25.職人の腕
そして、慶応三年の晩秋。
定助とチエが乗った船が横浜に着いた。
「両親は私が迎えに行きます」
と言って、慶一郎が出迎えに行った。
「お願いします」
ヌイは店で待った。緊張していた。
緊張しているということを認めた上で、針を動かした。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。
慶一郎が戻ってきた時、後ろに女性がいた。
すぐに、慶一郎の母だとわかった。
背が高く、姿勢が真っ直ぐだった。
年は五十代後半か。
髪の毛は白髪が混じっていたが、綺麗に結い上げており、とても上品に見えた。
着物の合わせもきちんとしていた。
一番印象的なのは、鋭い目だった。
品はあるが、温かくはない。
ヌイを試しているような目だった。
定助も店に入り、椅子に座った。
体はまだ本調子ではないが、目は真っ直ぐだった。
ヌイは立ち上がって、深く頭を下げた。
「ヌイと申します。お会いできて光栄です」
チエは何も言わなかった。
部屋の中を見回した。棚の布地を見た。壁の型紙を見た。作業台を見た。
そこに広げてあった仕掛け中のドレスを見た。
チエは「いいから座りなさい」と、自分が椅子を引いて座りながら言った。
「慶一郎から話は聞いています」
とチエは言った。
「はい」
「江戸の和裁士の娘で、今は横浜で洋服を縫っている。
その父親はコロリで亡くなった」
「はい」
「借金があった」
「はい」
ヌイは答えを短くした。
余分なことを言う場面ではないと感じた。
「ふん、正直な子ね」
とチエは言った。
褒めているのか皮肉なのか、読めなかった。
「隠しても仕方がないことですので、この場では全部、事実のみをお答えできればと、思っております」
「そう」
とチエはそっけなく言った。
「それにしても、なぜ慶一郎でなければならないのですか?」
「気づいたら、そうなっていました。
――チエ様が反対される気持ちは、わかります。
でも、私は諦める気はありません」
「平民の娘が神代の家に入ることの意味を、わかっているのかしら?」
「わかりません。でも、これから学びます」
「神代は長崎で代々通詞を務めてきた家です。
私はそれにふさわしい家の出でなければ、嫁になれませんでした」
「存じております」
「あなたの父親に、苗字はあるのかしら?」
「ありません」
「では、それが全てよ。
苗字のないような家の娘を、神代に迎えることは――」
「母上。少し待ってください」
慶一郎が立ち上がった。
「まずは、私が惚れたヌイさんの針仕事を見ていただけませんか?
話は、その後にいたしましょう」
「わしも、まずは仕事ぶりを確かめたい」
定助も慶一郎に続いて言った。
「では、ヌイさん。
母上と父上に見せてあげてください」
「わかりました」
ヌイは慶一郎の両親に一礼してから、作業台に向かった。
仕掛け中のドレスを持ち、近くに座るようチエに促した。
チエは訝しげながらも立ち上がった。
そして、ヌイがドレスを広げ、縫い目を指で示した。
「これを見てください。
この針目は、和裁の手で縫っています。
洋服の型紙の上に、和裁の技術を乗せています」
チエが目を細めて縫い目を見た。
「この部分が、袖の付け根です。
洋服の袖付けは、弧の角度が少しでもずれると、腕の動き方が変わります。
何度もやり直して、この角度になりました」
チエと定助は、ヌイの言葉に聞き入っていた。
「父から習った和裁の技術をここに使っています。
父の名前は惣兵衛、日本橋の和裁士でした。
もちろん、苗字を公に名乗れる家ではありませんでしたが、父の針目は、遠い横浜にまで届いていました」
「どういう意味ですか?」
と、チエは言った。
「このお店の主人、クレアというイギリス人の女性がいます。
彼女の夫は、父・惣兵衛の仕立てを遠い横浜で覚えていました。
その縁が、私をここへ連れてきたんです。
苗字のない針子の仕事が、海を越えた人間の記憶に残っていました」
チエが縫い目から目を離して、ヌイを見た。
「では、僭越ながら、仕事を始めさせていただきます」
ヌイは針を持った。
端切れに、針を走らせた。
チエと定助の目の前で。
言葉ではなく、針で話した。
一針、二針、三針――均一な間隔で、糸が布の上に線を作っていく。
引き具合を確かめながら、布の声を聞きながら、手が動く。
止まらない。乱れない。
長い間、チエと定助は動かなかった。
じっと、ヌイの指先を見ていた。
「一面だけですが、できました。
よければ、触っていただけますか?」
布を差し出すと、チエが受け取った。
指で縫い目をなぞった。
表から。裏から。糸の引き方を確かめた。
長い時間、見ていた。
「……これを、今、あなたが」
とチエは言った。
「はい」
「父親に習ったのですか?」
「はい。五年ほど前まで、父に習っていました」
「その父親は、苗字がなかった」
「はい」
「でもこれを縫った」
「はい」
チエが布をヌイに返した。
その時、チエの目が、わずかに潤んだ。
何かを考えているような、何かを認めかけているような。
ほんの一瞬だったが、ヌイは見た。
「だからといって、その娘を神代に――」
「チエ……」
と定助は静かに言った。
「わしが天人会に十年以上囚われていた間、慶一郎はずっと一人でいた。
誰にも言えないまま、わしを守ろうとした。
その間に、この娘が傍にいてくれたんだ」
「それは……」
チエが黙った。
「針目を見ただろう? ヌイさんの、針目を」
と定助は言った。
「……見ました」
「見たならどうだった? どう思った?」
チエはしばらく答えなかった。
認めたくないという、悔しさが滲み出ていたが、
「……本物、でした」
とやっと言った。
「そうだろう。
通詞の仕事も、針子の仕事も――本物かどうかは、仕事を見なきゃわからん。
お前も、そう思うだろう、チエ」
「……はい」
一言だけだった。
次の沈黙は、長かった。
クレアがお茶菓子を持ってきた。
カーリーが「どうぞ〜」といつもの調子で言いながら隣に添えた。
誰も余計なことを言わなかった。
紅茶の湯気だけが、静かに上っていた。
チエがお茶菓子を口に運んだ。
それから「慶一郎」と息子を呼んだ。
「あなたはこの娘を、どう思っているのかしら?」
慶一郎が少し間を置いて言った。
「……私の針目を、誰よりも知ってくれている人間だと思っています」
「針目……? 通詞に針目はないでしょう?」
「針目とは、言葉の使い方のことです。
ヌイさんは、私の言葉の使い方を、誰よりも知っています。
そして、怖かった時も、辛かった時も、ずっと傍にいてくれました。
言葉を伝えられない時でさえ、傍にいてくれました」
チエがヌイを見た。
ヌイはチエの目から逃げなかった。
真っ直ぐに、見返した。
「私は、慶一郎さんがどういう人間かを知っています」
とヌイは言った。
「言葉では、絶対に嘘をつかない人間だということを。
言えない時には言えないと正直でいる人間だということを。
私はそういう人間の傍にいたいと思っています」
チエが目を閉じた。
数秒、あるいはもっと長い時間、目を閉じていた。
慶一郎が何かを言おうとして、定助が手で制した。
カーリーがヌイの手をそっと握った。
クレアは動かなかった。
そして、チエが目を開け、
「ヌイさん。一つ、聞かせてください」
と言った。初めて名前を呼んだ。
「はい」
「神代の名を持つことに、重荷は感じませんか?」
ヌイは少し考えた。
「それは、もちろん重いと思います」
と正直に答えた。
「でも、重いものを持つことは、初めてではありません。
父の道具箱を背負って横浜に来た時、肩が痛かった。
でも手放しませんでした。
道具箱の中に、父の針があったので」
「神代の名は、父の道具箱ではありません」
「はい。でも、重いと知った上で、持ち続けました。
なので、神代という苗字も、持ち続けたいと思っています」
チエがもう一度、ヌイを見た。
今度は、長く見た。
それから定助を見た。
定助は何も言わなかった。
でも、その一瞬の中に、息子を思う、神代の家を思う、夫婦の時間があった。
「……わかりました」
とチエが言った。その声は変わっていた。
先ほどまでの、試す声ではなかった。
「認めます。
――でも、一つだけ言わせてください」
「はい」
「神代の名を持つなら、それに恥じない仕事をしなさい。
あなたの父がそうしたように。
あなたがこれまでそうしてきたように」
「はい」
「それだけです」
それを聞いていたカーリーが、「やったー!」と声を上げて、すぐに口を押さえた。
チエが少し眉を動かした。
「なんです? この娘は?」
「あはは、私の店の助手です。気が早くて」
とクレアが言った。
「……にぎやかな店ね」
とチエは言った。定助が笑った。
笑わなさそうな人だなと思っていただけに、一気にヌイの緊張がほぐれた。
「この店でいい。慶一郎」
と定助は言った。
「こういう場所で育った女のそばに、お前はいなさい」
「はい」
「後悔しないな」
「しません」
「ならいい。大切にするんだぞ」
その言葉は、ヌイの心にも響いていた。




