30.鉄の針目
明治も四年目に入ると、街の音が変わった。
居留地の石畳を行き交う足音の中に、日本人の革靴の音が混じっていた。
明治という時代は、毎年何かが新しくなって、去年のものはもう古くなっていた。
イトの成長を見ていると、余計あっという間に時が流れていった。
よちよちと仕事場を歩き回り、棚の布地に手を伸ばす。
「イト、それは触ってはいけませんよ」
と言うと、振り返ってにこりとする。
笑い方が慶一郎に似ていた。
(この子は、父親そっくりね)
と思いながら、イトを抱き上げて、布の端切れをひとつ持たせた。
「遊んでもいいのは、これだけですよ」
と言うと、イトが端切れを握って、満足そうに床に座った。
仕事場に子供がいる、それが当たり前になっていた。
「ヌイさん、イトちゃん、おはよう」
「クレアさん、おはようございます。
今日はゆっくりなんですね」
「まあねぇ。
近くに新しい洋裁店ができてから、依頼は減ってるもの」
「あの洋裁店、最近、お客さんの回りがいいですよね」
「確かに、午前中に店に入った客が、夕方にはもう仕立て上がった服を持ち帰っているわ。
どうしてそんなに急に手際がよくなったのかしら?」
すると、答えはカーリーが持ってきた。
「おはようございます!
あそこの洋裁店の話ですか?
こないだ、こっそり偵察してきたんですけど、なんとミシンを導入してたみたいなのよ。しかも三台も!」
ミシン――機械縫いの道具。
出産の時に着た服も、ミシンで縫われていた。
「ミシンって、どのくらい速く縫えるんですか?」
とヌイは聞いた。
「聞いた話だと、職人が一日で縫う量を一時間で出来るって!
それに、速いからこそ安く仕立て上げられるみたい」
「速くて、安い……」
「そう。ヌイの半分くらいの値段で、同じドレスが作れるって!」
ヌイは針を持ったまま、しばらく考えた。
(半分の値段で、同じドレスが……)
「……私、ちょっと見に行ってみます」
「ヌイも偵察?」
「はい。知らないまま考えても、仕方がないので」
◇
「ハーバート洋裁店のおヌイさんだろ?
俺はあなたの仕立てに惚れて、自分でもやってみたくなったんだ。
何かの参考になるなら、こっちとしても嬉しいよ」
主人に事情を話すと、意外にも快く受け入れてくれた。
「ミシン、見てもいいですか?」
「もちろんだよ、おヌイさん」
と言って、奥へ案内してくれた。
そこには、足踏みミシンが三台並んでいた。
黒い鉄の本体に、金の装飾が施されている。
木製の台に載り、両側に引き出しがついていた。
手前に板状の踏み台があって、それを足で踏むと上の機械が動く仕組みだった。
「さあ、遠慮なく使ってみてよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
一礼してから、椅子に座った。
踏み台に両足を乗せると、上下し始めた。
足で踏むリズムが合った瞬間、ミシンが動き出した。
(針が、落ちた……)
上から下へ、一定の速さで。
ヌイが踏む速さに合わせて、針が落ち続ける。
大きな音と共に、どんどん速くなった。
上糸が針を通して布を貫き、布の下に待つ下糸のボビンと絡み合って縫い目を作る。
ミシン針が上に戻った際に、送り歯が布をわずかにずらし、また針が落ちる。
この動作を機械が連続して行う。
(こんなに速く縫えるものなの……)
一分間に、何針落ちているかわからないくらい速かった。
しかも、縫い目が均一に、走っていく。
ヌイが目を細めた。
(乱れていない。
間隔が、どの針も同じ幅だ)
踏むのを止め、縫い目を手で触れた。
糸の引き具合が、どの箇所も同じだった。
(縫い目が綺麗……。
だけど、“綺麗過ぎる”気がする……)
それが、何か違う気がした。
◇
「ミシン、見せていただいて、ありがとうございました」
「またいつでも遊びにおいでよ。おヌイさん」
店を出て、石畳を歩きながら考えた。
(手縫いとは、何が違うんだろう……?)
速さが違う、というのはわかる。
均一さが違う、というのもわかる。
でも、何か別のことが、違う。
◇
夕方、イトを抱っこしながら、ヌイは考え続けた。
イトが眠ったのを確かめてから、仕事場に戻って自分の針を持った。
(ミシンとの違い……、一体なんなのだろう……)
布を縫い始めた。
一針一針、引き具合を確かめる。
布が固くなった時は、少し緩める。
やわらかくなったら、少し締める。
曲線に差しかかると、針目の間隔をわずかに広げる。
直線に戻ると、また詰める。
その全部を、手が感じながらやっている。
その時、惣兵衛の言葉が来た。
『布地の声を聞け』
(わかった……!
ミシンには、それがない)
送り歯が一定間隔で布を送るから、針目の間隔は常に均一になってしまう。
布が固かろうと柔らかかろうと、カーブがあろうとなかろうと、同じ間隔で針が落ちる。
糸の引き具合を変える手が――ない。
(ミシンで縫う時の、あの大きな音が、布地の声を掻き消してしまうんだ……)
聞かなくても、縫い目は作れる。
速く、均一に、量を作れる。
でも、ヌイが縫っているのは、布地の声を聞いた縫い目だった。
◇
翌朝、クレアに話した。
「うちの店も、ミシンを導入しますか?」
「そうねぇ、ヌイさんはどう思う?」
とクレアが逆に聞いてきた。
「昨日、実際にミシンを使ってきました。
……速かった。
手縫いの二倍、三倍どころの速さではありませんでした」
クレアは、真剣に聞いてくれた。
「ですが、ミシンでは、布地の声が聞こえませんでした。
手縫いは一針ごとに布の緊張を感じて、糸の引き具合を調節できます。
でもミシンは、布地の声を無視して一定間隔で落ち続ける。
体の声を聞いた縫い目の変化が、できない」
「そう。それが欠点だということ?」
「いえ、一概に欠点とは言えません。
ミシンが生み出す均一さは、確かに美点です。
私が感じているのは、私が父から受け継いできた仕立て方との、相性の問題です」
「では、やはりミシンは使わない、ということ?」
「いえ、それも違います。
使い分けが大事になってくるんだと思います。
でも、何をミシンで縫い、何を手で縫うか……、それはまだ考えています」
「あなたの考え、よくわかったわ。急がなくていい。
あなたがミシンを使い始めたとしても、あなたの仕立てはあなたのものよ。
道具が変わっても、職人は変わらない。
でも――」
「でも?」
「使い分けを間違えれば、あなたの良さが消える。
つまり、お父様から受け継いだ技術が失われる。
それだけは忘れないで」
「肝に銘じます」
◇
その夜、ヌイは独り言のように書き付けをした。
布きれの裏に、鉛筆で書いた。
『ミシンができること――直線縫い。
一定間隔の均一な縫い目。速い。量を作れる。
ミシンができないこと――布地の緊張を感じながら糸の引き具合を変えること。
体のカーブに合わせて針目の間隔を微妙に変えること』
書いてから、止まった。
(私の仕立ての核心は――布地の声を聞きながら針を動かすこと。
それはミシンには譲れない。
でも、見えない裏側の直線縫いまで手でやる必要があるかどうか……)
書きかけで止まった。
イトが眠りながら寝返りをうった。
ヌイはそちらを見て、それからまた書き付けに戻った。
(使い分け……。
表の縫い目や、体の動きが出る部分――布地の声を聞く必要がある場所は手縫い。
見えない直線の部分は――ミシンを使えるかもしれない)
でも今は、まだ答えが出なかった。




