33.変えるものと変えないもの
「オカジョウキ……ってなんです? 慶一郎さん」
明治五年の秋。
ヌイはその日、仕事が休みだった慶一郎と、店で話をしていた。
「陸蒸気というのは、最先端の陸の移動手段です。
私もまだ見てはいませんが、とにかく速いらしいですよ!
いつか、長崎の実家まで、半日で行けてしまう日が来るかもしれません」
「本当に、文明の発展は恐ろしいほど速いのですね」
「ねえヌイ、一緒に見に行こう!」
とカーリーが言ってきた。
「ですが、まだ万博用のドレスが……」
万博の事を気にしていると、クレアがヌイを見た。
「ヌイさん、少しくらい羽を伸ばすことも大切よ。
そんなに期限が迫っているわけでもないし、カーリーと見にいってらっしゃい」
「クレアさん……。ありがとうございます。
ではカーリー、準備をするので少し待っていてください」
「やった! 早く陸蒸気が横浜に入ってくるの見たい!」
「それと、イトも連れていっていいですか?」
「もちろん!
見せてあげなよ、せっかくこんな素晴らしい時代に産まれてきたんだから!」
◇
秋の午後、三人で陸蒸気の駅まで歩いた。
ヌイがイトを抱っこして、カーリーが隣を歩いた。
「母ちゃん、どこ行くの?」
イトは二歳になって、少しずつ言葉を覚えていた。
「今から、とても速い乗り物を見に行きますよ」
「速いの! 楽しみ!」
「見て、ヌイ! あれが駅じゃない?」
カーリーが指差した建物の方から、人だかりが見えた。
居留地の外国人、横浜の日本人、行商の男、断髪した若い商人――身分も出身も関係なく、同じものを見ようとして集まっていた。
「たぶん、あの線路の上を走るんですよね?
なら、この辺りでちょうど見れそうです」
三人は、しばらく待った。
――すると、遠くから音が来た。
「来た来た!
ヌイ、イトちゃん、よ〜く見るのよ!」
最初は低い唸りだった。
地面が、かすかに揺れた。
「何? 怖いよ母ちゃん」
と、イトはヌイの肩にしがみついた。
「もう少ししたら見えますよ。
大丈夫。怖くありません」
煙が見えた。
白い煙が、秋の空に向かって真っ直ぐに上がっていた。
次の瞬間、黒い車体が線路の上を走ってきた。
音が全部変わった。
遠くから来ていた唸りが、轟音になった。
地面が揺れた。
空気が揺れた。
風が来た。
煙の匂いが来た。
人々がどよめいた。
大人が拍手をした。
子供が泣き出した。
「すっごい!」
と、カーリーは叫んだ。
イトは、ヌイの肩にさらに強くしがみついた。
「怖い、怖いよ母ちゃん」
と小さな声で言った。
「大丈夫。怖くないですよ」
とヌイは言いながらも、自分の背中も一瞬だけぞくっとしていた。
しかし、“恐怖”というのは正確ではなかった。
“恐怖”というより――“畏怖”だった。
陸蒸気は、あっという間に通り過ぎた。
煙が残った。匂いが残った。
地面の揺れが、少しずつ収まっていった。
「どうだった?」
とカーリーが聞いた。
ヌイは少しの間、答えられなかった。
「想像していたよりも、速かったです」
と、やっと言った。
「だよね! 私も驚いたよ!」
「……でも、速いというのが――これほどのことだとは思っていませんでした……」
「ねえ母ちゃん、もう行っちゃったの?」
イトは寂しそうにしていた。
陸蒸気が来て、行ってしまったという事実を整理しているようだった。
「行っちゃいましたね」
「また来るかな〜?」
「今日は何度か来るようですよ。
また見ますか?」
「見たい!」
「怖くないですか?」
「もう怖くない!」
「まったく、この子は……」
◇
結局、あの後もう一本の陸蒸気を見た。
帰り道、石畳を歩きながら、ヌイは考えていた。
速さ――という言葉を、今日初めて体で知った気がした。
ミシンも速い。鉄道も速い。時代が速くなっている。
でも――石畳は変わっていない。
ヌイの足の裏に伝わる石畳の感触は、横浜に来た文久二年の春と変わっていない。
潮の匂いも変わっていない。
イトの重さが腕にある感触は新しい発見だが、昔から変わらない人間の感覚だ。
速くなることと、変わらないことは――矛盾しない。
鉄道が走っても、石畳はそこにある。
ミシンで縫っても、布地の声はなくなるわけではない。
(ならば、私も変わらない)
そう思った。
変わらない信念を持ちながら、部分的には速くなることを選ぶ。
(それをどうを選ぶかは、職人が決めるんだ)
「ねえ、母ちゃん。イト、歩きたい」
「あら、歩くのはいいことですよ」
そして、イトを下ろした。
イトが石畳を自分の足で歩き始めた。
よちよちと、でも確かに。
(この子も、自分の足で歩くんだ……)
ヌイはイトの隣を、一歩ずつ歩いた。
◇
店に帰ると、慶一郎が待っていた。
「おかえり、ヌイさん。陸蒸気はどうでした?」
「それはもう、速かったです」
「それだけですか?」
「言葉では、それだけです。
でも――考えることがたくさんできました」
「たとえば?」
「ミシンのことです。
万博のドレスが仕立て終わったら、使ってみようと思います」
「ヌイさんも、ついに新しい道具を使うのですね」
「でも、全ての場所に使うわけではありません。
表に出る縫い目は、手縫い。
布地の声を聞く必要がある場所は、手縫い。
見えない直線の部分は――ミシンを使います」
「陸蒸気を見て、そう決めたのですか?」
「はい。速いものを見たら――自分が大切にしているものと、機械を利用すべきものの区別が、はっきりしました」
「あなたは、陸蒸気から仕立ての話に持っていくんですか……」
「何がきっかけで考えても、いいじゃないですか」
「それはそうですね」
夫婦で小さく笑った。
「父ちゃん!」
と言って、イトは慶一郎の膝に乗ろうとした。
慶一郎がイトを抱き上げながら、
「イトも、陸蒸気を見れたか?」
と聞いた。
「見た! 怖かったけど怖くなかった」
「ん? どっちだ?」
「最初は怖くて、次から怖くなかった!」
とイトが満足そうに言った。
ヌイは針を持った。
今夜の針目から、少し変わる。
変わらない信念を持ちながら、変えるものを選んで、変わっていく。
それが、職人というものだと、陸蒸気の駅で、決めた。




