20.坂本龍馬
「お値段、こちらになります……!」
ヌイは、仕立てたドレスと共に、価格を提示した。
緊張の一瞬だった。
「あら、ありがとうね」
と夫人が言ってその場で払った。
驚いた。
自分で付けた値段が、あっさりと受け入れられたことに。
後でクレアに報告すると「腕に見合った値段というのは、自然に通るものよ」と言われた。
その夜、ヌイは道具箱の中の針刺しを見ながら思った。
(お父つぁん。私にも少し、商売の仕方が見えてきました)
◇
季節は変わり、慶応元年の秋。
慶一郎と海舟が、一人の男を連れて店に現れた。
「ここが評判の仕立て屋がよ……。いてっ」
その男は、土佐の訛りで言った。
店に入る時、扉の上の枠に頭をぶつけた。
「いらっしゃいま……せ……」
その男を見て、ヌイは驚いた。
というのも、扉の枠に頭をぶつける人など、見たことがなかったからだ。
それに、背が高いだけではなく、肩幅が広い。
長崎育ちの慶一郎とは違う、もっと野性的な体格をしていた。
頬骨が高く、目が大きい。
着流しに羽織という格好は普通だったが、その着方が少しだけ乱れていた。
急いでいるのではなく、そもそも細かいことを気にしない人間の着方のように見えた。
「ヌイさん、お変わりありませんか?
こちらは、坂本龍馬さんです。
私と同じく勝先生の門下生で、今は亀山社中という貿易組織を結成し――」
と慶一郎が紹介しようとすると、
「難しい話はいらんぜよ」
と龍馬が遮った。
「わしは坂本龍馬じゃ。
よろしゅうおたのみします」
「ヌイと申します。
こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ヌイは深く頭を下げた。
「お主がヌイ、か。
勝先生からは、よぉく聞いとるぜよ。
腕のいい針子が、横浜にいると」
ヌイは、「腕のいいなんて、そんな――」といつもの調子で言いそうになったが、
『自分の技術を正当に評価することは、傲慢ではありません』
という、クレアの言葉を思い出した。
「私は、この腕一本でやらせてもらっています」
「ほう、自分でも腕に覚えがあるみたいじゃの。
そこまで自信があるなんて、大したもんぜよ。
お主の仕事ぶり、少し見させてもらおう」
龍馬は作業台を覗き込んだ。
ヌイはいつも通りの素早く正確な手捌きを披露した。
「今、何を縫っているんか?」
「これは、ドレスの仮縫いです」
「仮縫いというのは、本縫いの前の試し縫いか?」
「そうです」
「なぜ、わざわざ試すんぞ?」
「体は一人ひとり違うので、先に確かめないと体に合わない服を縫ってしまうことになるんです」
龍馬は頷いてから、壁に貼った型紙を見た。
「これが、洋服の型か?」
「はい。いわゆる、洋服の設計図に当たります」
「複雑なもんじゃな」
「私も初めて見た時は、同じことを思いました。
でも、採寸してみるとわかるのですが、人間の体の形って、思ってる以上に複雑なんです」
龍馬がヌイを見た。
品定めではなく、確かめている目だった。
「お主、仕立て屋として何をしたいんじゃ?」
ヌイは少し考えた。
「……私が今したいのは、着てくれる人のために、一生懸命仕立てることです。
ゆくゆくはそれを、“世界を縫う”ことまでに繋げたいと考えています」
「“世界を縫う”っては、どういう意味ぜよ?」
「父の遺言です。
針仕事で日本と外国を繋ぐことだと、私は解釈しています。
私は、文久二年に横浜に来てから、様々な事件を目の当たりにしてきました」
「公使館の襲撃や焼き討ち、生麦村での事件もあったみたいじゃの……」
「はい……。
そういった事件を直接止めることはできませんが、日本を代表する針子として、世界に通用する服を縫い続け、少しでも両者の橋渡しになれればと思っています」
「日本を代表する針子……か。
世界では定期的に、万国博覧会――通称、万博っちゅうものが開催されているのは知っとるがよ?」
「いえ、存じておりません」
「世界の文化が一点に集中する――それが万博ぜよ。
日本はまだ参加したことはないがの、時代の流れでいつかは必ず参加する時が来る。
その時に、お主の縫った服を世界に見せてやれ」
と言って笑った。
笑うと顔全体が変わる人だった。
「その時のために、日々精進してまいります。
ところで、坂本さんは、横浜には何のご用事でいらっしゃったのですか?」
「ここにはな、わしが結成した商社でのことを勝先生に報告しに来たんじゃ。
それと、その商社で扱う絹の取り引きも兼ねてぜよ」
「商社……、さっき慶一郎さんが言っていた組織のことですか?」
耳馴染みのない言葉に、ヌイは困惑した。
「ああ。商社っちゅうのは、簡単に言えば、物の流通を支える組織ぜよ。
後援には薩摩藩もついとってくれて、薩摩の名前で購入した船で貿易なんかもやっとる。
日本と外国を繋ぐ――貿易ぜよ」
「日本と外国を、繋ぐ……」
ヌイはその言葉に感銘を受けた。
龍馬はまだまだ店内が気になる様子で、棚に置いてあった薩摩の絹を手に取った。
馴染みのある扱い方だった。
「これ、薩摩の絹かいの?」
「はい。お詳しいのですね。
見ただけでわかる人、なかなかいませんよ。
先ほど話した私の父が薩摩出身なので、特に気に入って使ってるんですよ」
「わしも商社で薩摩の絹を扱っとるがぞよ。
長州に持っていったりもする」
「長州に?」
「薩摩と長州は今、少し複雑なんじゃが――まあ、絹を運んでいるうちは、お互い殺し合わんだろう」
と龍馬は笑った。
「お主の父は、どのあたりの出じゃ?」
「錦江湾の近くだと聞いていました」
「ほう。薩英戦争で一番燃えたあたりじゃな」
「……はい」
「でも今は復興しよる。
薩摩の人間は、根性のある奴が多いからな」
龍馬が薩摩の絹を棚に戻しながら、何気なく言った。
「私の父も、何度失敗しても立ち上がる、そういう人でした」
「薩摩はそういう藩じゃ。
戦って、燃えて、また立ち上がる。
お主もその血を引いとるなら、何者にも負けんはずぜよ。
というかお主、負けず嫌いじゃないか?」
「え、なんでそれを……?」
「顔に書いてあるぜよ」
龍馬は、大きく笑った。
◇
その後、クレアが持ってきたお茶を飲みながら、龍馬と海舟と慶一郎とクレアの四人で話をしていた。
ヌイは作業台で仕事を続けていた。
話の内容は聞こえなかった。
しばらくして、三人は「そろそろ帰る」と言ってヌイのところに再び顔を出した。
海舟が先に出る時、龍馬が慶一郎に近寄って何かを耳打ちした。
慶一郎が何を聞いたのか、ヌイにはわからなかったが、一瞬だけ顔が変わったように見えた。
何かを堪えているような、あるいは長く抱えていたものが少し動いたような――そういう変わり方だった。
「お針子さん、邪魔して悪かったの。
ええ仕事、見せてもらったぜよ」
龍馬は、そう言って店を出た。
しかし、慶一郎は、なぜか店に残っていた。
「坂本さんに、少し、動いてもらえることになりました」
と後ろを向いたまま、ヌイに言った。
「もしかして、お父様のことですか?」
慶一郎が止まった。
「……聞こえていましたか」
「いいえ。でも、あなたの顔が、そう言っていました」
慶一郎は振り返ってヌイを見た。
「もう少し、待っていてください。
必ず、話します。全部」
「はい」
「いつも待たせてばかりで、すみません」
「待ってなどいません。私はずっとここにいるだけです。
それに、待つのは得意なので」
「……ありがとうございます」
その声が、いつもより細かった。




