34.和洋折衷、海を越え
明治五年の冬の朝。
ヌイは一人で仕事場にいた。
万博用のドレスの、最後の一針を縫い終えた。
ハンガーに掛け、一歩下がって、見た。
(ついに、完成した……)
薩摩の絹でできたドレスが、朝の光を受けていた。
見る角度によって違った色に見えるかのような艶感。
ドレスのシルエットに沿って流れている薩摩の絹は、その艶を波のように輝かせている。
ヌイの手で落とされた和裁の針目が、布地の奥から服に骨格を与えていた。
見る者の体を招くように、静かに、そこに立っていた。
クレアは起きてくるなり、完成したドレスに気がついた。彼女は長い時間、黙って見ていた。
「……何と言えばいいのかわからないわ」
とクレアはやっと言った。
「言葉は要りません」
「このドレスは、あなたが横浜に来てから縫ってきた全部が入っている」
「はい」
「夫に見せたかったわ……」
クレアの目が潤んでいた。
今日は泣いていないとは言わなかった。
その後、ワーグマンが来た。
ちょうど完成した翌日に現れるなんて、持っている男だとヌイは思った。
「素晴らしいドレスだ。スケッチしてもいいか?」
「今日は、ドレスを持っている手だけでなく、全体を描いてください」
「顔もか?」
「はい。
海の向こうへ行く前に、記録しておきたいので」
「珍しいな」
ワーグマンが帳面を開いた。
ヌイがドレスを持って、窓の前に立った。
薩摩の絹が光った。
ワーグマンの鉛筆が走った。
帳面に『YOKOHAMA NO NUI TO VIENNA』と書かれた。
◇
明治六年一月三十日。
冬の横浜の朝は冷えていた。
ヌイは一人で港へ行った。
この日、ヌイのドレスは、フランスの郵船によって横浜港から運び出される予定だ。
店を出る前に、慶一郎に「一緒に行きますか?」と言われたが「一人で見送りたい」と言った。
桟橋に、荷が積まれていた。
陶磁器、漆器、絹の反物――日本の工芸品が木箱に収められて、次々と船へ運ばれていた。
その中の一つに、ヌイのドレスが入っているはずだが、どの木箱かは、もうわからなかった。
船はとにかく大きかった。
この郵船は、ファーズ号という名前だそうだ。
あの船がヌイのドレスを乗せて、海を越えていく。
薩摩の絹が海を越えて、世界へ行く。
荷が積み終わった。ロープが外された。
船が、ゆっくりと動き始めた。
(行ってらっしゃい)
ヌイは声に出さなかった。心の中で言った。
(お父つぁんの故郷の絹が、お父つぁんの代わりに海を越えていく。
お父つぁんが行けなかった場所へ、お前が行ってきておくれ)
煙突から煙が上がった。汽笛が鳴った。
その音が、冬の横浜の空に響いた。
船が、港を離れていった。
海が広がった。
ヌイは船が見えなくなるまで、桟橋に立っていた。
潮の匂いがした。
薩摩の海と、横浜の海が――同じ匂いを持っていた。
惣兵衛が越えてきた海と、ヌイがドレスを届けた海が――同じ水で繋がっていた。
「行きました、お父つぁん」
今度は声に出した。
聞こえる人間は誰もいなかった。
でも、言わなければならなかった。
「薩摩の絹が、海の向こうへ行きました」
船はもう見えなかった。
ヌイは、惣兵衛の針刺しを握っていた。
それから振り返り、ヌイは歩き始めた。
石畳の感触が、足の裏から伝わってきた。
文久二年の春に初めて踏んだ石畳と、同じ感触だった。
◇
明治六年の二月が来た。
仕事もそろそろ終わりで、クレアと二人だけの時間だった。
「ヌイさん、久しぶりにあの話なんだけど……」
クレアが珍しく改まった顔をしていた。
「あの話ってなんですか?」
「自分の店を持つ、という話よ」
「それなら、あれからずっと頭の片隅にはありました。
でもなぜ、今なのですか?」
ヌイは針を置いた。
「私があの話をした後は、あなたは慶一郎さんのこともあって、それどころじゃなかったわよね。
万博のドレスも仕立て終わった今なら、改めて実現できると思ったのよ。
明治の世になって、陸蒸気が来た、ミシンが広まった。
――横浜が、日本が、急速に変わっている。
この変わっている時代に、あなたの仕立てがそのまま私の店の中にあることが、もったいなく感じるのよ」
「もったいないなんて……。
でも、私はクレアさんの所で働き続けたいという気持ちもあります。
だから、自分からこの話は切り出せませんでした」
「それはわかってるわ。
だからこそ、私から話したんだもの。
あなたは横浜を代表する針子として、自分の看板を持つべき時期に来ています。
私が保証人になります」
「クレアさんのそばを、離れたくないです」
「店を出すからって、必ずしも離れなければダメってわけじゃないわ。
場所はここの隣でも構わない。
でも、あなたの針目には、あなたの屋号が必要よ」
ヌイは窓の外を見た。
夜の石畳に、ランプが光っていた。
(横浜に来て十年か……)
「……クレアさん。私、屋号を一つだけ考えていました」
「どんな屋号かしら?」
「……“縫合”」
クレアがその言葉を繰り返した。
「“縫合”……」
「はい。お父つぁんが言っていました。
布を繋ぐ。人を繋ぐ。傷を繋ぐ。
――和と洋を縫い合わせる。
でもそれだけではなく、手縫いとミシンを繋ぎ合わせる場所、という意味もあります」
「手縫いとミシン……。
あなたがずっと考え続けてきたことね」
「はい。時代の進歩に合わせるものと、自分の信念を貫くもの。
それだけはずっと忘れずに“縫合”していきます」
「いい屋号ね」
「ありがとうございます」
◇
“縫合”の開店準備は、意外に速く進んだ。
場所は、ハーバート洋裁店の隣だった。
小さな一室で、窓が一つ。
でも南向きで、昼間は光が十分に入った。
カーリーが床を磨きに来てくれていた。
「ヌイ、開店は来週でしょ?
お客様が来ても恥ずかしくないようにしなきゃ!」
と言いながら、雑巾がけを何度もやった。
「カーリー、もう十分ですよ。
ありがとうございます」
「いいや、もう一回よ!」
「なぜそんなに熱心なんですか?」
「なんか、嬉しくて。
ヌイの店ができるのが、自分のことのように嬉しいの。
変かな……?」
「変ではありません。
……嬉しいです」
その時、“縫合”にワーグマンが来た。
今日は、通訳を介さず、ワーグマンが日本語で話した。
「横浜のヌイ。新しい店を出すと聞きま〜した」
「ワーグマンさん、おはようございます。
日本語、話せるようになったんですか?」
「少しで〜す。
それで、よかったら看板を描かせてくださ〜い」
「いいんですか!?
絵師の方に頼もうと思っていましたが、ワーグマンさんに描いていただけるなら、嬉しいです」
「私も、それなりの絵師で〜すよ。
それに、あなたのことを知っている人間が書くべきで〜す」
「そうですね。
ありがとうございます」
ヌイとカーリーが開店の準備をしている間、ワーグマンは看板を描いていた。
「看板、できま〜したよ」
「……素敵です」
ワーグマンが見せたのは、木製の板に『HOUGOU』と英語で書いたものと、『縫合』と日本語で書いたものが並んでいる看板だった。
そして、その下には――ヌイの手が描かれていた。
◇
開店の朝、ヌイは一人で早く起きた。
イトはまだ眠っていた。慶一郎も眠っていた。
「いよいよ、今日からね……」
一人で“縫合”の扉を開けた。
空気が入ってきた。
秋の横浜の、潮の混じった朝の空気。
棚には薩摩の絹が並んでいる。
横浜の問屋から仕入れた洋生地がある。
壁には、和裁と洋裁、両方が混在している型紙が貼ってある。
作業台の上には、惣兵衛の赤い布の針刺しが置いてある。
(お父つぁん。ついに、私の店ができました……)
出入り口の近くの棚には、小さな布切れが一枚置いてあった。
チエから、言葉なく送られてきた薩摩の絹の残りだ。
ヌイがその端切れに触れると、深い艶の感覚が手の平に伝わってきた。
(お義母様。私の仕事、見ていてください)
窓の外には、先週まで仕事をしていた、ハーバート洋裁店が見えた。
(クレアさん。私を横浜に呼んでくださって、ありがとうございました)
惣兵衛が繋いだ縁が、全て、ここに集まっていた。




