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【奨励賞受賞】世界を縫う〜江戸時代の幕末に生きた女性和裁士の生き様を描く物語〜  作者: 真星 紗夜(毎日投稿)


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32.ウィーン万博


 年は明け、明治五年一月。

 この日、久しぶりにワーグマンが店に来た。

 通訳は慶一郎がしてくれた。


「横浜のヌイ、元気にやっているか?」


「いらっしゃいませ、ワーグマンさん。

 今日はどうされたんですか?」


「このニュースを聞いたか?

 なんでも、太政官(だじょうかん)布告によって日本のウィーン万国博覧会への参加が決まったそうだ」


「万国博覧会……」


 その言葉を聞いて、龍馬が言っていたことを思い出した。


『世界の文化が一点に集中する――それが万博ぜよ』

 

「坂本さんが言っていた……。

 その万博に、日本が参加するのですか?」


「ああ、そうだ。

 これから、各府県に出品物の選定と収集が通達されると聞いている。

 オーストリアの皇帝の治世(ちせい)を記念して開かれる万博だ、日本を代表する逸品が選ばれるだろう」


「日本の代表……、その言葉も坂本さんが言っていました」


「日本の技術を海の向こうへ持っていく機会だ。

 横浜のヌイ、あなたの仕立てを世界に見せるべきだと思う」


「私の仕立てを……、世界に?」


「和洋折衷のドレスは、横浜のヌイにしかできない技術だ。

 日本人の針子が西洋のドレスを和裁の技術で縫う――そういうものを、ウィーンの人間はまだ見ていない」


 ヌイは黙った。


(海の向こうへ、届ける……)


 惣兵衛の遺言が蘇った。


『お前の針で、日本と外国を繋ぐんじゃ――世界を縫え……』


「わかりました、ワーグマンさん。

 私、やってみせます……!

 どこへ申し込めばよいのですか?」


「それなら、慶一郎の方が詳しい。

 政府の翻訳の仕事もしている慶一郎なら、博覧会事務局の動きも知っているだろう?」


 慶一郎は、一度咳払いをしてから答えた。


「ええ。では、ここからは私がヌイさんのお手伝いをします。

 まず、工芸品として横浜の事務局に申請すると、審査が始まります」


「審査で落ちることもありますか?」


「もちろん、あります。

 でも、あなたの仕立てなら、通ると思います」


「なぜ?」


「誰にも作れないものだから」


 慶一郎がそれだけ言って、あとは何も言わなかった。

 続きを言わないのが慶一郎だった。

 でもその「誰にも作れないもの」という一言は、ヌイの胸に針のように刺さった。


「私、申請用のドレスを仕立て上げてみせます。

 ワーグマンさん、この機会は絶対に逃しません……!」


「それでこそ、横浜のヌイだ」


 この瞬間、惣兵衛の遺言を果たす道筋が、はっきりと見えた気がした。


 ◇

 

 ワーグマンと慶一郎が帰り、クレアと二人になった。


「クレアさん。さっきの話、聞いていましたか?」


「ええ。聞こえていたわ。

 挑戦してみなさい。

 店主として、母として、あなたを全力で応援するわ」


「ありがとうございます。

 でも、本物の一着を作らなければなりません。

 今ある仕立てを出すのではなく、万博のための一着を」


「なら時間はあまりないわね。

 今からでも動きなさい」


「今からですか?」


「今からです。

 もう決断しているでしょう?

 ならもう悩まなくていい。進むだけよ」


「はい!」


 ヌイは早速準備を始めようと思ったが、問題は、何を縫うか、だった。


 ウィーンに届ける一着。

 海の向こうの、見たことも会ったこともない人間に、最初に届く一着。

 その人間の体に合わせることはできない。

 採寸もできない。仮縫いもできない。


 それが、今まで一度もやったことのない仕立て方だった。


 ヌイはこれまで、必ず体のある人間のために縫ってきた。

 フロスト夫人の体があった。

 蓮尾の体があった。

 その体の癖を手で読んで、その人のための一着を作った。


 でも今回は――体がない。


「クレアさん、聞きたいことがあります。

 体がないのに、服を縫うことができますか?」


「展示品というのは、そういうものよ」


「では、展示品に意味はありますか?」


「機能性、としての意味はないわ。

 でも、あなたの服がここまで好まれている理由って、機能性だけだったかしら?」


「……どういう意味ですか?」


「着心地はその人だけのものでも、見た目は周りの人にも届いて評判になる。

 つまり展示品は、その服を見た人間全員に届く」


 ヌイは考えた。


(体がなければ縫えないわけではない。

 目に届ける服というものがあったっていいのかもしれない。

 何万人もの目に届く、一着が……)


 それはどんな服か。

 どんな形で、どんな素材で、何を見せる服か。


 ヌイは、型紙を引き始めた。


 ◇


 最初の型紙は、今まで縫ってきたドレスを踏まえた設計だった。


 引き終えてから、見た。

 悪くない。

 でもこれは“今まで縫ってきたドレスの延長”でしかなかった。

 万博に出すためではなく、居留地の誰かのために縫ってきたものと、根本が変わっていない。


 破った。


 二枚目は、シルエットを極限まで一般化して、誰が見ても自分が着ているような感覚になれるドレスを目指した。

 引き終えてからイトに見せると、「綺麗! でも、楽しくな〜い!」と言った。

 一歳半の子供の言葉が、正しいと感じた。


 破った。


 三枚目、四枚目、五枚目――引いては破り、引いては破った。

 ここまでで、一ヶ月以上が経過していた。


 六枚目を破ろうとして、手が止まった。

 その線を見ると、いつもと違う感覚があった。

 でも何が違うのか、言葉にならなかった。

 破るのをやめて、型紙をそのまま壁に貼って、その日は終えた。


 ◇


 明くる日も明くる日も、その型紙を見た。

 そうして一週間が経った頃、ようやく言葉になった。


(この線は、体の声を聞いた線ではなく、布地の声を聞いた線だ。

 布地が、自然な声を上げられる……)


 体がない時、聞くべき声が変わる。

 体の声ではなく、布地の声を聞いて型紙を引く。

 体に合わせるのではなく、布地が一番美しくなる形を先に決めて、人の体がそこへ入っていく設計。

 和から洋へと技術を学んできたヌイが、再び和の原点へと帰る――逆転の発想だった。


 ◇


 素材は最初から決まっていた。


 薩摩の絹。


 他のものは考えなかった。

 これだけは揺らがなかった。

 惣兵衛の故郷の絹で縫う。

 薩英戦争で焼けた浜が、また蚕を育て始めていた。

 錦江湾の近くで生まれた惣兵衛が愛した絹が、横浜でヌイの手に届いていた。

 それをウィーンへ持っていく。


 それから毎日、問屋に出向いて、今季の薩摩の絹を触れ続けた。

 そんなある日、一反だけ――光り方が違うものがあった。


「ご主人、これを頂けますか?」


「さすがはおヌイさん。目がいいですね。

 その一反は今季の一番です。ちと値が張りますが」


「いくらですか?」


 値段は、今持っている全財産のほぼ半分だった。

 だが、躊躇(ちゅうちょ)せずに買った。


 ◇


 翌日、作業に入った。


 型紙を広げた。

 今朝から何度も確かめた型紙だ。

 裁断は、一発勝負。

 鋏を入れる前に、深く息を吸った。


 縫い始めると、時間が消えた。

 一針ごとに布地の声を聞いた。

 今日の薩摩の絹は、普段聞いていた声と少し違った。

 もっと深いところから声がした。

 布地が「こう引いてくれ」「ここは緩めてくれ」と言っていた。

 ヌイはただ、その声に従った。


 体がない服を縫っているはずなのに、布地に体が宿っていく感覚があった。


 作業はまだ、始まったばかりだった。

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