28.妊娠
ヌイの体に変化が来たのは、明治二年の秋も深まった頃だった。
(うぅ……、なんだか気持ち悪い……)
最初は気のせいだと思った。
朝、起き上がる時に気分が悪い。
食べ物の匂いに、不快感がある。
作業台に向かう途中、クレアと目があった。
「ヌイさん、体調悪そうよ?」
「おはようございます、クレアさん。
なんだか最近、ずっとこんな調子なんです」
「それなら、医者に行った方がいいわね」
「いえ、大丈夫です。
明日までに仕立てなきゃいけないスーツがあるので……」
「大丈夫かどうかを確かめるのが医者よ。
とにかく、今は仕事禁止よ」
「わかりました」
「付き添い、しようか?」
「いえ、そこまでではありませんので、一人で行けます」
「何かあったら、周りを頼るのよ」
ヌイはおぼつかない足取りで医者のところへ向かった。
◇
近所の診療所から帰る道、石畳に秋の光が落ちていた。
医者から言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
『妊娠していますね』
(私にも、子ができた。
慶一郎さんとの、子が……)
喜びと不安があった。
どちらかが先ではなく、喜びと不安が同時だった。
どちらが大きいか、それもすぐにはわからなかった。
(針を持ち続けられるだろうか……)
そう思った時、自分でも少し意外だった。
でも、正直な問いだと思った。
◇
「ただいま戻りました」
「おかえり。どうだった?
さっきよりは顔色良く見えるけど……」
「クレアさん。驚かないで聞いてください。
私……、妊娠していました」
クレアが黙った。
それから、立ち上がって、ヌイを抱きしめた。
「ちょ、クレアさん!?」
ヌイは驚いた。
クレアが誰かを抱きしめるのを、見たことがなかった。
華奢な腕が、ヌイの背中に回っていた。
「おめでとう! 本当におめでとう!」
「クレアさん……。
そんなに嬉しいんですか?」
「そりゃ、私にとって孫ができたようなものだもの!
あなたには、元気な子を産んでほしいわ」
「こんなに喜んでくれるとは思っていなかったので、意外でした。
でも、ありがとうございます」
クレアは、少しだけ目元を押さえた。
ヌイも笑いながら、もらい泣きしそうになった。
◇
その夜。
いつも通り、慶一郎は店に寄っていた。
「慶一郎さん。一つ、お話があります」
「改まって、なんでしょう?」
と慶一郎が椅子に座った。
ヌイは少し間を置いた。
「実は私、子ができました」
慶一郎が固まった。
二秒、三秒――静止した後、
「……本当ですか!?」
と言った。
「はい、今日、診療所に行って確かめましたので」
「そっか……」
今度は違う種類の静止だった。
何かを受け止めているような感じだった。
「本当に……よかった」
と、やっと言った。
「よかったです。
でも、産んでも針は置きません。
それだけは言っておきます」
慶一郎が少し驚いた顔をした。
「……わかりました。
あなたが針を置いたら、あなたでなくなります。
子供と一緒に縫い物をしている姿を、見せてください」
ヌイは慶一郎を見た。
慶一郎は少し照れたように目をそらした。
「子供が縫い物に興味なかったら、どうしましょ?」
「その時は、私が外国語を教えます」
二人で顔をほころばせた。
感謝というより、確かめた、という気持ちだった。
この人は、私のことをわかってくれている、そう思えた。
◇
それから五か月が過ぎ、ヌイのお腹はすっかり大きくなっていた。
「クレアさん、仕事で余った布などはありませんか?」
「余った布なんて、何に使うの?」
「日本では、“帯祝い”というものがあって、安産を願うために腹帯を巻くんです。
妊娠五か月目の戌の日に、腹帯を巻いて安産を願うのが習わしなんです」
と説明した。
「腹帯って?」
「妊婦のお腹に晒を巻きます。
お腹を支えて、冷えも防げるんです。
戌の日に合わせて行うのが習慣なんです」
「なんで戌の日?」
「犬はお産が軽く、たくさん子を産むので、その安産にあやかってるんだと思います」
「なるほど。面白い発想ね」
「腹帯は母に用意してもらうのが習わしなのですが、義母は長崎なので、自分で用意しようと思って」
「そういう習わしなのね。
それなら、私が用意するわ。
私にとって、あなたは娘だもの」
「クレアさん……。
ありがとうございます」
◇
クレアが用意したのは、薩摩の絹でできた長さ五尺ほどの白い晒だった。
「いいんですか?
これ……、薩摩の絹じゃ……?」
「私からのお祝いの気持ちよ。
惣兵衛さんも見守ってくれてると思って、頑張りなさい」
「ありがとうございます……!」
「綺麗に巻くには、もう一人必要ね。
カーリーに手伝ってもらいましょう。
カーリー! 今、手空いてるかしら?」
「はーい! 今行きます!」
カーリーはすぐに駆けつけてくれた。
「わぁ……、いつの間にか、お腹こんなに大きくなってたんだね!」
と、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
「じゃあ、巻いていくわね」
クレアとカーリーがヌイのお腹に晒をゆっくりと巻き始めた。
三人で小さく笑いながら、慎重に。
腹帯が巻き終わると、ヌイのお腹が白く丸く包まれた。
「綺麗……」
とカーリーが言った。
「そういうものでもないと思いますけど……」
「でも、カーリーの言いたいこともわかるわ。
本当に美しいわよ。
ヌイさんと赤ちゃんが一緒にいるみたいで……」
ヌイはお腹に手を当てた。
腹帯越しに、子の温もりを感じた。
◇
それからの日々は、針と共に過ごした。
体が変わっていく中でも、針を持った。
お腹が大きくなるにつれて、仕事の姿勢を変えた。
作業台の位置を調整した。
ある日、仕事の途中に子が動いた。
初めて感じた、内側からの動き。
蹴るというより、押す感じだった。
布越しに触れるような、かすかな圧力。
ヌイは針を止めた。
お腹に手を当てた。
(いる……。子が、ここにいる)
という実感が、初めて来た。
(私と慶一郎さんが縫い合わさって、できた赤ちゃんが……)
目が潤んだ。
ヌイの中で、何かが変わった瞬間だった。




