19.技術の価値
文久の世が終わり、慶応元年の春が来た。
混迷する社会情勢を案じて、心機一転、平穏と安寧を願って改元された。
横浜は変化の早い街だった。
新しい商館が建ち、新しい船が来て、新しい言葉が街に混ざった。
去年聞かなかった言語が聞こえる、というのが珍しくない街になっていた。
そんな春の午後、クレアはヌイに声をかけた。
何か、大事な話があるとのことだった。
「ヌイさん。あなたには、覚えてもらわなければならないことがあるわ」
「覚えること……?」
「ええ。それは“値付け”よ」
ヌイは少し面食らった。
値付けとは、値段をつけること。
クレアが今まで決めてくれていたことだった。
「私が決めるんですか?」
「もちろんよ。
あなたはいずれ独立する。
その時に、自分の仕事の値段を自分でつけられなければならないわ。
――あなたは今、自分の針目にいくらの値段があると思うの?」
「私の針仕事の、価値……。
……一度も考えたことがありませんでした」
「やはり、そうでしょうね。
最近のあなた、仕事が立て込んでいるでしょう?
それは、今まで通りの価格で続けていくには、あなたの技術は優秀過ぎるということなのよ。
贔屓にしてくれているお客様のことを考えると、多少は心が痛む部分もあるでしょうけど、あなたが独立した際には、もう少し良い値段を付けても、誰も文句は言わないと思うわ」
「そういうものですか……」
クレアはヌイを、一人の仕立て屋として見てくれた。
こうして、クレアの商売の授業が始まった。
「まず、素材の値段についてよ。
素材には、仕入れ値というものが確実にある」
「はい。
私が買い付けの使いに行く時に、お支払いするものですよね?」
「そう。例えば、薩摩の絹は横浜で取り引きされる絹の中では、かなり高値な部類なの。
薩摩の絹は上州の絹よりも艶があって発色がいいぶん、仕入れ値も高くなるわ。
それと、ヌイさんがよく使っている、フランスからの輸入物のレースも、特に高価ね」
「いい物を使わせていただいているな、とは思っていました」
「あなたはこれまで、私が仕入れた布で縫っていた。
でも自分で仕入れる時には、何がどのくらいの値段かを知らなければならない」
「はい」
ヌイはクレアの言葉を、帳面に書き留めていた。
「次に、手間賃の考え方ね。
試しに、一着にかかる時間を考えてみなさい」
「そうですね。
仮縫いして、そこから本縫い。
最後に仕上げをして――」
ヌイが話している途中で、クレアは首を横に振った。
「始まりは、仮縫いではないわ。
その前にまず、設計が入るでしょう?
依頼内容によっては、デザインなんかも、かなりの時間が取られるわ。
それに、本縫いに入る前に、私と一緒に何度も細かい修正をしていたでしょう?
そういう時間も、計算に入れるのよ」
「確かに、そういう時間も入れると、かなりかかりますね」
「熱中してると気づかないけど、意外と時間ってかかるのよ。
その全部の時間を合計して、その時間をいくらで売るか。
そこで、最初に言った話が出てくるの。
あなたの時間は、他の針子の時間と同じかどうかという話ね」
クレアはきっと、ヌイの仕立ては他に比べて優秀だ、と言いたいのだろうと思った。
しかし、自分でそのことを言うのが、なんとなく躊躇われた。
「他の針子とは、どう違うのでしょうか?
私には、あまりピンと来なくて……」
「ヌイさんの針仕事は、とても丁寧で、美しいわ。
針目が違う、体に合わせる精度が違う。
――では値段も違う。
自分の技術を正当に評価することは、傲慢ではありません。
それは誠実さです」
「自分の針仕事に、自信を持っていい、ということですか?」
「私が保証するわ。
最後に、横浜の相場についてね。
居留地の外国人と、他所から来る日本人とでは相場が違う。
同じものでも、売る相手によって値段の感覚が変わる。
これは不正直ではなく、相手が何に価値を感じているかが違うから、なのよ」
ヌイは黙って聞いた。
商売の話は、針仕事の話より難しかった。
針仕事には「布地の声を聞け」という惣兵衛の言葉がある。
でも商売に、そういう言葉はなかった。
「どうして、これを今、教えてくれるんですか?」
「ヌイさんは腕がいい。
でも腕がいいだけでは、続けられない。
私が言わなければ、あなたは一生、値段のことを考えずに針を動かし続けると思ったから」
「それの何が悪いんですか?」
「悪いわけではないけど、続けられなくなる。
体を壊すまで働いて、お金がなくなって、針を置かなければならなくなる。
上手に商売を続けることも、職人の仕事のうちよ」
ヌイはその言葉を聞いて、少し黙った。
(商売を続けることも、職人の仕事のうち……)
惣兵衛は死ぬまで針を持っていた。
でも借金が残った。
惣兵衛が商売下手だったからかもしれない、とヌイは思ったことがある。
でも言葉にしたことはなかった。
「今、クレアさんの言いたいことがわかりました。
私に教えてください。商売の仕方を……!」
◇
素材の仕入れを覚える過程が始まった。
クレアに連れられて、港の問屋街を歩く。
倉庫が並ぶ裏通り。
絹の卸問屋、洋物の輸入業者、染料の商人。
今までのヌイにとっては、お使いで通る道、程度だった。
絹の問屋に入ると、反物が棚に積まれていた。
ヌイの手が、自然に伸びた。
触れる。光に当てる。裏を見る。
糸の走り方を確かめる。
「これは上州産です。これは京の西陣。
……こちらは、薩摩の絹ですね」
「すごいねぇ、お嬢さん。
聞いてもないのに、なぜわかるんだい?」
問屋の主人がヌイを見た。
「艶の深さが違います。
光の吸い方が――少し、他と違うんです」
「いやぁ、お目が高い。
今季の薩摩のは特にいい出来で」
ヌイは価格を聞いた。
返ってきた価格は、予想より高かった。
でも納得できる高さでもあった。
「少し考えさせてください」
と言って、一度外に出た。
すると、クレアがヌイに聞く。
「今の店主の話、ヌイさんはどう思った?」
「妥当な値段だと思います。
でも手持ちの量と、注文の見通しを考えてから決めた方がいいと思いました」
「正解。私もそうするわ」
と言ってクレアが笑う。
「半年前のヌイさんなら、その場で買っていたかもしれない」
「そうですか?」
「目が合った布は、すぐ買う人だったでしょ?」
ヌイは少し照れた。
「今も、目が合ったら欲しいとは思います」
「思うだけでいい。買うかどうかは別のことよ」
値付けを初めて自分でやったこの日のことを、ヌイはずっと覚えていた。
◇
数日後、常連のイギリス人夫人から、春の社交会用のドレスを仕立てて欲しい、という依頼が来た。
型紙はヌイが一から引く。
仕上がりを渡す前日の夜、ヌイは値段を考えた。
まずは、素材の仕入れ値。
それと、型紙起こし、仮縫い、修正二回、本縫い、仕上げ――合計でおよそ十八時間の作業。
手間賃一時間をいくらで計算するか。
横浜の相場。
この夫人は払える客か。
(……んー、難しいです)
紙に数字を書いた。消した。また書いた。
そして、クレアに見せた。
「うん。これくらいなら妥当かしら」
とクレアは言った。
「少し高めに書いてみたつもりですが」
「いえ、むしろ少し安い。
でも最初はそのくらいでいいかもね。
ご夫人が引き取りにいらっしゃった時、この価格で提示してご覧なさい」
「え、大丈夫なんですか?
見よう見まねで、初めて設定してみただけなのですが」
「いいのよ。
これがあなたの値付けの出発点だと思って、やってみなさい。
ただし、提示する時は、堂々と。
遠慮しがちになると、相手を不安にさせてしまうわ」
「わかりました。やってみます」
午後になり、依頼主の夫人が店にやってきた。
今、ヌイの技術の価値が試されようとしていた。




