24.身分の違い
ヌイが定助からの手紙を開くと、こんな文があった。
『ヌイさんへ。
息子から話を聞いた。
横浜の針子が、長いことあの子を支えてくれていたと。
針仕事で身を立てる女というのは、簡単ではないと聞く。
それでも続けているということは、本物の腕があるということだ。
いつか会いに行く。
腕のいい針子というのは、どの時代にも必要な人間だ。
神代定助』
(本物の腕……)
という言葉が、胸の中で響いた。
惣兵衛が『縫い物の縫じゃ』と言った声が、重なった気がした。
「父の文には、なんと書いてありました?」
「……いつか会いに来られる、と」
「他には?」
「それだけでした」
とヌイは言いながら、少し顔が熱くなるのを感じた。
「密偵としての任は、これで終わりです。
もう続ける必要がない。
脅していた者たちは、もうほとんどいない。
父も助け出した。
――これからは、通詞として真っ当に生きます。
それだけが、私にできることだと思っています」
「最初から、あなたは素晴らしい通詞でした。
どんな状況でも、言葉を渡してきた。
どちらの側にも、正しい言葉を。
――それが通詞の仕事の本質だと私は思っています」
◇
慶応三年の十月。
秋の陽射しが爽やかなこの朝にも、慶一郎は店に来ていた。
――密偵としてではなく、一人の常連の通詞として。
「将軍が政権を朝廷に返した、との報が入りました。
居留地は、朝から静かにざわついていますね」
慶一郎から、社会の動きを仕入れるのが、ヌイの日課になっていた。
「十五代続いた徳川の時代が、終わったということ……?
そんなこと、あり得ないと思っていた……」
ヌイは慶一郎に聞いた。
「どうやら、本当のようです。
大通りで、外国の商人たちも『これは革命か』『日本と外国の関係はどうなる』と話しています」
クレアがお茶を淹れ、慶一郎に差し出した。
「紅茶です。どうぞ。
私たちのイギリスは、日本の新政府を支持する方向だと聞いています」
「どうやら、賛同する国は多いみたいですね。
――世の中が変わります。
身分の考え方も、大きく変わるはずです。
今の日本が、世界基準に変われば、武家と平民が一緒になることを、おかしいと思う人間は、いなくなります」
ヌイは型紙を引きながら、慶一郎の気持ちを確かめた。
「慶一郎さんは、日本が変わってから動くのですか?
少なくとも私は、今すぐにでも、行動をしたいと思っています」
「さすがはヌイさんですね。私も同じ気持ちです。
早速、神代の家に、正式に話をする準備を進めましょうか」
「はい。私にも何か役目をください。
力を合わせて、身分の壁なんて越えましょう」
ヌイと慶一郎は、目を見合わせて笑った。
◇
その翌日、長崎の神代家への手紙を、慶一郎が出した。
丁寧に書いた。
ヌイという女性のこと。
出自のこと。仕事のこと。
そして――自分の気持ちのこと。
神代家からの返書が来るまで、十二日かかった。
差出人は、慶一郎の母・チエだった。
封を開けた慶一郎の顔が変わった。
良い意味ではなかった。
「ヌイさんも、読みますか?」
「はい」
とヌイは言って、受け取った。
達筆な文字だった。
でも、内容は、達筆さとは全く別の種類のものだった。
『平民の娘を神代に迎えることは、断じてなりません。
我が家は長崎で代々通詞を務めてきた家です。
私はそれにふさわしい家の出です。
横浜という場所が、あなたの目を曇らせています。
それも、針子などとは何事ですか。
息子よ、正気に戻りなさい。
神代チエ』
ヌイは文を返した。
「お母様はどういうご出身なのですか?」
「母は、大村藩の武家の出です。家格は高い。
だから、誇りもそれに見合った分だけあります」
「やはり、名家の出なのですね。
でも、それだけわかれば、十分です」
「ヌイさん、怒っていますか?」
「怒ってなどいません。
返事をいただけただけありがたいです。
話し合う余地はあると思いますので、まず納得していただくことから始めます。
納得してもらえなければ――」
「諦めますか?」
「冗談はよしてください。
私は絶対に諦めません。別の方法を考えます」
「……あなたらしい。
私は、あなたのそういうところに惚れたんです」
「言わなくても、わかっています」
二人は顔を見合わせて笑った。
神代家から厳しい返事が来ていた事実など、まるで気にしていないかのようだった。
◇
翌日、長崎から、もう一通が来た。
こちらは慶一郎の父・定助からだった。
体の回復が進んでいる、という近況と共に、ヌイ宛の別紙が一枚入っていた。
『チエからの手紙に書かれていたことは、気になさいますな。
うちの妻は頑固者ですが、本当に大事なことと、そうでないことの区別がつく人間です。
ただ、現状、手紙だけでは判断がつかない。
いつか、妻を連れて横浜に行きます。
私と妻に、腕のいいという針子の仕事を見せてください。
期待しています。
神代定助』
その手紙の文字は、慶一郎とヌイの味方をするという意味だと、ヌイには読めた。
「お父様は、奥様を連れて来てくれるそうです」
「……そのようですね。
私宛ての手紙にも、書いてありました」
と慶一郎が少し照れた顔をした。
その時、海舟が店に来た。
「勝先生、ご無沙汰しております」
「ちょうどいい、慶一郎もいたのか。
神代の件、聞いとるよ」
と言いながら、海舟は椅子に座った。
「聞いているって、勝先生、お耳が早すぎませんか?」
「君たちのことは、なんでもお見通しさ。
お母様が反対しとるそうじゃないか」
「……はい。そうなんです」
「チエさんには、俺も会ったことがある。
あの人は筋が通ってる人間じゃ。
だから、話せばいずれわかる」
「どのように伝えればよいのでしょうか?」
ヌイは、海舟に助けを求めた。
「簡単な話だ。身分がどうこうじゃなく――お主が何者で、何ができる人間かということを、ちゃんと見せればいい。
見せる機会など、いくらでも作れる」
と海舟はあっさり言った。
「お主は確かな針子としての腕がある。
腕があれば、言葉はいらない。針目で伝わる。
俺が後押しするのは、お主が本物だと思うからじゃ。
本物でなければ後押ししない」
と海舟が立ち上がりながら言った。
「勝様、ありがとうございます」
「礼などいらん。
本物かどうかは、チエさんが判断する。
今まで学んだ技術を、もう一度復習すればよい」
「わかりました」
海舟が出ていった後、ヌイは針を持った。
(針目で伝わる……)
ヌイは一層気合を入れて仕事を続けた。
◇
数日後、龍馬から短い手紙が来た。
慶一郎宛てだった。
慶一郎がヌイに読んで聞かせた。
『慶一郎、お前らの結婚について、母親に反対されとると聞いた。
でも、わしは思うんじゃ。
世の中が変わりつつある時代に、変わることを無理強いするのは、逆に難しい。
だから、敢えて変わらんでいい部分と、変わらにゃいかん部分をはっきり分けて伝えるのが一番じゃ。
お針子さんの腕を見せろ、言葉じゃ伝わらん。
それと、母親の誇りを大事にしながら、その誇りがどこから来るかを考えてみるといいぜよ。
坂本龍馬』
「坂本さんらしいですね」
とヌイは言った。
「どんなところがです?」
「難しいことを、簡単に言うところです」
「それはきっと、勝先生の意思を受け継いでいるからですね。
それにしても、『変わらんでいい部分と、変わらにゃいかん部分』ですか。
……一体、どうすれば」
「お母様に、横浜に来ていただければ、後は私がなんとかします」
「なんとかするって、やはり勝先生が言っていたように、仕事を見てもらうのですか?」
「はい。私の普段通りの仕事を、見てもらいます。
言葉ではなく、針目で伝えます。
それに、お母様の誇りを否定しなければ、話は聞いてもらえるかもしれません。
否定から始めれば、閉じる」
「それは、間違いないですね」
「はい。ですので、慶一郎さん。
私にお母様の話を聞かせてください」
「わかりました。
では今晩、また来ますので、その時に話します」
「お願いします。
私はそれまでに仕事を進めて待っています」
「では、また後ほど」
慶一郎は、そう言って通詞の仕事に出かけた。
直後、入れ替わりで、クレアとカーリーが仕入れから帰ってきた。
「クレアさん、カーリー。
少しお話があるのですが、聞いていただけますか?」
ヌイは、チエを説得するための作戦を二人に話した。
「なるほど、わかったわ。
つまり、お義母さんになる方をここに呼んで、あなたの仕事を見せるというわけね」
「はい」
「なかなか強引ね」
「他に方法が思いつきません」
「いいえ、正しい方法だと思うわ」
とクレアは言った。
「説得は言葉でするものだと思いがちだけど――本当に大事なことは、言葉では伝わらない。
あなたの針目の方が、百の言葉より雄弁だわ」
「百の言葉より雄弁……」
「そうよ。英語では、『Actions speak louder than words』といって、有名な格言なのよ」
「そうだったんですね。
ありがとうございます。クレアさん」
「ねえねえヌイ! 私はどうしたらいい?」
と、カーリーが割って入り込んだ。
「カーリーは、いつも通りいてくれたら助かります」
「え? 何もしなくていいの?
私もヌイのお手伝いしたいよ〜」
「カーリーがいるだけで、お店全体が明るくなる。
それが大事だと、私は思ってます。
辛い時も、苦しい時も、私がここで仕事を続けられたのは、カーリーのおかげだもの」
「ヌイ……。
やっぱりあなたは私の大親友よ!」
カーリーは上機嫌になり、なぜか仕事場の掃除を始めた。
「急に、何をしているんですか?」
「お義母さんが来ても恥ずかしくないようにしてる。
これが私の作戦よ!」
「嬉しいけど……、カーリーはお義母さんって呼ばないでよ……」
三人は笑った。




