」
絹江がしばらく考えた。
「……手縫いの方が、多かったです」
「そうです。ミシンは二割ほどです。
でもその二割を機械に任せることで、残りの八割に、手が集中できます。
それが私の使い分けです」
ジャケットをハンガーに掛けて、二人で見た。
裏地は、まっすぐ綺麗に縫われていた。
前立ての縫い目に、歪みはなかった。
「お師匠、一つ聞いていいですか?」
「なんです?」
「裏地にミシンを使った時、布地の声が聞こえないことが、もどかしくなかったですか?」
ヌイは少し間を置いた。
「……なりませんでした。
裏地を縫っている時、私の手は次の場所のことを考えていました。
前立てをどう縫うか、袖山のカーブをどう取るか。
ミシンに任せた時間が、次の手縫いの準備になっていました」
「……機械が、お師匠の手を休ませてくれているんですね」
「そういうことです。
道具というのは、職人の手が本当に使われるべき場所で使われるための、準備をしてくれるものです」
絹江は「わかりました」と言って、自分の仕事に戻った。
ヌイはミシンを見た。
黒い鉄の体に、ランプの光が当たっていた。
この機械に任せることで、惣兵衛に教わったことをより深く使える場所がある。
どちらが正しいかではなく――どちらも、今のヌイに必要なものだ。
惣兵衛の針刺しを手に取った。
ミシンと針が、同じ仕事場に並んでいた。




