35.ヌイの店
「おヌイさんも、とうとう店主かい。
ところで、“縫合”って、どういう意味なのかしら?」
“縫合”の最初の客は、お昼前に来た。
常連のイギリス人の夫人だった。
「“縫合”は、縫い合わせる、という意味です。
布を繋ぐ。人を繋ぐ。傷を繋ぐ。
――和と洋を縫い合わせる。
そういう願いを込めています」
「素敵な意味ね」
「ありがとうございます」
「じゃあ今日は、私のドレスを繋いでちょうだい。
脇の縫い目がほつれてしまったのよ」
「承りました。採寸から始めますか?」
「お願いするわ。
あなたに採寸してもらった服を着ると、なんだか体の歪みが治る気がするから」
ヌイは採寸を始めた。
肩の高さ。胸の位置。腰の丸み。
その全部を、手で確かめながら読んでいく。
体の声を聞く仕事――それは、機械に渡せないものだった。
◇
夕方、イトがよちよちと仕事場に入ってきた。
「イト、お昼寝はもういいのですか?」
「ん〜、こんちはっ!」
「なぁに? 寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてるって、なに?
それより、母ちゃん、お仕事してるの?」
「はい、お仕事中です」
「アタシもしたいっ!」
「何を手伝ってくれますか?」
「……針、持ちたいっ!」
「危ないから、針はまだ触ってはいけませんよ」
(確か、私が初めてお父つぁんに針を握らされたのは、三歳の頃だっけ……。
イトも、誕生日がきたらできるかしら)
「早く母ちゃんの手伝いしたいっ!」
「気持ちは嬉しいけど……、ならこれは?」
ヌイは端切れをイトに渡した。
「これ、お仕事?」
「そうですよ。
その端切れを折ってみますか?」
「うん!」
イトは満足して、布を撫で始めたが、しばらくすると、端切れを一生懸命折り始めた。
「ん〜、難しちい……」
うまくいかなくて、また折り直した。
「いいですか、イト。
こことここを合わせるんです」
「ん〜、あっ……できたよっ!」
イトは布の切れ端を綺麗に三角に折れた。
「すごい。上手にできましたね!」
ヌイは頭の撫でた。
「いつか母ちゃんみたいに、縫えるようになる?」
「なれます。続ければ」
「わかった! 続ける!」
「はい。続けてください」
ヌイは縫い目に戻った。
隣でイトが端切れを折り続けた。
“縫合”の、最初の日が終わろうとしていた。
◇
“縫合”の経営は、まずまずといったところ。
気づけば、明治六年の初夏になっていた。
石畳の隙間から力強く雑草が顔を出し始めていた。
“縫合”の扉に朝の光が当たると、ワーグマンが描いた看板の文字が温かく浮かび上がった。
『HOUGOU』と『縫合』が並んで、初夏の光を受けていた。
「母ちゃん、おはよう!」
朝、イトは起きてくると必ず仕事場の端切れの箱を開けた。
イトは三歳になっていた。
中を漁って、気に入った色の布を選んで、膝の上に広げて座る。
(布地の声を聞いているのかしら……?)
「ねえ母ちゃん! この青い布、縫いたい!」
イトは、布を握って駆けてきた。
「針、ちゃんと持てそうですか?」
「うん! 頑張る!」
「そっか……。イトも、もう三歳だもんね。
母ちゃんもね、今のイトと同じ歳の頃に、初めて針を握ったのよ。
今はいないけど、お爺ちゃんに教えてもらいながら縫っていました」
「お爺ちゃんも上手だった〜?」
「それはもちろんです!
母ちゃんの師匠ですから。
それと、イトはどうしてその青い布を選んだの?」
「……なんか、横浜の海みたいで綺麗だから!」
「いい感性ね。
じゃあ、針の持ち方を教えるから、こっちにいらっしゃい」
「やったー!」
イトはヌイの膝の上に座った。
しかし、縫い方を教え始めた直後、店の扉が開いた。
立っていたのは、クレアだった。
「ヌイさん、イトちゃん、おはよう」
「クレア婆ちゃん! おはよう!」
「おはようございます、クレアさん。
こんなに朝早くから、どうしたのですか?」
クレアは、にこにこしている。
「実は、“縫合”にとって、いい話を持ってきたのよ。
横浜の裏町にね、針子になりたいという娘がいるわ。
絹江という名前で、十五歳の子よ」
「その子が、どうしたのですか?」
「話を聞くとね、ヌイさんに教えてほしいって、言っていたのよ」
「どんな娘ですか?」
「会ってみればわかるわ。
私が聞いたところでは、母親が布売りをしていたそうで、小さい頃から布に慣れ親しんでいるとのことよ。
腕は知らないけれど、目が正直な子だと思ったわ」
「目が正直な子……」
「ええ。嘘をつく気のない目をしていたわ。
あなたや慶一郎さんに似ている……。
“縫合”で、弟子をとってみてもいいんじゃないかしら?
私があなたにそうしたように。
それに、教えることは、あなたにとってもいいことなのよ?
必ず成長に繋がるわ」
「わかりました。会ってみます」
◇
午後から、ヌイはクレアが言っていた場所へ向かった。
「あなたが絹江さん?
クレアという仕立て屋の女性から、話を聞きました」
「はい! 絹江と申します!
おヌイさんですよね? 私、ずっと見てました!
……お金がなくて、仕立てを依頼したことはありませんが……」
絹江は背が低く、肩幅が狭かった。
顔に薄いそばかすがあって、髪を後ろでまとめている。
着物が古かったが、着方が清潔で、帯の結び方がきちんとしていた。
「じゃあ絹江さん、早速だけど、うちの店に来てみますか?」
「いいんですか!?
よろしくお願いします!」
「ええ、ついてきてください」
「はいっ!」
絹江は店に入ると、真っ先に壁の型紙を見た。
客が来れば布地を見るのが普通だが、彼女は型紙を見ていた。
「型紙が珍しいですか?」
「はい。これ、体の形を描いてあるんですか?」
「そうです。体の形を紙に起こして、それに合わせて布を裁ちます」
「どうやって形を起こすんですか?」
「採寸して、測った数字を紙に落とします。
でも数字だけではなくて、体に手を当てて、感触で確かめることも大事なんです」
「感触で……」
「体の丸みや癖は、数字には全部入らない。
手が感じるものがあります」
絹江は、型紙の上を走っている鉛筆の線を、じっと見た。
「これの引き方、教えてください」
「それはいいですけど、その前に聞かせてください。
絹江さんは、なぜ針子になりたいのですか?」
「まずは、家族のために稼ぎが必要で……」
と絹江は素直に言った。
「お金は、大事ですね。
私も昔は、お金のことで大変な目に遭いました」
「あ……、でも、それだけじゃなくて……!
母が布売りをしていて、小さい頃から布が好きで。
布を縫うと、もとの形じゃなくなる。
それが、ずっと不思議だと思っていました。
布が、服になる。
服になって、誰かの体に合う……」
「その不思議さが、好きですか?」
「はい。好きです。
だから、それを自在に仕立てるおヌイさんは、すごいなと思って見ていました。
そして、自分でもやってみたいと思ったんです」
「好きなだけでは、食べていけませんが、好きだからこそ続けられる部分はあると思います」
ヌイは絹江を見た。
クレアの言った“正直な目”というのが、わかった気がした。
嘘をつく気がない目だった。
そして、ヌイは作業台を手で示した。
「早速だけど、絹江さんの腕を見せてください。
これを縫ってみてくれますか?」
台の上には、一枚の白い布と糸を置いていた。
「わかりました。やってみます!」
絹江は針を手に取り、縫い始めた。
しばらく時間が経った。
完成したのはお世辞にも上手とは言えない、バラバラの針目だった。
「おヌイさん、私には才能がないのでしょうか?
私はここで、働けないのでしょうか?」
「そうですね……」
ヌイは、弟子を取るか悩んだ。
人を一人雇うというのは、それなりに経費のかかることだとは理解していた。




