18.神代家
その夜、店に慶一郎が最後に残り、二人きりになった。
ヌイが片付けをしていると、慶一郎が「少し話せますか?」と言った。
ヌイは手を止め、向き合った。
「神代の家への話は、もう始めようと思っています」
と慶一郎は言った。
「すぐにはうまくいかないかもしれない。
首を縦に振らないかもしれない。
でも、諦めるつもりはありません」
「わかりました」
「それだけ伝えておきたかったんです」
「私も、諦めるつもりはありません」
とヌイは言った。
「針は置きません。
でも――あなたのことも、諦めません」
「それは――」と言いかける慶一郎に、「つまり、そういうことです」とヌイは言いながら、赤くなって作業台に向き直った。
「ありがとうございます」
と慶一郎は言った。
「お礼を言われても困ります」
とヌイは言った。
◇
横浜に、秋の匂いが来た。
十一月の空は高く、薄い雲が流れていた。
港に入る船の影が、石畳に黒く落ちた。
居留地の木々が葉を変え始め、風が来るたびに黄色の葉が舞った。
ヌイが窓を開けて型紙を広げると、クレアが来て、ヌイの前に座った。
「ヌイさん、ちょっといいかしら?」
「なんでしょう?」
「あなた、自分の店を持つ気はない?」
ヌイは手を止めた。
「私が保証人になります。
ここで一年半、あなたを見てきた。
横浜で和裁と洋裁の二刀流ができる針子は、あなた一人よ」
「嬉しいですが、私にはまだ早いです」
「なぜ?」
「もう少し、ここで学びたいことがあります。
あと、決めなければならないことが少しあって」
「慶一郎さんのことね」
「はい」
とヌイは素直に答えた。
「いい方向に向かっているの?」
「……向かっていると思います。
時間はかかりますが」
「いい針子は、時間のかかる仕事も仕上げるものよ。
じゃあ、この件は慶一郎さんとのことが落ち着いたら、また話すわね」
とクレアは言った。
それだけで、あとは何も言わなかった。
◇
翌日、ワーグマンが店に来た。
「雑誌に掲載するスケッチが一枚できた。見るか?」
と言いながら、店の扉を開けた。
今日はクレアが通訳をしてくれた。
ワーグマンが帳面を開くと、そこにはヌイの手元が描かれていた。
薩摩のみかんを両手で包む、優しい手だった。
絵の下には『YOKOHAMA NO NUI』と、英語で書いてあった。
ヌイはその文字を見た。
「私の名前が」
「そうだ。あなたは“横浜のヌイ”だ。
居留地でいちばん面白い仕事をしている」
「お世辞でしょう」
「私がお世辞を言う人間でないことは、もう知っているだろう」
「ありがとうございます。
描いてもらえて、よかったです。
――百年後まで、残るから」
とヌイは言った。
ワーグマンの言葉を、ワーグマンに返しながら。
ワーグマンは嬉しそうに笑っていた。
その夜、ヌイは一人で仕事をした。
針を動かしながら、この一年半を、静かに辿った。
番頭の男たちから逃げるように横浜へ来た。
洋服の型紙の前で固まった。
慶一郎と路地でぶつかった。
ワーグマンに手元を描かれた。
ハワイの男にヌイという言葉の意味を教えられた。
薩摩の絹で初めてのドレスを仕立てた。
クレアの夫の帳簿に、惣兵衛の名前を見つけた。
生麦での事件の日に、暗く重い緋色を見た。
御殿山が燃えた夜に埠頭へ歩いた。
薩英戦争の報を聞きながら泣いた。
みかんを受け取った。
――全部が、糸で繋がっていた。
惣兵衛の生きた証が、この一年半を縫い合わせていた気がした。
◇
ヌイが横浜に来てから、二度目の冬が来た。
文久三年の暮れ、横浜は静かに年を越そうとしていた。
薩英戦争の講和が成立してから、居留地の空気は少しずつ落ち着いてきた。
いや、“落ち着いた”というのは正確ではないかもしれない。
緊張が消えたわけではなく、緊張の種類が変わったというのが正確だろう。
今までは、日本と外国の対立構造が目立っていた。
しかし、最近では、国内でも大きく二つの派閥に分かれている――攘夷か開国か。
ここで言う“攘夷”というのは、外国の勢力を武力で打ち払い、日本を守ろうとする考え方のことである。
日本の刀が、どこか内側に向き始めていたのだ。
ヌイはクレアの店で、今日も針を動かしていた。
ここ一か月くらいで、急に仕事が増えていた。
「ヌイ、最近頑張り過ぎじゃない?」
仕事中にカーリーが話しかけてきた。
「お仕事を頂けるのはありがたいことです。
私はただ、それをこなすだけです」
「すごいなぁ……。
近頃来るお客さんは、みんな揃いも揃って『おヌイさん、おヌイさん』だもんなぁ。
仕立て屋でご指名なんて、聞いたことないよ」
居留地の外国人からの注文だけでなく、日本人からの問い合わせが少しずつ来るようになっていた。
異人の服を仕立てる日本の針子がいる、という評判が、どこからか広まっていたらしい。
おそらく、ワーグマンの雑誌『ジャパン・パンチ』に掲載された、『YOKOHAMA NO NUI』のスケッチが、そのきっかけの一つなのだろう。
しかし、ヌイ自身は評判を気にしていなかった。
目の前の布。目の前の針目。
それだけを見ていた。
その夜、慶一郎が珍しく遅い時間に来た。
クレアはすでに奥へ引き取っていた。
カーリーは帰っている。
店にはヌイと慶一郎だけだった。
慶一郎は作業台の前の椅子に座って、何かを書いていた。
ヌイは仕事をしながら、その様子を隣から見ていた。
(手紙……?)
横書きの文字ではなく、縦書きの日本語。
丁寧に書いているが、時々止まる。
書いた行を眺めて、また止まる。
次のページにいかないまま、止まる。
「ダメだ。なんと書けばいいやら……」
慶一郎は、そう言って、書きかけの紙を丸めた。
「長崎のご実家へのお手紙ですか?」
とヌイは聞いた。
「……はい」
「私のことについてですか?」
「それもあります。
あとは、父の様子を聞く文を」
「お父様は、ご無事なのですか?」
ヌイは手を動かしながら、さりげなく聞いた。
「……今も、まだ行方はわかっていません」
「……そうでしたか。
ご無事だといいのですが……」
ヌイは針を布に刺したまま、少し止まった。
それ以上は、聞かなかった。
聞けなかった、というのではない。
聞かないことを、選んだ。
慶一郎には言える時に言う部分と、言えない時には言えない部分がある――それをヌイはもう知っていた。
『待つことは、何もしないことじゃない。
糸を緩めずに、張り続けること』
というクレアの言葉を思い出した。
待つことは諦めではない。
ヌイは、しばらく黙って針を動かし直した。
慶一郎も時折ペンを止めながらも、着実に進んでいた。
そして、
「ふぅ、今日はこの辺にしときます」
と、慶一郎はペンを置いた。
「お手紙、順調ですか?」
「……なかなか難しいです。
書きたいことと、書けることが、合わないので」
「手紙というのは、難しいですね」
「手紙の検閲もありますが故、思うように書けないのです」
二人の間に静かな時間が流れた。
夜の居留地の外から、港の音が聞こえていた。




