23.救出劇
慶一郎に続いて、龍馬と海舟も中に入ってきた。
三人は、椅子に座った。
「この一月半のこと、お話しします」
慶一郎は震えた声で言った。
声が震えるのを聞いたのは、初めてだった。
――――――
時は、夏の終わりに遡る。
これは、慶一郎がハーバート洋裁店を出た後の話。
「にしても、暑いですね。
坂本さんも、勝先生も、体調には気をつけてください」
「わしはこのくらいの方が気合いが入るぜよ。
土佐人の夏は、こうじゃないといかん」
「慶一郎、今から向かうのは、肥前の北部にある廃寺。
長崎の伝手を五つほど使って、ようやく割り出した」
と海舟は言った。
「天人会は、もうほとんど解散しているらしいですね。
薩英戦争の後から、仲間の密偵の数が一気に減りました。
薩長が手を結んだあたりで、空中分解したのでしょうか」
「となると、おそらく残っとるのは、金で雇われとるだけの熱のない連中ぜよ。
親父さんに逃げられても困るから見張っとるだけで、今となっては、自分たちもどうすればいいか、わからんくなっとるんじゃないか?
攘夷で世の中を動かせる時代じゃなくなってきたのが、あいつらにもわかったんぜよ」
龍馬は大きく笑った。
「だが、油断は禁物だぞ、龍馬。
一応、今でも番人がおるのは確かだし、天人会自体も、正式に解散した訳じゃあない」
その時、博多行きの船が力強い汽笛を鳴らした。
まるで、三人を鼓舞するかのように。
「船が出る。あれに乗るぜよ」
三人は船に乗り込んだ。
◇
小一時間ほど船に揺られた後、慶一郎が甲板に出ると、海舟が煙管を吹かしていた。
「慶一郎、ちょっと来い」
「なんでしょう? 勝先生」
「……親父さんとは、十年振りだな」
と、海舟は問いではなく、確かめるように言った。
「はい」
「お前さんはその間、誰にも言わずに一人でやってきた。
天人会に嘘の情報を流しながら、居留地を守りながら、父を案じながら――なかなか、できることじゃあない」
「私にできることをやっただけです」
「そうか。でもそんなことは、できない人間がほとんどだ。
――俺はずっと見とった。
何も言わなかったが、見とった」
慶一郎が黙った。
「親父さんを連れ戻すぞ。
それに、お前さんは、今後は通詞として生きたいと言ったな?」
「はい」
「ならこれが最後の密偵の仕事じゃ。
終わったら、ちゃんと前を向け。
そして、必ずあの針子の娘を手に入れろ。
身分がどうとか言うやつは、もう古臭くてかなわん」
海舟が煙管を懐にしまった。
「身分の違い……」
それは、この時代の男女の交際において、切っても切れない現実だった。
頑丈な糸で、しっかりと縫い付けられているみたいに。
「出発の前には、あの娘に何か言ったのか?」
慶一郎が少し詰まった。
「少し離れますとだけ、言いました」
「そうか。
まあ、あの娘なら待てるじゃろう」
海舟は船内に戻っていった。
◇
慶一郎が甲板で横になっていると、船が徐々に速度を落とした。
「もう博多の港か……」
立ち上がって港を見ると、慶一郎にとって懐かしい光景が広がっていた。
密偵として横浜に乗り込む際、慶一郎はここ博多から船に乗っていたのだ。
「慶一郎。ここからは馬で乗り込むぜよ。
目的地の廃寺は、ここから少し北にある」
「わかりました。
三頭、手配してきます」
こうして三人は、馬を走らせ、北へ北へと向かった。
しばらく走らせると、山あいに目的の廃寺が見えた。
「思ったより早く着きましたね」
と言い、慶一郎は寺の手前の林に馬を繋いだ。
「番人が何人いるか、一度偵察してくる。
龍馬と慶一郎は、刀の用意をしておけ」
と海舟は言って、先に木立の中へ滑り込んだ。
慶一郎は待った。
季節は秋に変わる頃だが、山の空気は冷えていた。
遠くで鳥の声がした。
海舟が戻ってきた。
「勝先生、どうでしたか?」
「はっきり言って、かなり手薄だな。
表に一人いただけだ。奥には誰もいない。
刀は差しているが、あまり気の入った見張り方じゃないな。
油断は禁物だがな」
「よし。わしと慶一郎で突入するぜよ。
勝先生は、後ろの監視をお願いします」
「ああ、わかった」
慶一郎と龍馬が廃寺に近づくと、表口で番人が振り返った。
壮年の男だった。
くたびれた着物に、抜きかけた刀。
しかし、海舟が言った通り、目に熱がなかった。
疲れ果てた目だった。
「神代定助を返してもらいに来た」
と慶一郎が言った。
穏やかな声で、しかし揺らがない声で。
番人の男は、何も言わずに刀を抜いた。
その時、龍馬が男に語りかけた。
「天人会はもうない。
お前も知っているはずぜよ。
神代定助を今すぐ返してくれれば、それで終わりだ。
誰もお前を追わん」
男は、刀を握ったまましばらく動かなかった。
それから、刀を鞘に戻した。
「面倒な奴らが来たもんだ。
神代定助は、この奥だ。勝手に連れて行け」
男はそう言って、顎で示した。
疲れ果てた声だった。
この男もまた、長い時間ここに縛り付けられてきたのだということが、その声でわかった。
廃寺の奥の部屋は、暗かった。
小さな窓から、秋の薄い光が射していた。
その光の中に、一人の男が壁に背をもたせかけて座っていた。
慶一郎は敷居を跨いだ。
男が顔を上げた。
白髪だった。頬がこけていた。
着物が、体の細くなった分だけ余っていた。
でも――その目が、慶一郎の知っている目だった。
「お父上……」
かろうじて声を出した。それだけだった。
長崎の出島の館で、幼い慶一郎を見ていた目。
その目を見て、慶一郎は定助の言葉を思い出した。
『言葉は力だ、慶一郎。
言葉を持つ者は、刀を持つ者よりも遠くまで行ける』
十年以上、この暗い部屋の中で、消えていなかった目だった。
定助がゆっくりと立ち上がろうとして、脚が震えた。
「お父上、無理しないでください」
慶一郎が駆け寄って、支えた。
定助の腕を摑んだ手に、骨の感触があった。
細くなっていた。
十年で、こんなに細くなっていた。
定助が慶一郎の顔を見た。
しばらく見ていた。
「慶一郎……大きくなったな」
それだけだった。
でも――その声の中に、隔絶された十年があった。
慶一郎は何も言えなかった。
定助の腕を支えたまま、ただそこに立っていた。
声が出なかった。
泣くのでもなく、笑うのでもなく――ただ、立っていた。
定助が慶一郎の肩に手を置いた。
骨ばった、軽い手だった。
「来てくれたか」
「遅くなりました」
「いや、来てくれた、それで十分じゃ。
立派な男に育ったの……」
廃寺を出る時、秋の光が山あいに射していた。
慶一郎は定助を馬に乗せて、海舟と龍馬の後を進んだ。
定助は馬上でも背が真っ直ぐだった。
細くなっても、通詞の家で育った人間の姿勢は変わっていなかった。
山道を下りながら、定助が話しかけてきた。
「なあ、慶一郎。
お前はあの後、どこで何をして暮らしていたんじゃ?」
「私は、主に横浜の居留地で、通詞をしておりました」
「そうか。
ならそろそろ、いい女でも見つかったんじゃないか?」
「急になんです!? お父上」
「お前はもう、そういう歳じゃ。
いや、ちと遅いくらいかもしれん」
慶一郎は、なんと答えるべきか悩んだ。
正直にヌイのことを話せば、身分の違いで定助に反対されることは目に見えていたからだ。
「どんな娘じゃ……?」
「お父上。私はまだ何も――」
「言わんでもわかる。
そこで惚れた女がいるんじゃろう?」
「……はい」
「どこの家の娘じゃ?」
「……苗字のない、一般庶民の出です。
ただ、彼女は誰よりも強い信念を持っている、横浜イチの針子です……!」
「なるほど。面白い」
と定助は言って、少し笑った。
「お父上、笑いごとでは――」
「いいか、慶一郎。わしはお前の親じゃ。
赤子の時からずっと見ておる。
お前は昔から、何も言わないことの方が多かったな。
でも言わない時ほど、真剣だった」
慶一郎は黙った。
「会わせてくれるか?」
と定助は言った。
「体が戻ったら、横浜に行ってみたい」
「はい」
「庶民の針子と、神代の通詞か。
わしは、悪くないと思っとる」
「お父上……」
「言葉で仕事をする者と、針で仕事をする者には、通ずるものがあると思っとる」
定助がそれ以上は言わなかった。
慶一郎も何も言わなかった。
山道に秋の風が来た。
こうして、定助を長崎の神代家に送り届けた。
「体の回復には時間がかかるから、横浜に行くことはしばらくできない。
しかし手紙なら書ける。
ヌイさん、とやらに宛てて手紙を出すから、届けてやってくれ」
「よろしくお願いします」
定助への挨拶を終えた慶一郎たち三人は、横浜行きの船に乗った。
帰り道は来た時より速かった。
体が急いでいた。
――――――
慶一郎は、話を終えた。
「では、お父様はご無事だったのですね。
本当に良かった……」
ヌイは、握っていた針刺しを、机に置いた。
「わしと勝先生は、やることがあるから、先に帰らせてもらうぜよ」
「勝様、坂本さん、本当にありがとうございました」
ヌイは深々と頭を下げた。
「お前たちは、身分の違いなんて、吹き飛ばせる。
日本の新しい風ぜよ」
「うちの慶一郎も、ようやくヌイさんに釣り合う男になった。
ヌイさん。慶一郎のことは、今度はお主に任せた」
龍馬と海舟は、去り際にそう言った。
◇
それから一ヶ月後。
定助からの最初の手紙が横浜に届いた。
「ヌイさん。父から手紙が来ました」
慶一郎宛ての手紙の中に、別の一枚が入っていた。
それは、ヌイ宛てのものだった。




