22.待つということ
「ヌイさん。父のことを、近々話せるかもしれません」
「お父様を救う算段がついたのですか?」
「ええ、勝先生と坂本さんが動いてくれたおかげです。
もう少し、もう少しだけ――」
「時間なんていくらかかっても、あなたさえ無事なら、私は大丈夫です」
慶一郎がヌイを見た。
「ありがとうございます。
ヌイさんの方は、お仕事うまくいきましたか?
また大変な依頼が来たと聞きました」
「はい。フロスト夫人に合うドレスを縫うことができました」
「……ヌイさんも、順調そうでよかったです」
(“も”ということは、慶一郎さんも順調なんだ……)
慶応二年の春の夜に、居留地のランプが灯り、遠くに港の黒い水面が光っていた。
ヌイは針刺しを手に持って、窓の外を見た。
近々話せるかもしれません――という慶一郎の言葉が、胸の中で静かに動いていた。
◇
慶応二年の夏は、蒸し暑かった。
石畳が昼間の熱を吸い込み、夕方になっても放さなかった。
港から来る潮風だけが、かろうじて居留地の空気を動かしていた。
仕事場の窓を開けていると、布地が湿気を吸って重くなる。
(湿気は布の大敵ね……)
ヌイは生地を扱う前に必ず、部屋の空気を確かめるようになっていた。
フロスト夫人のウール製のドレスが評判を呼び、その紹介で新しい客が来ていた。
今度は横浜のアメリカ人商館の主人の妻で「晩餐会用のシルクドレスを仕立ててほしい」という依頼だった。
仕入れ、採寸、型紙、仮縫い、本縫い。
一着ずつ丁寧に積み上げる仕事が続いていた。
◇
夏も終わりだというのに、まだまだ暑いお昼過ぎ。
ヌイが一人で午後の準備をしていると、慶一郎が来た。
珍しく、羽織の襟元が少し乱れていた。
急いできた、ということがわかった。
「座ってもいいですか?」
と慶一郎が言った。
「もちろんです」
とヌイは椅子を引いた。
慶一郎は座った。
しばらく手を膝の上に置いたまま、作業台を見ていた。
その目が、どこか遠い場所を見ているような気がした。
慶一郎は一息ついてから、話し始めた。
「私の父が、天人会という攘夷過激派組織に誘拐された、というのは、以前にもお話ししたと思います」
「はい。あの冬の夜の桟橋で聞きました」
「急ではありますが、今夜、勝先生と坂本さんと共に、救出作戦を決行することになりました。
勝先生は以前から、坂本さんに協力を頼んでいたみたいなんです」
その時、店の扉が開いた。
「おい、慶一郎。恋人への挨拶は済んだかいの?
勝先生が、外で待ってる。そろそろ出発するぜよ」
龍馬だった。
「すみません、坂本さん。
すぐに行きます!」
慶一郎は、慌てて席を立った。
龍馬は、ヌイを見て、
「お針子さん、もうすぐぜよ」
と言った。
もうすぐ、その言葉には多くの意味が含まれていた。
「坂本さん。
慶一郎さんのこと、よろしくお願いします」
「わしに任せろ」
「では、ヌイさん。
私たちは少し横浜を離れます」
と慶一郎が扉を開けながら言った。
「どのくらいになりますか?」
「わかりません。一月か、二月か――」
「わかりました」
「心配しないでください。必ず戻りますから」
勝海舟、坂本龍馬、そして――神代慶一郎。
(この三人なら、心配はいらない。
何があっても、大丈夫なはずだ)
「心配なんてしていませんよ。
私が慶一郎さんを繋ぎ止めていますから」
慶一郎は、笑顔を見せた。
「行ってきます」
「待っています」
ヌイは三人を見送った。
扉が閉まった後、しばらくそのままでいた。
◇
待っている間は、いつも以上に仕事をした。
それ以外にやることがなかった、というのではない。
仕事をしていれば、手が動く。
手が動く間は、余計な想像が入り込んでこない。
針目の数だけ時間が過ぎる。
それがヌイにとっての“待ち方”だった。
ちょうどその頃、新しい注文が来た。
「ヌイさん。また新しい仕事、頼めるかしら?」
「はい。なんでも任せてください」
「頼もしくなったわね。
今度は、日本人の男性からの依頼よ。
その方は、蓮尾さんと言って、横浜の生糸商をやっているわ。
外国人との取引が増えたから、スーツを仕立ててもらいたいそうよ」
「スーツ……とは、なんですか?」
「日本語では、まだ定まった言葉はないけど、背広と呼ばれることが多いわね。
西洋の男性服のことよ」
「男性服……」
ヌイは初めて、男性洋服の型紙に向き合った。
ドレスとは構造が根本的に違う。
ドレスはウエストでシルエットを作るが、男性服は肩で全体を支える。
肩線の精度が命だった。
肩から袖への移行――袖山の弧の角度が、服全体の見え方を決める。
◇
「仮縫い終わりました。
蓮尾さん、一度着てみていただいてもいいですか?」
蓮尾は、仮縫いのスーツに袖を通した。
「そうですね、肩が角ばって見えるのが気になります。
僕がよくお会いする外国の方は、もう少しすっきりとした印象でしたね」
「わかりました。修正をいれます」
ヌイは手早く縫い目を解き、肩の部分を縫い直した。
「これで、どうでしょうか?」
「んー、今度は少し肩が動かしにくい感じがあります」
縫い目が深すぎると、肩がいかり肩に見える。
浅すぎると、腕が動かしにくい。
この曲線を正確に縫うために、ヌイは蓮尾の肩甲骨の動き、腕の付け根の位置、鎖骨の傾きを丁寧に確かめた。
この後、仮縫いを三度やり直した。
三度目でようやく「これだ」という感覚が来た。
線が、体に乗った、という感覚。
これは言葉で説明しにくいが、長く仮縫いを続けてきた者には必ずある感覚だった。
線の一本一本が、体の形に合っている。
「それでは、本縫いに入らせていただきます。
明後日までには、完成させます」
「ありがとう。それでは、僕は失礼しますよ。
よろしく頼むね、おヌイさん」
この、おヌイさん、という呼び方は、すっかり横浜の居留地に広がっていた。
天才仕立て師、ハーバート洋裁店のおヌイさん。
おヌイさん目当てで店に訪れる人も、かなり増えてきた。
◇
翌日、ヌイがスーツを仕立てていると、カーリーが店にやってきた。
「それ、男性のスーツだよね? 初めてじゃない?」
「はい、初めてです」
「うわー、難しそう……」
「難しいです。でも、面白い」
「ヌイって難しいことを面白いって言うよね」
「難しいと、頭を使うじゃないですか」
「考えることが好きなの?」
「ええ。日々考えながら仕事をするのは、とても楽しいです。
退屈しませんからね」
◇
そして、一月が過ぎた。
慶一郎からは何も来なかった。
手紙も、使いも。
だが、ヌイは何も心配していなかった。
クレアは何も言わなかった。
カーリーは「最近、慶一郎さん来ないね」と言い、ヌイの顔を見るが、それ以上は言わなかった。
そんな時、ワーグマンが久しぶりに店を訪れた。
通訳は、クレアがしてくれた。
「慶一郎を待っているのか?」
「はい。一月以上、待っています」
「長いな」
「彼には、大事な仕事があるので」
「それはそれとして、長い」
「そうですね。本音を言えば、会いたいです」
ワーグマンはスケッチを始めた。
「待っている人間の顔というのも、悪くないな」
とスケッチをしながら言った。
「私の顔は描かないでください。
前にもそう言いました」
「顔は描いていない。手を描いている。
待っている人間の手は、顔以上に待っている表情を見せてくれる」
「普段の手と、どう違うんですか?」
「……言葉では伝わらない。完成したら、絵で見せる」
ワーグマンは、黙々とスケッチを続けた。
その間、ヌイは仕事をした。
「よし、完成したぞ」
ワーグマンは、帳面に描かれた『待つ針子の手』というスケッチを見せてくれた。
自分の手なのに、知らない誰かの手のように見えた。
(確かに、何かを待っている……。
そう見える……)
◇
葉の落ち始めた、涼しい秋の夕方。
ヌイが型紙の修正をしていると、店の扉が開いた。
振り返ると、慶一郎が立っていた。
旅の埃が着物についていた。
顔が、少し痩せていた。
でも目が――前より、柔らかかった。
「……戻りました」
「おかえりなさい、慶一郎さん」




