26.挙式
それから二日後。
雲ひとつない、綺麗な秋晴れだった。
ヌイと慶一郎は、小さい式を挙げた。
ハーバート洋裁店の前の石畳。
前日に掃除をしたカーリーが「石畳って磨くと光るのね」と言っていた。
海舟が来た。
「こういう場に出るのは得意じゃないが、来ないわけにはいかんな」
と言いながら煙管を懐にしまった。
ワーグマンが来て、すぐにスケッチを始めた。
「横浜のヌイも、ついにご結婚ですか。
式の様子はしっかり描くので、安心してください」
「顔は描かないでくださいね」
といつものようにヌイが言うと
「わかってる、今日も手を描きます」
と笑いながら言った。
チエと定助の姿もあった。
定助が「遠くから来た甲斐があった」と言った。
チエは何も言わなかったが、ヌイが着ている着物を、一度だけ直してくれた。
その手が温かかった。
「ありがとうございます」
「こういう時は、ちゃんとしなさい」
とだけ言った。
でもその声は、初めて会った時とは、違っていた。
◇
式の後、海舟から手紙を受け取った。
「勝様、この手紙は……?」
「これは昨日、龍馬から預かった手紙じゃ。
あいつは今日は忙しいみたいで、式に行けない代わりに渡してくれ、と頼まれた。
夫婦で読むといい」
「ありがとうございます」
慶一郎が読んで聞かせてくれた。
『勝先生から聞いたぞ。
母親が折れたか、なかなかのもんじゃな。
お針子さんの腕が説得したと聞いて、わしは鼻が高い。
腕を見せろ、言葉じゃないと言うた通りじゃろう。
二人して、いい夫婦になれ。
世の中が変わっても、針と言葉は要る。
それだけは変わらんぜよ。
坂本龍馬』
慶一郎は文を畳んだ。
「慶一郎さん。その文は、大事に取っておいてください。
あの方は、長くない気がします。
――直感ですが」
「……なぜそう思うんですか?」
「動き方が、急いでいる人間の動き方でした。
急いでいる人間は、少し怖いです」
慶一郎が文を懐にしまった。
◇
その夜、一人になってからヌイは道具箱を開けた。
惣兵衛の針刺しを取り出した。
(お父つぁん。私、名前が変わりました。
今日からは、神代ヌイとして生きます)
苗字のない和裁士が一生かけて使い続けた、赤い布の針刺し。
(名前が変わっても、私の仕事は変わりません)
ヌイは針刺しを胸に当てた。
チエが着物を直してくれた手の感覚が、まだ残っていた。
◇
翌朝、作業台に向かうと、すでにクレアがいた。
「おはよう。名前変わったけど、どう?」
「少し、不思議な感じがします」
「そう?」
「ただのヌイでも、神代ヌイでも、変わらないはずなのに。
変わっていないはずなのに――何かが変わった気がして。
でも何が変わってしまったのか、うまく言えません」
「名前というのはそういうものかもしれないわね。
でも、変わっても変わらなくても、あなたは私の家族です」
「クレアさんは、旦那様にはどう呼ばれていましたか?」
「普通に、クレアと呼ばれていたわ。
それがどうしたの?」
「結婚しても、変わりませんか……」
「どうしたの?
もしかして、慶一郎さんに、何か特別な呼び方でもしてほしいのかしら?」
クレアは笑った。
「別に、そういうわけではないです!
でも、名前が変わっても、呼ばれ方が変わっても、私の針目だけは、変えないようにしようと思いまして」
「そうね。
変わるものも、変わらないものも、大事にしないといけないわね」
◇
午後からは、ワーグマンが店に来た。
「昨日はご結婚おめでとうございました。
これからは、“横浜のヌイ”と“神代ヌイ”どちらの名前で呼べばいいのだ?」
「どちらも私です。
お好きに呼んでください」
「ならば、私はずっと“横浜のヌイ”と呼ぶ。
そちらの方が、あなたらしい。
苗字を持つと、何か変わるか?」
「うまく言葉にできませんが、何かは確実に変わりました。
でも、私の仕事だけは変えないようにするつもりです。
ただ、苗字というのは思ったより重いものだと知りました」
「重い、か……。
それでも、夫婦で同じ重さを持てば、少し、軽くならないか?」
「なるかもしれないですね」
ヌイとワーグマンは笑った。
◇
その年の十一月、龍馬が死んだという報が届いた。
京都の近江屋で、刺客に斬られたと。
慶一郎は港の方を、長いこと見ていた。
ヌイも傍に行って座った。
何も言わずに、ただ傍にいた。
慶一郎がやがて、
「坂本さんは、世界を縫い合わせようとしていた人でした。
薩摩と長州を、武士と平民を、日本と外国を。
ずっと、縫い合わせることを考えていた」
と言った。
「私も、あの方のように生きたいと思っていました」
「ヌイさんもですか。
私もです。坂本さんは、偉大でした」
「でも、私からしたら、慶一郎さんも凄いと思います。
だって、言葉で世界を縫い合わせているじゃないですか」
「言葉で、世界を、ですか」
「坂本さんは志で縫い合わせようとした。
慶一郎さんは言葉で……」
「父上は、ヌイさんの針も同じことだと言っていました。
いつかヌイさんの針仕事も、世界を縫い合わせるはずです。
方法は三者三様で違うかもしれませんが、その違いは重要ではありません」
「私たち、坂本さんの生き様を、忘れないようにしないといけませんね」
二人の間に、力強い風が通り抜けた。
夜の港が、いつもと変わらない潮の匂いを取り戻した。




