21.布地の声と、体の声
慶応二年の春が来た。
石畳に光が跳ねる日が増えるにつれ、港に入る船も増えていた。
「これは忙しくなりそうね……」
クレアは独り言を言いながら新しい注文書を用意していた。
「クレアさん、また何か大きな依頼ですか?」
「そうなのよ。
依頼主はフロスト夫人といってね、旦那様が貿易商をやっている方なの。
私は付き合いがあって、以前にも何着か仕立てているんだけど、ちょっと注文が細かい方なのよね」
「クレアさんの技術でも難しいんですか?」
「まあ、最終的には、なんとか仕立て上げるんだけどね。
それでね、来月、江戸の将軍様のところに表敬訪問する機会があるらしくて、その席に着ていくドレスを仕立てて欲しいそうなのよ」
「将軍って、徳川家茂公ですか……?」
「それはもちろんよ。
それでね、この仕事はヌイさんに担当してもらいたいと思っているわ。
以前、あなたが仕立てたドレスを見たからわかる。
あなたなら、必ず最高のドレスを仕立てられるって」
「設計から仕上げまで全部ですか?」
「いいえ。
設計よりも前の、仕入れから全てです。
――とは言ったものの、ドレス本体は、夫人が持参したウールと呼ばれる素材を使って欲しいそうよ」
「素材を持ち込むなんて、何かこだわりでもあるのでしょうか?」
「ええ。旦那様がイタリアのビエラから輸入した逸品らしいから、失敗しても替えは利かないわよ。
以前教えたことを思い返して、あなた一人でやってみなさい」
「わかりました……!」
(素材は裁断してしまったら、元に戻せない。
それに、将軍への表敬訪問のドレスなんて、失敗は許されない。
だけど、やってみたい……!)
ヌイは、怖いと思う前に、挑戦したいと思っていた。
それが職人の気質というものだとヌイは思った。
◇
仕事は採寸から始まった。
来店していたフロスト夫人の体を、ヌイが丁寧に測る。
肩幅、胸囲、胴囲、腰囲、背丈、袖丈。
数字だけでなく、手で確かめる――体の声を聞いた。
(背骨が、他の人よりも大きく湾曲している気がする。
あれ、右肩が左より若干高い……?)
ヌイは、フロスト夫人の左右の肩を入念に確かめた。
「そんなに肩を触って、どうしたのかしら?」
とフロスト夫人は、ヌイの行動を気にしながら聞いた。
「フロスト夫人は、おそらく右利きでいらっしゃいますね?
右利きの方は、右肩が少し高くなる人がいるんです」
「確かに、夫の手伝いで昼間は文字を書いていることが多いわ。
それより、ドレスは合わせられるの?」
「合わせます。型紙の段階で、左右の差を織り込みます」
◇
そこからヌイの型紙起こしが始まった。
(クレアさんは、フロスト夫人のことを“注文が細かい方”と言っていたけれど、実際はフロスト夫人の体が個性的なだけかもしれない)
白い紙の上に、ヌイは線を引いた。
特徴的なフロスト夫人の体の形を、紙の上に移し取っていく。
この型紙を起こす作業が、仕事の中でヌイが一番好きな工程だった。
紙の上に体が生まれる。
まだ布も糸もない。
でも、この線の中に、フロスト夫人の体が入っている。
線が正確であれば、布をこの通りに裁って縫えば、必ずその体に合う。
(一枚の紙の上に、人が立っている……)
◇
お昼過ぎ、ヌイは仮縫いの作業に入った。
(夫人から頂いたウールは、これ限り。
仮縫いは、慣れている絹でやってみよう)
そう思って、ウールを棚に置こうと手に取ると、ある違和感に気がついた。
生地の伸び方が、絹とは全く違ったのだ。
(布地の声が違う……。
もしかして、仮縫いを絹で完成させたとして、そのまま本縫いをウールでやったら、失敗してしまう……?)
ヌイは、店の中にある様々な素材の生地を触って確かめた。
(――これなら、比較的ウールに近い)
ヌイは、白木綿で仮縫いを始めた。
◇
出来上がった仮縫いのドレスを夫人の体に当ててみた。
すると、右肩の補正が少し足りていなかった。
肩の付け根で布が余っている。
「ここが少し引っ張られる感じね。
直してちょうだい」
「わかりました」
とヌイは言って、印をつけた。
また解いて、また縫い直す。
二度目の仮縫い。
「そうねぇ。今度は肩はよくなったけど、背中の縫い目が歪んで当たっている気がするわ」
とフロスト夫人が言った。
ヌイも同じことを感じていた。
(夫人の言う通り、後ろから見ると、針目が背中の中心を通っていない……。
背骨の癖を計算に入れたつもりだったけど、計算が甘かったんだ……)
この、後ろから見た時の印象というのが難しかった。
体の正面の歪みは客本人も確認できるが、背中は見えない。
だからこそ、仕立て屋の目が正確でなければならない。
布を少し解いて、背中の縫い目を微調整した。
中心線を正確に体の背骨の上に乗せ直す。
(体の軸となる線――これがずれると、どんなに細部が正確でも全体が歪んで見えてしまう……)
そして、三度目の仮縫い。
フロスト夫人が着て、鏡の前に立った。
ヌイが後ろから見た。前から見た。横から見た。
「少し動いてもらえますか?
歩いたり、体をひねったり」
とヌイは言った。夫人が歩く。
腕を上げる。椅子に座る。立ち上がる。
――布がついてきている。
体の動きを妨げていない。
それでいてシルエットが崩れない。
「着心地はどうでしょうか?」
「素晴らしいわ。
まるで何も着ていないみたいよ」
フロスト夫人は冗談を交えて笑った。
「ありがとうございます。
これなら、本縫いに入れます」
とヌイは一礼した。
◇
ついに、本縫いに入った。
日はすっかり傾いていた。
仮縫いの線に従って、フロスト夫人が持参したウール地を裁断する。
(裁断は一発勝負。切り直しは、許されない……)
鋏を入れる前に、ヌイは三度確かめた。
型紙との合わせ。布目の方向。縫い代の幅。
全部確認してから、鋏を動かした。
そして、縫い始めた。
ウールの縫い目は、絹より引き締める力が強い。
糸の引き具合を少し緩めに保ちながら、でも均一に。
薩摩の絹とは全く違う声を持つ布地だった。
薩摩の絹は「滑らか」な声を持つ。
このウールは「しっかりした」声を持つ。
どちらも語りかけてくる内容が違う。
その声に合わせて、手の動きを変える。
惣兵衛に習ったことが、ここに生きていた。
『布地の声を聞け』
声の種類は布によって違うが、聞こうとする姿勢は同じだ。
ドレスは、三日かけて丁寧に仕上げた。
◇
「あらあら、随分と時間をかけたのね」
フロスト夫人は、店に入るなり、そう言った。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いやねぇ、文句を言ったんじゃないわよ。
丁寧に仕立ててくれて、ありがとうって意味よ」
「今、お持ちいたします」
ヌイは、夫人の前に、ドレスを運んだ。
そして、着てもらった。
「Wonderful……!」
夫人が鏡の前に立った瞬間、ヌイは息を止めた。
ドレスはぴったりと合っていた。
右肩の高さが補正されて、両肩が水平に見える。
背中の中心線が背骨の上に正確に乗っている。
腰のシルエットが夫人の体に沿って、でも締め付けずに、美しく出ている。
ウールの艶が、夫人の肌を際立たせている。
「こんなに体に合うドレスは、初めてかもしれないわ。
あなたにお願いして本当に良かったわ」
ヌイは頭を下げた。
深く下げた頭の向こう、自分の手が見えた。
この手で縫った。
惣兵衛に習ったこの手で。
(お父つぁん、見ていますか)
その夜遅く、仕事場に一人でいたヌイのところに、慶一郎が来た。
いつものように、通りかかりに顔を出しに来ただけかと思ったが、慶一郎は普段と違う顔をしていた。
「……少し話せますか?」
ヌイは針を置いた。
「改まって、どうしたのですか?」
慶一郎の覚悟を秘めた顔に、ヌイは胸騒ぎがした。




