29.出産
明治三年の初夏。
朝日が昇る頃、ヌイは型紙の修正をしていた。
「う……、お腹が……」
腹部を鈍器で殴られるような痛みに襲われた。
(これが、陣痛ってやつかな……)
ヌイは慌ててお産の教科書を読んだ。
『そろそろ生まれるころになり、腹が痛んだとしても慌てる必要はない。
気を落ち着けて陣痛か冷えによる痛みか、よく考えてから産婆を呼ぶべし』
ヌイは型紙に針を一本立てたまま、痛みの間隔を計った。
(三十分に一度、来る。まだ大丈夫)
そう思って、仕事の続きをした。
しばらく仕事を続けていると、次の波が来た。
痛みは少し強くなっていた。
(間違いない、これは陣痛だ……)
そう確かめてから、クレアを呼びにいった。
「クレアさん、陣痛がひどいです……」
「つらそうね……。
ちょっと待ってて、産婆さんを呼んでくるわ」
クレアが店の扉を開けた時、ちょうどカーリーが来た。
「あら、カーリーおはよう。
ちょうどいいところに来たわね。
今、ヌイさんの陣痛が激しくなってきたから産婆さんを呼びに行くところだったのよ。
カーリーはヌイさんに付き添ってあげてちょうだい」
「わかりました! ミセス・クレア!
ねえ、ヌイ。さっき外で、慶一郎さんを見かけたんだけど、呼んできた方がいい?」
「ごめん、カーリー。
日本の習わしでは、出産に男性は基本的に立ち入り禁止なんです」
「そうだったの……、少し寂しい感じもするね。
わかった。じゃあ慶一郎さんが立ち寄りそうだったら、私が外に出て、そう伝えるね!」
「ありがとう……ございます」
この時、ヌイの腹部の痛みは限界を迎えていた。
「あれ? 慶一郎さん、早速こっちに向かってきたみたい。
外で待つように言ってくるね」
カーリーが外へ出ると同時に、産婆のお里という女性が来た。
五十がらみの、骨太な体つきで、手が大きかった。
落ち着いた足取りで店内に入り、まず室内を確認した。
たらいの準備。白い晒木綿。清潔な敷き物。
「よろしゅう整えてありますね。
出産は何度目ですかい?」
「今回が、初めてです」
「そんですかい。
しっかり勉強なされたんですね」
と言いながら、手早く追加の道具を並べていた。
「そんでは、妊婦さんは、これにお着替えください」
(これは……)
お里が差し出した服の素材は、お世辞にも質がいいとは言えなかった。
しかし、素材に対して、縫い目が綺麗過ぎた。
一針、一針が完璧に等間隔で並んでおり、それでいて非常に細かい。
「お里さん、この服って、誰が仕立てたのですか?」
「この服は、汚れてもいい安い輸入品だんね」
「これが……、安いんですか……?
こんなに綺麗に縫える人、相当な腕だと思いますが」
「ああ、それはきっと“ミシン”っつー機械で縫ってあるだんね。
とにかく、速く正確に縫いあげるらしいですよ」
「ミシン……」
「話は後で。とっとと着替えなさいな」
ヌイはお里に言われるまま、着替えた。
しばらくすると、さらに陣痛が強くなった。
「お里さん、横になってもいいですか?」
「横になっては駄目です。
座るかしゃがむ体勢でいてくださいな。
横になると頭に血が上るんすよ」
「わかりました」
ヌイは座産の体勢を取った。
柱に張り渡した縄を両手で掴んで、痛みの波が来るたびに歯を食いしばった。
また、出産時に声を出すことは恥とされていたが、どうしても声が出そうになる。
(薩摩の血を引く女の端くれとして、絶対に声は出さない……!)
という意地が、不思議にヌイを支えていた。
クレアとカーリーは、横にいてくれた。
「ヌイさん、痛みが来たら教えなさい」
「わかりました」
ヌイが歯を食いしばるたびに、クレアとカーリーが背中を優しく押さえてくれた。
西洋式の出産で、女性が横になることを知っているクレアにとって、座産の体勢は馴染みがなかった。
でも、日本の習わしに黙って従うのが、クレアの横浜での生き方だった。
◇
ヌイの初めての出産は難産だった。
陣痛が始まってから、七時間が過ぎた。
ヌイの体力が落ちていた。
痛みで目がくらんだ。
お産の教科書に書いてあったことを思い出した。
『目がくらんで人の顔の区別もできないほどの痛みを我慢しなくては、子を産むことはできない。
そう覚悟するものだ』
まさにその通りだった。
クレアとカーリーが「大丈夫よ、ヌイ」と言い続けた。
声が揺れていた。
揺れているのに、落ち着いている声だった。
「妊婦さん、もう少しですよ。お体の力を、下に」
お里の静かで確かな声が聞こえた。
経験を積んだ人間の声だった。
ヌイは柱の縄を握り直した。
「んんっ……っ!」
(針を持つ手だ。この手は、ここにある)
針を持つように、力を込めた。
そして――声が聞こえた。
小さな声だった。
細く、でも確かに――外の空気を、その小さな肺でいっぱい吸い込んで、押し出した声だった。
「可愛い女の子ですんよ」
お里が言った。
ヌイは崩れるように、お里に支えられながら横になった。
全身から力が抜けた。
涙が出た。出ていることに気づかなかった。
お里が、赤子をヌイに渡した。
重かった。
想像していたより、ずっと重かった。
(新しい命の、重さ……)
顔は赤く、目は閉じていた。
小さな手が、ヌイの着物の端をかすかに掴んだ。
(ここに、私たちの子がいる)
クレアが傍に来て、
「可愛い子ね」
とだけ言った。
その声には、涙があった。
クレアが泣いているのを、ヌイは初めて見た。
「クレアさん……」
「大丈夫。嬉しいの。本当に、嬉しいだけ……」
しばらくして、慶一郎が入ってきた。
「ヌイさん、よく頑張りましたね。
元気な赤子の声、聞こえてましたよ」
七時間、外にいた。
着物がよれていた。
目の下に影があった。
それでも入ってきた足取りは、静かで確かだった。
慶一郎がヌイの傍に膝をついた。
赤子を見た。ただ見ていた。
長い時間、見ていた。
「……生まれましたね」
「はい」
とヌイは答えた。
「無事でよかった」
「はい」
慶一郎が赤子を見たまま、
「名前を、考えてもいいですか?」
と言った。
「ええ。あなたが決めてください」
とヌイは言った。
「珍しいですね、ヌイさんが私に任せるのは」
「今日だけです」
「今日だけ、ですか」
そんなやり取りを聞いて、みんなはくすくすと笑った。
慶一郎は、しばらく考えた。
首を傾げ、時には唸り、考えていた。
「……イトは、どうでしょう?」
「糸?」
「縫い針があっても、糸がなければ縫えない。
あなたは針だから、この子は糸で」
ヌイは赤子を見た。
まだ目の開かない、小さな顔。
糸のように細い指。
(縫い針と糸……)
二つが揃って、初めて縫える。
縫い物の縫から、糸が生まれた。
「神代イト……」
とヌイが言った。
声に出して、確かめた。
「……いい名前です」
「気に入りましたか?」
「はい。お父つぁんが聞いたら、喜ぶと思います」
「きっと、どこかで見守っておられます。
私も、長崎の家に伝えます」
しばらくの沈黙の後、お里が言った。
「七日間は横になられてはなりません。
お食事はお粥と鰹節でございます」
「ヌイさんは七日間、横になれないんですか?」
とクレアが聞いた。
「はい、頭に血が上るといけないので」
「……それは体に悪いんじゃないかしら」
「そういう習わしなのです」
クレアが複雑な顔をした。
「わかった。日本の習わしに従うわ。
食事とかのお世話は、私に任せてちょうだい」
「私も手伝う!」
とカーリーも言ってくれた。
「二人とも、ありがとうございます」
とヌイは言って、座ったままイトを抱いた。
七日間、横になれない。
座り続けなければならない。
体は痛み、疲れてきっている。
――でも、手の中に、イトがいる。
それで今は、十分だった。
◇
七日目の夜、ようやく横になれた。
久しぶりに体を伸ばした瞬間、骨が鳴った。
(一週間、長かった……)
傍ではイトが眠っていた。
小さく息をしていた。
ヌイは眠る前に、天井を見た。
(お父つぁん。イトが生まれました。
縫い物の縫から、糸が……。
繋がっています。全部、繋がっています)
目を閉じた。
横浜の夏の夜が、静かに続いていた。




